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フランスのひきこもり当事者インタビュー 第2弾 ギードの場合 第4回「信念をもってひきこもりになった?」

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「クレアモン・フェランのモントロシエ通り」Photo by Wikipedia
ギード「ぼくが通っていた眼科がこの近くにある」


インタビュー・文・ぼそっと池井多

 

 

 

前回まで、3回にわたってフランスのひきこもり、ギード君へのインタビューを連載してきました。

第1回 「ひきこもりだって恋をする!

第2回 「親との関係、そして支援

第3回 「なぜひきこもったのか

 

ご愛読いただいた、たくさんの読者のみなさまに感謝いたします。

寄せられたコメントの中で、一つ私の心にひっかかるものがありました。 

でも、ギードは信念をもってひきこもったんでしょ。
彼はひきこもりになりたくて、
ひきこもりになったんじゃないの?

 

なるほど、そのように解釈されるのは無理もないことです。

だって、ギード自身が第3回の終わりの方で、こんなことを言っているのですから。

 
ぼくはさびしさが好きなんだ。
ぼくは独りでいたいんだ。
ぼくはひきこもりでいることが大好き。
毎日、ぼくのひきこもり部屋のなかで
けっして飽きることがない。

すべてのひきこもりの人がこうかどうかわからないけど、
ひきこもりであることは、
まったくぼくを困らせない。

ぼくはひきこもりであることによって、
自分の豊かな時間を開拓し、
時間の制約なくいつでも好きなことができる。
 

しかし、彼が「信念」をもってひきこもったと言い切ってしまっていいのだろうか…?

私のなかに懸念(けねん)が残りました。

なぜならば、私自身がよく

「あなたは信念をもって、ひきこもりをやってるんだよね。

だから自分とはちがう」

と、他のひきこもりの方に言われるからです。

そのようにシャッターを下ろされるたびに、私は違和感を味わっています。

 

この違和感は、いったい何だろう?

 

これを機会に、その正体を知りたいと思いました。

そのために、一度は連載を終えたはずのギードに、私はまたコンタクトを取ったのでした。……

 

 

ぼそっと池井多

彼らは言うんだ、「ギードは信念をもってひきこもったのだろう?」と。

私は、ちょっと違和感をおぼえざるをえない。

なぜならば、私自身がよく同じことを言われるからだ。

 

君と私は、そこに共通点がある。これは重要な問題だ。

だから、私は君の場合に自分の違和感を映し出してみた。

もし、私の解釈が君の場合を反映していなかったら、遠慮なく言ってくれたまえ。

 

私の違和感はここからくる。……

もし「ギードは信念をもってひきこもりになった」というのなら、それは、君が意志をもってひきこもりになりたいと願い、結果として今、ひきこもりになることに成功した、ということを意味するはずだ。

なるほど、君はひきこもりでいることが大好きだという。

しかし、だからといって、それをもって人が、

「彼は信念をもってひきこもりになった」

と言ってしまうと、何か重要なプロセスがそぎ落ちてしまうのではないか。あまりにも単純化されすぎてしまうのではないか。 

 

私の解釈はこんな感じだ。……

君は、ひきこもりになんぞ成りたくはなかった。

君は、ひきこもりを天職だと思ったこともなかった。

言い換えれば、「ひきこもりになる」ことは、君にとって、はじめは目標ではなかったはずだ。

君は、ひきこもりになろうと自らを賭けたことはない。

たとえ今、ひきこもりであることに自らを賭けているとしても、だ。

 

君は、「ふつうの人たち」が織りなす社会に自らを適応させようと全力で努めた。でも、できなかった。そのプロセスは、さぞかし苦しみに満ちた茨の道であったことだろう。

 

「信念をもってひきこもりになった」
と言ってしまうと、この茨の道で受けた傷が報われないのだ。

なぜ、「ふつうの人たち」の中へ入るための君の試みが
いつもいつもうまく行かないのかを、君はよくよく考えたはずだ。

考えているあいだに、君自身の特徴と、「ふつうの人たち」が織りなす社会の特徴を、君は客観化し、分析してみたのにちがいない。

君は、それら二つの特徴群をしげしげと見比べた。
そして、「ふつうの人たち」の社会へ入らず、ひきこもりとして生きていく方が、君にとって人生が価値あるものになると結論づけたのではないか。

こうして君は、「ふつうの人たち」の社会に入れなかったことを受け容れたのだ。
この受容の部分が、ある種の人々にとっては、
君がひきこもりになるに当たって持っているとされる
信念
に映っているのではないか。

私は君を誘導尋問にはかけたくない。
君は、私の仮説に左右されず、君の考えを述べて聞かせてほしい。

 

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「クレアモン・フェラン 夜のジョード広場」  Photo by ウィキペディア

ギード

あなたの解釈はまったく正しいです、ぼそっとさん。

ぼくは自分を社会の一部にしたかったんだ。
まともな社会生活を送り、
実生活でかわいい彼女も作って、
社会の中に自分の居場所を獲得したかった。

 

ぼくは子どものころ、
つねに政治家か科学者になって
活躍したいと考えていたものさ。

 

ぼくは、自分の知性を
何か社会的・具体的なことへ利するように使いたかった。

 

でも、外の世界は、不幸にも、
ぼくが夢見ていたような、
このようにのどかな牧歌的なものからは、ほど遠かったのだ。

 

ぼくは、自分が弱いとは考えていない。
ぼくは、たんに自分が社会で生きていくだけの
強さがないからひきこもった、とは考えていない。

 

ぼくがひきこもったのは、
社会がそこまで苦労して適応するに値しない、
空っぽの世界だという認識に達したからだ。

 

そういう過程を経たうえで、
のちに突然、自立したひきこもりになることが、
ぼくのゴールになったのだ。

 

なぜならば、ひきこもりになれば、
この世界のバカバカしさから、もう苦しめられなくて済むから。
じつは、人々よりもぼくを恐れさせるのは、
人々が持つ無限の愚かしさなんだ。

 

 

・・・この記事のフランス語版 

・・・この記事の英語版