ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

なぜ私はひきこもっている時に素手で食事をしていたか? 「ひきこもり」と食をめぐって

どれだけ孤独に過ごそうとしても、「食べる」ことは欠かせません。食事は毎日の生活の課題でもあれば、家族関係の問題とも密接なつながりがあります。今回は、〈ひきこもり×食〉をテーマにしたエッセイを掲載。切実な実体験をもとに、当事者が切り込んでいきます。 

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「ひきこもり」の毎日は、不法侵入中の泥棒のように過ごすこと

 ……私が親と最後に食事をしたのは、十五年前になる。
 三十を過ぎた今は一人暮らしをしていて、養育者と顔を合わせることもないけれど、家を出るまで、食事は毎日の苦痛な時間だった。

 当時、うちは男親も女親も料理を作る人で、ひどく過干渉に、天ぷらとか鳥の唐揚げとか、私好みの食べ物をふんだんに出してくれていた。
 一緒の食事を避けるようになってからは、料理を自室に持って行って食べていた。リビングから養育者のいなくなった時間を見計らって、台所へ行くと、いつも冷えた料理が置かれている。
 それを取っていくのは、毎回「盗み」をするような気分だった。実際のところ、私は家庭内に住みついた乞食(こじき)で、物をあさる悪人だという気分だった。家にとって、私は金になることのない「穀潰し(ごくつぶし)」なわけで、……金のかかった物を口に入れることは、日に何回も起こる罪悪だった。

 毎日の生活で、飲み物一つ取りにいくだけでも、私には「盗み」をせねばならない。台所にいる時間はできるだけ少なく。コップをとり、冷蔵庫をあけてジュースのパックから液体を注ぐ。すぐに冷蔵庫に戻して、自分の部屋に引き返す。存在が気づかれないように、短い時間で、素早く……。
 一日がずっと、不法侵入中の泥棒みたいにして過ぎていた。音をたてないように生活するのがあたりまえで、家の中にいてくつろげる時間はない。いつどこで、誰がどう動いていて、自分はどう動いたらいいか……私は常に神経をすり減らしていた。

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私は素手で食事をしていた

 食事を分かれてするようになると、養育者は私の分の料理を、ていねいなことにお盆に置くようになった。昼食も夕食も、台所には一人前が用意されている。私は養育者が台所にいないことをたしかめてから、素早く移動し、そのお盆をとってくる。
 その時に、物音や気配には過敏だったけれど、急いでいるせいでよく箸やスプーンを忘れた。取りに戻ればいいのだろうけれど、私は廊下を往復するという危険をおかしたくなかった。自分の存在が気づかれるだけでも嫌だったし、私の罪悪の現場……料理の「盗み」の最中を、養育者から目撃されるのは避けたかった。
 私は、養育者と鉢合わせするのが恐ろしくて、結局そのままにした。食べるための道具がないので、よく洗ってもいない手指で食べた。白米であれ麺類であれ、指を使って、みそ汁の具は、舌を伸ばして舐め取った。エサ皿に頭を入れる犬みたいなものだったろうけれど、精神的には、むしろ自分に「ふさわしい」食事だという安堵があって、心が落ち着いた。

 ……自分の過失を責めている罪人が、毎日レストランで豪華な食事を出されても、受け入れられないものかと思う。「穀潰し」の自分の食事としては、みすぼらしい食事こそが受け入れやすかった。そこには自罰的な意味合いもあったし、養育者の庇護を過剰に受けていることへの、生活上のバランスを調整する意味合いもあった。

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「社会に出る」ことは人と共に食事できること

 ……「社会に出る」という言い方があるけれど、それは人と食事できることをいうのではないか、と思う。
 外に出て行けば、ガッコウの給食の時間や、労働先での昼食の時間がある。人と同じ場所で、同じものを食べる必要が出てくる。「社会」での居心地の良さは、勉強ができるとか、よく働けるかどうかでは決まらない。たぶん共同の食事をした時に、くつろげることができるかどうかによる。食事の輪の中に入って、その雰囲気や会話に耐えられたなら、人は「社会人」でいられる。

 実際、英語の「カンパニー(会社)」という言葉には、食に関する由来がある。パン(食料)を意味するラテン語の「パーニス」と、“いっしょに”を意味する接頭語の「コ」が重なって、それが「カンパニー」になったと言う。語源が“共に食すること”になる。
 …共に食べることが「会社」で、そこに属せるのが「社会人」というなら、どうだろう。家という小さな単位でも共同の食事ができない私は、完全に「社会人」失格になっている。

 人と会うことも、自分の存在が知られることも、そもそも自分の存在があるということも。私は多くを拒絶したかった。けれど生存が続いていると、生身の生活が、拒絶したい感覚とぶつかってくる。その中でも食事の時間は、毎日のどうしようもない現実を突きつけるものだった。            

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 執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から「不登校」になり、中学の三年間は同世代との交流をせずに過ごした。二十代半ばまで、断続的な「ひきこもり」を経験する。「ひきポス」では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。

 

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