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小説 「遊べなかった子」 #01 居られなかった家

 

ひきこもり当事者・喜久井(きくい)ヤシンさんによる小説「遊べなかった子」の連作を掲載します。12歳の少年みさきは、海の上をただよう〈舟の家〉に乗り、行く先々で奇妙な人々と出会います。さびしさやとまどいを経験していくなかで、少年はどこへたどりつくのか……?時にファンタジー、時に悪夢のような世界をお楽しみください。(「ひきポス」編集部)

 


遊べなかった子 #01 / 文・絵 喜久井ヤシン 着色 PaintsChainer



   居られなかった家

 


 牛の乳液を混ぜたような、やわらかな色の海だった。水平線のかなたまで波もなく、さくら色の空がやさしく包むように海洋を照らしている。そんな果てしない海の上に、みさきの家が一軒だけ、ぽつりと浮かんでいた。こじんまりとした木造の二階建て。波は押し流すことも沈めることもせずに、みさきのいる〈舟の家〉を、不思議な力で海上にとどめている。
 みさきは二階の子供部屋で、昼ちかくなってから目を覚ます。眠りについた時よりも大きくなったベッドがあって、みさきは足をのばして床におり立つ。素足のままで一階のリビングにおりていくと、〈舟の家〉があいさつをする。
 「おぉはぁよう」というにぶい声に、
 「うん」と、みさきはあいづちだけをかえす。毎日の変わらない光景だった。リビングのテーブルには、〈舟の家〉が用意した料理がきれいに置かれている。いつどうやって作っているのか、みさきにはわからない。料理はいつも泡のようにできあがっていて、みさきが食べ終わると、また泡のように自然に消えていく。この日はごはんにミルク、スクランブルエッグとベーコン、デザートにイチゴ。みさきの食べたいものなら、〈舟の家〉がいくらでもだしてくれる。このあいだは、「十二歳の誕生日、オメデトウ!」というチョコレートのプレート付きの、大きなホールケーキがあった。でもみさきには量がありすぎて、いくら好物でも食べきれなかったけれど。それに、〈舟の家〉がみさきのためを思って変える家具や家の大きさは、いつもちょっとずつズレていた。
 「今日はベッドが大きすぎだよ。このイスだって、高すぎて足がつかないだろ。ちゃんとしてよね」
 みさきが文句を言うと、〈舟の家〉は、
 「ごぉめん、ごめんん。あぁしたぁは、小さくするからぁ」と、建物全体から出す声で答えた。
 「きょうも、ゆぅっくり、すごして、いてねぇ」
 〈舟の家〉は毎日、みさきが安らいで過ごせるようにがんばっていた。家の中はいつでもきれいに片付けられている。フローリングの床も、テレビの置かれた棚もピカピカで、花瓶にはチューリップが飾られている。みさきが〈舟の家〉に何かを欲しいと言えば、室内のどこかに欲しい物が現れるのだった。月曜日には最新のマンガ雑誌があるし、ゲームソフトを要求すれば、床から生え出るようにして、テレビのそばに出てくるのだ。みさきが「暑い!」と訴えれば、家は窓を大きくして風通しを良くした。反対に寒すぎるときには、壁を分厚くしてみさきを守る。ただし失敗することは多くて、窓がはずれてしまったり、部屋のかたちがゆがんだりしていた。
 「もう、何にもわかんないんだから」
 とみさきが不満を口にするたびに、〈舟の家〉は、
 「ごぉめんねぇぇ」
 と何回もあやまるのだった。

                         

 みさきの毎日は、慎重に、平和に過ぎていく。昼前に起きだして、昼食を食べ終わったら、そのあとでゲームをする。今ハマっているのはRPGのソフトで、もう100時間くらいはやっていた。疲れたらテレビを見るか本を読むかして、気まぐれに子供向けの新聞を読む。そうこうしていると夕食の時間になって、また〈舟の家〉がいつのまにか作りだしている食事をとる。食べ終わったら食器をほったらかしにして、テレビを見るか自分の部屋に戻るかする。シャワーをあびて、歯を磨いて、パジャマになって、眠りにつく。よく家の形が変わることをのぞけば、毎日毎日の、みさきの変わらない過ごし方だった。
 みさきのいる海はおだやかで、何ヶ月か、もしかしたら何年も、平らになった朝と夜が回り、知らないうちに月日がめぐっている。波間には海が発酵したような潮の粒がよどみをつくっていて、海の下では知られることのない生き物たちが、古生物代からの長い眠りについていた。時間から取り残された者たちの世界が、この潮流のない海にはあるのだった。毎日毎日が、桃色の空に照らされて、〈舟の家〉をめぐりめぐっていく。海もとろりとしたやわらかさで〈舟の家〉を支え、どこにも去っていかないよう、海の上につかまえていた。


 けれどある日の午後三時のこと、大事件が起きた。外は見わたすかぎりの水平線だというのに、いきなり家のチャイムがなったのだ。みさきは避難警報が響いたみたいに、サッと血の気が引き、身を縮めた。玄関の外に誰か、生きている人の気配がする。みさきは最後に他の人と会ったのが、もうどれくらい前になるかわからない。みさきは玄関や窓から遠ざかるようにして、リビングのソファの影に身をひそめた。もう一度大きなチャイムの音が鳴った。みさきも〈舟の家〉も答えずに、沈黙したままだった。外からの物音は聞こえない。長い時間が過ぎて、みさきは日が暮れる時間まで隠れて待った。日没の空は血のように赤い。誰かの気配が消えてから、みさきは玄関の外をのぞいた。見わたしても誰もいない。外はいつもどおりの果てしない海洋が広がっていて、水面がのんきな薄波をたてている。海はゼリーのように複雑なやわらかさと硬さで、誰も歩いてこられないはずだった。
 「今の、誰だったの」とみさきが言うと、〈舟の家〉は柱をこわばらせたようだった。
 「誰だってここには入れないよ。絶対にドアを開けないで」とみさきは強く言った。
 〈舟の家〉は「うぅん、うぅうぅん」とうめき声をあげた。もしかしたらあやまっているのかもしれないけれど、みさきには聞き取れなかった。
 その日以来、〈舟の家〉は具合を悪くしたようだった。壁や天井が丸くたわんだかと思えば、廊下を歩くじゃまになるくらいにギザギザ尖る日もあった。みさきは巨大化したテレビ台と、座布団みたいに平らなソファのせいで、首が痛くなるくらいに見上げてゲームをした。トイレは大きくなりすぎて、便座によじのぼり、落っこちないように注意しながら用を足さねばならなかった。
 「最近ひどいぞ、いいかげんにしろよ。今日のマンガだって、ぼくの欲しいやつとは違ってた!」
 〈舟の家〉はうろたえて、
 「ごぉぉめんねぇぇ、ごぉめぇんんねぇ」と何回もあやまった。〈舟の家〉はみさきに何も言い返さない。それでも具合の悪さは治らず、みさきの日々はなおさら過ごしづらくなっていった。

                  


 ある夕暮れのこと、みさきはベッドの息苦しさで目を覚ました。子供部屋全体が縮こまっていて、体をきゅうくつに押し付けていたのだ。
 「ぼくをつぶす気か。こんなんじゃ昼寝もできないだろ」
 みさきはへこんだ天井に手をあてて、ベビーベッドのような大きさになっている寝床から這い出た。はいつくばって子供部屋のドアをくぐり抜けると、階段より下はやけに広くなっていた。壁がペラペラの紙みたいになっていて、天井のすみの方では、海風にはためいた壁のすきまから、夕焼けの色の空が見える。
 みさきはふと、反対側の壁もめくれあがっていることに気がついた。その先には外しかないはずなのに、もう一部屋あるみたいに、壁と天井が見えている。みさきはフローリングを歩いて、壁の先を見た。そこにあったは、みさきの見たことのない異様な和室だ。部屋中に、びっしりと時計が張り付いている。大小、デジタル、アナログ、柱時計、丸時計。壁や天井を覆う、大量の時計、時計、時計だった。普段ゲームをしたりテレビを見ているリビングのすぐ横に、こんな部屋があったなんて。波の音だと思ってこれまで聞いていたのは、もしかしたら大量の時計の秒針音だったのかもしれない。みさきはその光景にゾッとした。
 「おい、お前はずっと、こんな部屋を隠してきたのか。ゆっくり過ごしていろって口では言ってたくせに、やっぱりお前も、ぼくが立ち止まったままじゃいけないっていうのか」
 みさきが低い声を出して言うと、〈舟の家〉は黙ったまま、リビングや廊下の壁をざらつかせて、細かなトゲを大量に作りだした。天井や壁面が大きくゆがんで、みさきを拒否するような形になった。
 「いいかげんにしろよ。お前はぼくを守るんだろ。ぼくの過ごしやすい家でいろよ」
 ソファもテーブルもいびつな形に変わり、部屋の中にみさきのくつろげるものは一つもなくなった。床がかたむいてテレビ台がずれていたし、中のゲームソフトもバラバラだ。リビングの丸時計は破裂せんばかりにふくらんで、壁を覆うほどに巨大化した。包丁みたいにとがった長針が、みさきの顔の方をまっすぐに向いた。

 みさきは、早く行動しなければならないと思った。こわいものなんてないみたいに長針をよけて、真顔のまま時計だらけの部屋に入っていく。みさきは手近なところにある、貝のように壁に張り付いていた時計一枚をはがした。時計を持って部屋の隅の方へ行き、ペラペラになった壁のすき間から、海に向かって乱暴に投げつけた。時計はしばらく海面に浮かんでいたけれど、ゆっくりと水に飲み込まれていき、見えない水底に沈んでいった。みさきは冷静だった。一つ一つの時計をはがし、海に捨てることをくり返していく。単純な運動をつづけるみたいにして、みさきは時計を捨てていった。
 そのあいだにも、〈舟の家〉は混乱して、めまぐるしく形を変えていた。天井はドロドロに溶けて鍾乳洞のようになり、廊下は曲がりくねって先が見えなくなった。
 〈舟の家〉はようやく口をひらいた。
 「ごぉぉめんねぇぇ、ごぉめぇんんねぇ!」
 〈舟の家〉があやまっても、家は液体になったみたいにぐちゃぐちゃなままで、コントロールされていなかった。みさきは黙々と動きつづけて、和室にあった何十という時計を海に捨て去った。部屋はもうからっぽで、秒針の音も聞こえない。みさきは表情を変えずに、自分の部屋に戻ろうとした。戻る途中、座ることのできなくなったいびつなイスを、リビングのテーブルの上に放り投げた。イスは木製のテーブルの上を弾け飛び、チューリップの花瓶が割れた。みさきは背を向けて、リビングから去っていった。大きな空は燃える夕暮れの色のままで止まっていて、みさきのいる世界を強い光で照らしている。もう〈舟の家〉は言葉をなくし、何も語りかけることはなかった。
 みさきは子供部屋に入って、ゆがんだベッドにつっぷして眠ろうとした。壁が薄くなっているせいか、波のないはずの海から、潮の流れるようなとどろきが響いている。おだやかだったはずの海は、〈舟の家〉をはじめて異物とみなすみたいにして、建物をギシギシ鳴らしていた。

         

 

 次の日、みさきは夕方になって目が覚めた。ベッドも部屋も適度な大きさで、みさきの体にあっていた。パジャマのままで一階へおりていくと、完璧に片付いたリビングがある。壁も窓も、机もイスも、テレビも花瓶も、きれいに整えられていた。陽ざしのさし込む、静かな夕暮れの部屋がある。テーブルに置かれていたのは、ごはんにみそ汁、鮭とキャベツにトマトのサラダ、冷蔵庫にはプリンもあった。完璧な食卓の光景だった。みさきはちょうどよい高さのイスに座って、何も話すことなく食事をした。白いレースのカーテンが、わずかに開いた窓から来る海風に揺れる。みさきも〈舟の家〉ももうわかっていた。どれだけ完璧な家があっても、大事なものは手に入らないと。それでも、みさきの一日は過ぎていく。永遠にかたまってしまったような桃色の空の下、誰も傷つけないおだやかな海の上で。

 同じところをグルグルと回る舟のように、みさきは同じ一日をグルグルと回るような歳月を過ごした。日々はくり返されて、みさきは慎重に、こわれることがないように、緊張しながら、変わらない一日をくり返そうとしていた。
 ただ、一つだけ同じではあれないことがあった。ほんのわずかだけ、海が波をおこして〈舟の家〉を押しはじめていたことだ。波が動かしているというよりは、乳房にふれるようにして、ゆるやかな弾力のせいで同じところではなくなる、というぐあいに。みさきのいる〈舟の家〉は、少しづつ海の上を動き出していた。

   つづく

 

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