(著・ゆりな)
ひきこもりの集まりに参加した帰り道、
私は、1つの言葉を反芻していた。
当事者の私が、ひきこもり界隈に参加し始めたのは去年の冬。
経験者の話を聞きたい
抱え続けているツラさを話し、自らの過去を客観的に捉えたい
自分と似た傷をもつ人と、思いを共有したい
その一心で経験者たちの輪の中に飛び込んだ。
参加してみると、周りの方たちは気を遣って話しかけてくれたり、話題をふって私の話に耳を傾けてくれた。
でもどうしても、当事者と経験者の間になにか上下関係のようなものを感じてしまう。
それは、ひきこもりを脱出しきれていない私自身の気持ちの問題なのか、経験者が放つ眩しさなのか。
この、暗黙の了解のような、見えない縦の関係に、私は奇妙な怖さを抱いていた。
私はその恐怖で再び、心を閉ざしてしまいそうになった。
しかし、「自分を変えるためにここに来てるんでしょ?」と自問自答を繰り返し、集まりに顔を出し続けた。
どん底と快方のすれ違い
そしてある経験者の何気ない本音が、私を1つの答えへと導いてくれた。
「ひきこもりだった頃から時間が経つと
過去をだんだん忘れてしまって、気持ちを表現することができなくなっていく」
私は、この言葉にハッとさせられた。
なぜ引きこもったのか。
今の自分を形作ったのは、本当に自分だけのせいなのか。
経験者の皆さんは、自らの半生を俯瞰し、考えの歪みに向き合っていた。
そうやって自己治癒する途上で、自分よがりな価値観から、社会へ歩み寄った価値観に近づき、生きづらさが薄れていく。
自立へ向かっていくほど、ツラかったときの気持ち、過去の記憶を忘れていく……
私の感じた恐怖は、人の自然な感情の営みから生まれたものだった。
当事者と経験者の溝は、苦しみのどん底に向かう者と、社会との接点を持つために快方へ向かう者の、感情のすれ違い。
当事者にとって、現実を受け入れるには時間がかかる。どうにかしなければ、と焦るほど神経は擦りきれ、摩耗し、感情を起こすことさえも面倒になって、自分の人生なんてどうでもいいと生存権を放棄する。
経験者は、自らが当事者だった頃の気持ちを話し、少しでもその人の苦しみに寄り添えればと行動を起こす。
けれども、時が経てば感情は風化し、自らの現状が良くなればなるほど、過去を美化したくなる。
両者の間にある溝は埋まらないのではないか。
経験者に、私の苦しみは届かない。
当事者と経験者は、表面上でしか関わりあえないのか…
引きこもりの会に参加すれば、傷の痛みを分かち合い、生きていくために互いに励まし合えると思っていた。
しかし、現実にそんな綺麗な世界は存在しなかった。
自分が理想とした世界はどこにも存在しない。
もう生きていけない。
一生、孤独なんだ。
私は絶望した。
息苦しくなり、熱を帯ながら、頭が真っ白になった。
いつしか一歩を
しかしふと、自分自身に立ち返ってみた。
集まりに何度か参加するうちに、私は自分の気持ちの変化を、微かではあるが感じるようになっていた。
今回は何が得られたかなと、帰り道は1人反省会をした。
今までなら
「不幸でいたい」
「私はこの世で居心地悪く生きてなきゃいけないんだ」
そんな強迫観念が、私の生きることへの執着心を殺いでいた。
ところが、いつしか
「自分はどうやったら生きやすくなるだろう」と考える癖がつくようになっていた。
いくつもの振り返りを重ね、考え方が良い方へ向かっていった。
参加した日から時間が経ち、日常を過ごしていても、印象に残った言葉、その人の表情は何度も思い出され、自分のなかに新しい価値観を芽生えさせてくれた。
つまり、私も自己治癒の一歩を踏み出していたのだ。
気付けば、自信を殺いだ記憶は断片的になり、その過去を無かったことにしようとしている。ツラかった出来事を、私の脳は忘却する部類として処理しようとしていた。
「私も経験者と同じ快復の道を歩み始めている」
そう思えたとき、私は絶望の底から抜け出せた。
確かに、記憶を忘れてしまったら、人に共感することは難しくなっていく。
私が置き去りにされた気分になり、孤独を感じたのも本当だ。
でも、もしこの記憶の忘却が、人間として逆らうことができない摂理なのであれば、
私はこれから、その孤独と向き合わなければならないのではないか。
そう思った。
この出来事を通して、
私は、孤独と折り合いをつけながら生きていくことがどういうことなのか教えてもらった気がする。
どんな生き方をしても、
感情を共有できたとしても、孤独なんだ。
そう覚悟した瞬間、自分の中に立ち返れる原点がひとつ増えた。