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たくさんの『一人ぼっち』がいる~孤独度No.1の日本で~

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(文・喜久井ヤシン)

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イギリスが「孤独担当相」を設立

 2018年1月17日、英国で「孤独担当相」の新設が発表された。別離や引退など、人生のさまざまな節目で孤独は多大なストレスを与える。それは喫煙習慣や肥満に結びつき、国民の健康問題となることから、経済的な損失ともなっている。英国のテリーザ・メイ首相は、「あまりに多くの人たちにとって、孤独は現代における悲しい現実だ。お年寄り、介護者、愛する人を失った人、考えや経験を分かち合う相手がいない人たちが抱える孤独に対処するため行動したい」と述べている。

 

 私はこのことを報道で知って、現代的で面白い着眼点だと思った。日本で「ニート対策」や「ひきこもり対策」と言っても、それは対象が限定的だし、目的は人を納税者にすることで、どうやって外に出て働かせるかという話が目立ってしまう。英国が課題にしたのは国民全体の「孤独」についてで、誰もがこの問題の当事者になりえる。

 

 私は十代から二十代の長い期間に、人との交流を控えて、何年ものあいだ一人ぼっちで過ごしていた。「ひきこもり」といっていい期間だったし、今でも一人で過ごす時間の長さからすれば、十分に「ひきこもり」な生活をしている。友達や恋人をつくって、どこかへ出かけていくのは楽しいものだとは思う。けれど新たな場所へ行き、新しい人と出会うことには大きな恐怖があって、あまりにもエネルギーを使いすぎる。私にとって他の誰かと会うことは、何が起こるかわからない、不規則で危険な状況に陥ることだ。どんな顔をしてどんなことを言ってくるのか、一瞬先も予測することができない、恐ろしいカオス理論に入り込んでしまう。どういって伝えるのが正確かわからないけれど、もしかしたら相手は、見たことも聞いたこともない言動を秘めた、異質な化け物かもしれないと思える。「ふつう」にふるまおうとする私を未知の方法で責めて、人間失格であることを宣言するような否定が起こるかもしれない。……社会に出て多くの人と対面する人たちは、他人という恐怖に見舞われることがないのだろうか。私が「ひきこもり」であるにしても、それは危険(リスキー)なことを避けて身を守ろうとする、自然な防衛反応があると言いたい。

 日本の「孤独度」は先進国中ワースト

 私には、一生涯まったく「ひきこもり」にならないことの方が不思議に思える。実際、孤独に関する統計の国際比較で、日本は突出して異様な結果を出している。


 古い調査になってしまうけれど、たとえば「世界価値観調査(1999-2002年)」には、OECD経済協力開発機構)諸国の「孤独度」の比較が出ている。そこでは、「友人・同僚・宗教・スポーツ・文化グループ」といった仲間とのつき合いが、日常的に「ほとんどない」「まったくない」と答えた人が日本は15.3%おり、先進国で最高となっている。世界平均だと6.7%、最も低いのはオランダの2.0%だった。「ひきこもり」でなくても、日本人の社会的な孤立が目立つ結果になっている。


 また、国連児童基金ユニセフ)が2007年におこなった「幸福度」に関する調査がある。15歳以下の意識調査で、「孤独を感じる」と答えた日本の子どもは29.8%。次にアイスランドの10.3%、ポーランドの8.4%が続くという結果で、日本が先進国中ダントツの高さだった。

 

  街に大勢の人が行きかっていても、テレビやネットが騒がしく響いていても、その内実にはたくさんの孤独があると思われる。J-ポップの歌詞などに「あなたは一人じゃない」という言い回しがあるけれど、それはたぶん半面で当たっている。一人ぼっちの私が誰かとつながって、それで自分が一人でなくなる、という意味ではない。私も一人だし、他の誰かも一人だしという世界で、「一人ぼっち」が何人も生きている、その点で「あなたは一人ではない」とは言える。たくさんの「一人ぼっち」がいるなら、「一人ぼっちの私」は一人ではない、という聞き方もできる。

孤独から孤独へとつながる出会い

 数え方によっていくらでも変わると思うけれど、一説によれば「ひきこもり」は全国で約70万人いるという。高知県の全人口にあたるほどの数だけれど、私はこの膨大な人数にどこか安堵する思いが湧く。環境も状態もバラバラであれ、そこにはたくさんの孤独があり、人への警戒心とか疲労感とかの、私と共通の悩みを味わっている人がいるだろう。

 会社や学校のような共同体ではあきらかに、明るくハキハキとした人が好まれている。「コミュニケーション能力」とか、「社交性」とか「外交的」とかいうそれらが価値あるものとしてあり、社会人の評価につながっている。けれど私は「誰とでも友達になれる人」なんて信じられないし、全員が社交的でいなければならない世界なら、自分が出ていけるとは思えない。


 もしも公的なものに加わるために、「強くなれ」とか「勇気をだせ」なんて言われるなら、私の場合励ましとは反対の効果になる。痛みも怖さもなくなる人間でなければならないなら、そんな世界はなおさら出ていきたくない。孤独をないものにするような社交性とか強さではなく、むしろ「私も恐い」「私も一人だ」と伝えてくれる存在に、私は安堵する。

 

  ハキハキとした言葉と笑顔で、疑いなく投げつけられる「コミュニケーション」の暴力性は恐ろしい。私が交流できると思えるのは、厳粛なくらいにおずおずと、憂慮しながら差し出されるか細い言葉の方だ。そこにあるのは、高い「コミュニケーション能力」で、寂しさも怖さも知らないような社交的なふるまいではない。人と会うことの痛みも疲れも知っている、身に覚えのある孤独を知っている「一人」だ。そしてこの国の社会が「孤独度」世界一で、約70万人の「ひきこもり」がいるなら、そのような人と出会う可能性は最も高いといえる。


 「孤独」に対して、元気に人とつながっていけというのでは、私は動き出せない。それぞれの人が弱さやおびえを含んだ「孤独」を抱えていると思えた時に、私の誰かと出会える萌芽はまかれる。そんな時であるなら、「あなたは一人じゃない」と歌う楽天的な曲を、すこしばかり聞いてもいいように思える。