ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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ワケあり女子のワケのワケ② “母”という名の子ども

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実家近くの温泉街にて。荒れた空き家の店先に閉じ込められたボロボロの人形に、幼い頃の自分をつい投影してしまう。(撮影・ワケあり女子)

こんにちは、ワケあり女子です。連載にあたり新しくはてなIDを作りました。

これを機に過去の恥ずかしいブログを全て遺品整理しました。あー恥ずかしかった。

連載1回目でまだ8歳までしか書けてないことに衝撃を受けてます。
「コイツ本当にひきこもるのかよ」と怪しんでる方、すみませんちゃんと立派にひきこもりますのでご安心ください(?)

それでは「ワケあり女子のワケのワケ」、第2回目もどうぞお楽しみください! 

 

www.hikipos.info

私が小学2年生の時に郊外に引っ越した我が家だったが、
豊かというよりむき出しの自然とか、
飽きもせず吠え続けるポメラニアンでごまかせるほど我が家の不穏は甘くなかった。

父親は職場や繁華街から離れた自宅にますます帰ってこなくなり、
母親は住み慣れた市内や実家を離れて交友関係が希薄になっていった。

目立つのが怖かった

転校生となった私は、新クラスでの初日の挨拶で微妙な空気を感じ取った。

福井県内でも比較的都市部にあった以前の学校と違い、
「よそ者を警戒する」気配がそこはかとなく漂っている、気がする。
転校生というだけでただでさえ目立つのに、目立つ容姿で成績も優秀、
そして何より、名前が目立ちすぎた。

「目立つよそ者はいじめられる-。」

そう直感した私は、ひたすら気配を消そうとして学校でほとんどしゃべらない子になった。
勉強は大好きだったので変わらず成績は良かったが、決して自慢などしなかったし、
むしろ必死に隠そうとしていた。

しかしどうやら何をしても目立ってしまう性分なのか、
私のことはあっという間に学年中に知れ渡った。
勉強だけでなく音楽も得意で、絵を描けば廊下に貼り出され、
習字でも何度か賞をとった。

おかげで教師たちにはすぐに「よい子」と認知された。

学校で誰とも話さなくても、
給食を食べるのが極端に遅くても、
(母との食卓問題は相変わらずで、その頃には食事をすることが苦痛としか思えなくなっていた)
成績さえよければ学校側はそれらを問題行動だと全く認識しない。

「優等生」というレッテルが私の本質を隠した。
誰も私の家族の歪みに気づいてくれなかった。

地域に溶け込めない

私の越してきた集落は戦後開拓によってできた比較的新しい村であるようで、
学齢期の児童がいる世帯は数十世帯中ほんの数件でしかも親戚同士だった。
同学年は私しかおらず、期せずして私はその村の学齢児童の最年長になった。
同級生が住む最も近い隣の集落まで、子どもの足では数十分かかるような場所だった。

学校には町営兼スクールバスで通っていたが、
行きは15分程度で済む距離なのに帰りは1時間近くかかった。
帰路はなぜか遠回りして、別の地区の別の小学校の児童を後から乗せて先に降ろすのだ。

その小学校は当時の町長の出身小学校で、
任期中に古い校舎が児童数に比してやけに立派に建て替えられたりしていた。
彼の孫である児童が友人たちとそのバスに乗っては降りてゆく姿を毎日眺めながら、
暗くなってゆく空と同じくらいどんよりとした閉塞感や、
世の中の矛盾のようなものと常に戦っていた。

福井と石川の県境にあるその集落は、
とある民間伝承から取られた少し変わった名前をしていて、
一度ズームイン!朝という当時の人気番組が取材にきたことがある。
「全国の変わった名前のバス停特集」というような趣旨だった。

ほんの数分だけ放映された後の映像では、
「子どもたちが通学に使う楽しいバス停です」とのん気に紹介されていた。
「何も知らないくせに」と思った。
近所の公園で級友と遊んだ転校前の生活を何度も思い返した。

子どもに育てられていた

クラスメイトの語る家族のあり方と自分のうちは
どうもやっぱり様子が違うと感じることが増えてきた。
「今日学校で何があったの?」と母に聞かれたことは一度もない。
私の友達の名前を何人言えるか今でもあやしい。

母は常に自分の話をした。
機嫌のいい時、それは職場で起きた些細な出来事の報告が主だった。
機嫌の悪い時、それは父の悪口や私への非難に変わった。

私は足音とドアを開ける音でその日の母の機嫌と行き先がわかるようになった。
静かな田舎に引っ越した我が家の緊張感は増していた。

「お前は一人っ子で甘やかされている」というのが母の口癖だった。
母自身は三人きょうだいの末っ子で、何事も我慢してきたからという理屈らしい。
今思えば私は母に甘えたことなど一度もないが、
当時は「そうか自分は甘やかされているのだ」と素直に受け取り傷ついた。

そうかと思えば、必要以上に私の世話を焼いた後で
「お前が自分で何もできないからだ」と私を罵ることも多々あった。

小学6年生の時には、父親不在の子育てによるストレスを泣きながら訴えられたこともある。
初めての子を一人で入浴させねばならない事態がいかに不安で負担だったかを彼女は叫んだ。

それって当の本人に言うのはどうなのとさすがに当惑したが、
そうは言わずに私はただ「大変だったね」となだめた。
これじゃどっちが子どもかわからないと思った。
私は子どもに育てられていたのだ。

こうした悩みを相談できる友人が母にはいなかったのだろう。
引っ越し先を訪ねてきた母の友人は私の知る限り一人だけだった。

ボロボロの人形

父はほとんど家に帰ってこなかったが、
たまに夜遅く帰ってきた時は決まって母と喧嘩をしてい
た。
私は広くなった自室で一人聞き耳を立てて静かに泣いた。

だから珍しく家族で出かける時の私は思いきり無邪気で陽気な子どもを装った。
実年齢よりはずいぶん精神的に大人びていたが、
それゆえ自分が子どもらしく振る舞うほうが何かと都合がよいと知っていた。

家庭の不和に気づいてはいけない。不和など存在しないのだ。
私がうまくやれば全てうまくいく。
だってほら、お父さんもお母さんも私を見て嬉しそうに笑っている-。

子どもらしい子どもを演じる暮らしは次第に学校生活にまで及んだ。

勉強好きのおかげで学年よりもずっと先の内容を理解するようになっていたが、
学校ではまず「習っていない漢字は書いてはいけない」などと教わる。

学校にポケモンの持ち込みが禁止されているのと同じくらい当たり前に、
その学年で知っているはずのない知識を使うことは禁止された。
だから例えば作文などでは「小学○年生の文章レベルはこれくらいだろう」と
わざと易しい内容を書くようになった。

家の中でも学校でも、私は「完璧な子ども」を見事なまでに演じきっていた。

 

(つづく) 

(著・ワケあり女子)