ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

ワケあり女子のワケのワケ④ 地方が苦しい

 

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地元の電車から見える景色。平野部は一面に田んぼが広がる。晴れやかな田園風景も当時の私には苦痛の象徴だった。(撮影・ワケあり女子)

こんにちは、ワケあり女子です。
どうしようこの連載、一向にひきこもる気配がない……。納豆食ってる場合じゃない。
なので予言します。16歳の夏、高校一年生で私はひきこもります。
それまでどうか見捨てないでください。
当初の想定よりもずいぶん内容がボリュームアップしています。25%増量キャンペーン中。
自分で思っていたよりよっぽど生きづらかったんですね。。

「ワケあり女子のワケのワケ」、今週もあたたかい目で読んでもらえると嬉しいです。

 

 

www.hikipos.info

 

憂鬱な通学

中学校に上がっても相変わらず学校生活を楽しめずにいた。
町に1つしかないその中学校には町のすべての校区内から小学生が進学してきて、
当時は1学年約200名で6クラスあった。

すぐ隣の地区からは電車通学するほどの距離だったが、
うちの地区はなぜか自転車通学の範囲にされていた。
確かに電車の駅も相当遠かったけれど、
にしても山あり谷ありで約4.5kmの田舎道を毎日自転車で通えだなんて尋常じゃないと思えた。
(ちなみに4.5kmとは新宿駅から渋谷駅くらいの距離だ)

学校指定の雨がっぱだのヘルメットだのをいちおう一通り揃えたけれど、
高価なばかりでほとんど使わなかった。
街灯もない真っ暗な山道を疲れた脚で登り下りするのは、
女子中学生には本当に恐ろしかったのだ。

入学後一週間もしないうちに早々と自転車通学を諦め、
職場に通勤する父や母の車に毎朝同乗することになった。
帰りは普及し始めたばかりの親の携帯に電話をする。
付近の中学生はみなそうしていた。

放課後の公衆電話にはいつも長い列ができていた。

不自由な友達づきあい

そんな調子だからせっかくできた友人と遊ぶにもひと苦労だった。
校区が広いので、友人たちの家は徒歩や自転車では行けるわけのない距離にある。
電車もバスも使えない。
何をするにも親の車が必要だった。
友人たちはみな気軽に親に送り迎えをお願いしていた。
何度か乗せてもらった友人の家の車では、
運転席と助手席で親子の楽しそうな会話がいつまでも途切れなかった。

だがうちは違った。
母の機嫌が相当よくないと頼み事は聞き入れられなかった。
友人とうちで遊ぶ約束も母のせいで断った。
町にたった一つしかないCDショップまで何十分も自転車を漕いだ。

早くこの町から抜け出したかった。

友との出会い

印象的な友人がいる。
部活動で知り合ったいつもにこやかで芯の強い彼女は、
父親が精神疾患をわずらっていた。
それが原因でご両親は別居していて、
彼女は父親と父方の祖父母と一緒に暮らしていた。
彼女の住む村は私の地区よりさらに田舎で、
築100年は経つであろう古くて立派な農家に住んでいた。

彼女の口から事情を詳しく聞いたわけではないけれど、
当時のあの地方で精神疾患者がどのような見方をされるか、
中学生の私でもある程度想像できた。
病気について正しい知識を持つ人がいるどころか、
強烈な差別と偏見が今でも根強く残っている。
家族のことを話す彼女の口はいつも重かったし、それは私も同様だった。

うちに遊びに来たことのある(数少ない)友人のうち、
彼女だけがうちの母親の大変さを何となく察してくれたように思う。
互いに家族の悩みを抱えながら、それを誰にも話せずにいた同士だった。

今でも親友である彼女との出会いがこの頃の唯一の救いだった。

「ちゃんとしている」?

独立して不動産業を営んでいた父は、
親戚の集いでことあるごとに「もっとちゃんとしろ」と言われていた。
確かに父の派手な行動をたしなめる一面もあったが、
それ以上に仕事の性質をとやかく言われているように感じた。
ちゃんとしたところに「つとめに行く」のが彼らの言う「ちゃんとした」人なのだ。
自営業である父はいつまでも外れ者扱いされているように見えた。

「社長輩出率全国1位」などと謳われることもある福井県だが、
その実は古くからの伝統産業である眼鏡や繊維、そして農業が中心ではないかと思う。
少なくとも父の母(=祖母)の実家は代々続く農家で、
祖母は義務教育を終えた直後から繊維工場の女工として働いていたし、
祖父は頑固な気質の眼鏡職人だった。
そのせいか父方の親族は今も眼鏡関連産業の従事者が多い。

父も一時期眼鏡産業にいたこともあるようだが、
その後何度か職を変えたのちバブル期に不動産業で開業している。

それはいつまでも定職につかない若者を大人がたしなめるというよりは、
従来の産業を捨てて新しい世界に飛び込んだ若者が周囲の反感を買うという構図に近いように思えた。
ひょっとして父もまた生きづらい人であったのかもしれなかった。

だからこの地で自分の人生を切り拓くイメージが私には全く持てなかった。
「ちゃんと」してもしなくても、どうせ文句を言われると思った。

早く都会に出たい、それだけを考えるようになっていた。

 

(つづく)

(著・ワケあり女子)