ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

当事者発信の不可能性:「できない」ことをやっている私たち

f:id:Vosot:20180925182306j:plain

メビウスの輪 写真:Pixabay
文・ぼそっと池井多
 
 

いまさら「当事者発信とは何か」

このひきポスを含め、
当事者が自分たちの声を発信することを当事者発信という。
「当事者の、当事者による、当事者のための発信」
と要約されることもある。
 
しかし、改めて考えてみると、
この当事者発信とはいったい何だろうか。
もともと「できない」ことをやっている試みとも思えてくるのである。
 
まず、
当事者は、他の当事者を代表したり代弁したりできない。
というテーゼがある。
 
当事者は、それぞれ個別の問題を生きているから当事者なのであり、
その本人でもない人が、
本人であるかのように語ることは、

「当事者憑依(とうじしゃひょうい)」

と呼ばれ、本人の人権侵害につながると考えられる。


だから、当事者の問題は、
その当事者本人が語るのが望ましいのである。
 

さらに、ここにもう一つのテーゼもどきがある。
それは、
当事者は語れない
というものだ。
 
より厳密にいえば、
問題の渦中にいる当事者は、その問題を語れない。
ということである。
 
たとえば、ひきこもりでいえば、
家から一歩も出られないで苦しんでいる状態のひきこもり、
俗にいう「ガチなひきこもり」は、
社会へ出て他者にひきこもりの苦しさを訴えることができない。

苦しさを訴えるべく、他者に接触したとたんに

「他者と接触できない」

というひきこもりの悩みは卒業したことになるからである。
 
そもそも、ガチなひきこもりは、
自分の苦しさを訴える「言葉」を持っていない場合が多い。

 
苦しさを訴えられる状態であるということは、
すでにガチな状態を脱している、
と考えられるのである。
 

やがて語り始める目撃者

昔、ある事件記者の方に聞いたことがある。

ある事件に遭遇した目撃者は、
事件直後はほとんど語ってくれず、
取材してもあまりよい言葉は出てこない。
ところが、何日か過ぎると饒舌に語り始めるという。

 
これらはすべて共通の現象なのだろう。
すなわち「言語化」という脳内タスクを経なければならない、
ということだ。

 
言葉で語るとは、
「無意識を意識にする」という作業である。


事件が進行中の内的状態は、ほとんど無意識である。
無意識を意識の上に出し、言葉にするというタスクを、
もし人がそんなに簡単にできるのならば、
精神分析医、カウンセラー、作家、批評家などなど
たくさんの職業が世の中から
要らなくなるかもしれない。 

 

言語化する能力が追いつかないから、
当事者は、渦中の体験を語れない。

ここに、
「当事者は語れない」
という逆説めいたテーゼの秘密があるような気がする。

 

当事者のことは永久に誰も語れない

 それでは、
「当事者は他の当事者を代弁できない」

「当事者は語れない」
という、この二つを組み合わせるとどうなるか。 

 

当事者のことは永久に誰も語れない。
ということになるのである。 

 

当事者発信は不可能である。
ということでもある。 

 

すると、すべての当事者は沈黙するほかなく、
当事者を高みから俯瞰している専門家や支援者などに、
当事者を語ることを委ねるしかなくなる。 

 

ぐるりと一周して、また出発点に戻っているではないか。 

専門家や支援者が、当事者でもないのに、
当事者に関していいかげんなことを発言し、
それで金を儲け、その発言が当事者に関する定説となってしまう
という事態に危機感をおぼえた私たち当事者が、
自ら口を開いて語り始めたのが当事者発信であった。 

 

それが、このようなパラドックスにおちいって、
自らの口をふたたび閉じてしまうのは、
いかにも残念である。   

 

f:id:Vosot:20180925205153j:plain

誰のために発信するか

先日、ある当事者発信の会合の場で、 
「自分たちは誰に宛てて発信しているか」 
ということが話題になった。 

おそらくこの問いを投げかけた人は、
 「一般社会の人々に対して」
「親に対して」
といった答えを期待してこの質問を私たちに投げたのかもしれない。 

ところが、私自身をふくめてその場にいた当事者たちは
まるで申し合わせたかのように、異口同音に 
「過去の自分に宛てて発信している」 
と答えたのである。 

 

たとえば私は、20代、30代に
現在よりもはるかにつらい環境でうつやひきこもりに苦しんでいた。
そのころは、自分の状態を他者へうったえる言葉がなかった。

 

自分で編み出したオリジナルな言葉でなくともよい、
たとえ借り物でもいいから、
自分が今どういう状態にあるかを
他者に少しでもわかってもらえる言葉がほしかった。 

そういう過去の自分が、いま私が発信している言葉を取得したら、
どんなに助かっただろう。 


そういうことを念頭において、今は発信している。 


「ほら。君が言いたいことは、これだろう?
いまの私なら、それを言葉にすることができるよ。 
この言葉を私から受け取って、
いまの君を理解しない人たちに掲げて見せろ。
いまの君を虐げる者たちにぶつけてやれ」

 

そんな思いで今の私は言葉を発する。 

 

これは、一種の代弁である。 


「当事者は、他の当事者を代弁できない」

と先ほど言ったばかりだが、
例外として、人格が時間的につながっている
「過去の自分」という他者の代弁だけは、
大手を振ってできると思う。
 
なぜならば、過去の自分が許諾してくれるからである。
 
しかし、これは
また
「渦中にいる当事者は語れない」
というテーゼを裏打ちするものでもある。
 
過去の自分は、渦中の当事者だったから、
語れなかったのだ。
 
そして、このような代弁は
けっして社会的に無価値ではないだろう。
 
なぜならば、過去の自分だったような人は、
いまの社会にも居るにちがいない、と思うからである。

 

より外側からの批判 

他方では、

当事者発信の代弁機能というものをあまりに信じてしまうと、

次のような批判が起こる。

 

マス ( mass / 社会一般 ) へ発信する能力を持った当事者が

社会へ向けて発信したとしよう。

 

げんに、このひきポスその端くれであると自認している。

 

しかし、発信者である私たちよりも、

もっと社会的な困難度が高い当事者が、

私たちの発信を指して、

「あんなのは、当事者じゃない」

と批判することがよく起こる。

 

たとえば、私が一人のひきこもり当事者として

テレビに出た場合などがそうである。

 

「なんで、ひきこもりがテレビに出てるんだ。

あんなのは、ひきこもりじゃない。

オレみたいに、部屋からまったく出られないのが、

ひきこもりなんだ。

だから、あいつの言っていることは、

ひきこもり当事者の声ではない」

 

というわけである。

 

こういう批判を発信する人は、

発信先が自身の周辺にかぎられており、

いわゆる社会的なマスへは発信できないかもしれないが、

発信能力そのものはちゃんと備えている。

たとえば、ツイッターのアカウントは持っている。

 

すると、このような者のさらに外側には、

まったく発信ができない当事者、つまり

もっと困難な状況に置かれている当事者たちがいる。

たとえば、ツイッターはおろか、

インターネットの接続環境すらなかったりする。

 

それを図式化してみた。(*1) 

 

f:id:Vosot:20180925180229j:plain

 

マスへ発信できる当事者は、

何も問題を抱えていないかに見える「ふつうの人々」に、

「自分たちはこうなんです」
「わかってください」

と当事者発信をおこなう。


そこには、「ふつうの人々」に対する批判や嫉妬が入り混じることがある。

 

すると、その発信を見て、

その外側にいる「マスへ発信できない当事者」が、

「マスへ発信できる当事者」たちの発信を批判する。

曰く、

「そんなものは当事者ではない」

「当事者はもっと動けないし、発言できない」

「ほんとうにつらいのは、自分みたいなのをいう」
などといった内容である。

そこには、同じように批判や嫉妬が入り混じることがある。

 

ところが、さらにその外側に「発信できない当事者」がいて、
同じように「マスへ発信できない当事者」を冷ややかに見ているのである。

彼らの「声なき声」を、むりやり音声化してみたら、

きっとこんなことを言っているのではないか。
 
「なんだ、あいつは。
自分より内側にいる当事者の発言を、
『あんなのは当事者じゃない』
などと言っているが、
オレから見れば、そういうお前だって
当事者じゃねえよ。
 

だって、お前はちゃんと自分の言いたいことが、
そうやって発信できているじゃねえか」
 

発信しようとする者は、

つねに自分よりも外側にいる者たちを引き受けるかたちで

自分より「恵まれた」内側の人々へ訴えを発信する。

 
ところが、そんなふうに勝手に引き受けられたように思う、

外側にいる者は、それができる内側の者を批判するのである。


このような外環は、
もしかしたら無限に外へつづくのかもしれない。
 

さらに、これは図案化しているので、

くっきりとした層に分かれているように描いたが、

実際はそれぞれの円環には層の境界線はなく、

すべてはグラデーションのように
曖昧模糊と広がっているものであろう。
 
声を引き受けたつもりになっている、自分より外側の者から、

「そんなものはオレの声ではない」
と批判されるところに、

当事者発信の不可能性がある。

 

社会的階級になれない「当事者」

「当事者」という概念は、
たとえば「労働者」のように
社会的階級として思い描くことができない。
 
そう描くことのできた階級は、
たとえば「労働者の政党」を結成し、
代表を国民議会へ送り出すことができた。
 
しかし、当事者は、一人ひとりがちがうものだから、
代表が選出できない。
当事者は、間接的民主主義とはひたすら相性が悪いのである。
 
けれども一方では、
「政治とは、もともとそういうものではないか」
という考え方もある。
 
「労働者」という「階級」も、
しょせんは個人個人みな異なった労働者が、
生活や雇用の状況もそれぞれちがうのに、
あたかも同じ思想や需要を持っているかのように
たばねられることで作られた仮構だったのかもしれない。
 
げんに、利益や思想を同じくするはずの政党がたくさん誕生するけれども、
そのうち一つの政党のなかに
党を細分化する会派が生まれ、派閥が生まれ、
やがては解党していく。
 
「個人はみんなちがう」
という原点の土に還っていくのである。
 
政党政治や間接民主主義は、
みんな自分と100%同じではない人に
かりに自分の代理人をゆだねている
一種の過渡期のような状況なのかもしれない。
 
そういう意味では、
原則として代表や代理人を認めない、
という当事者の世界は、
もっと純粋で、先進的である。
 
すべての当事者が発言・発信するようになれば、
そのときはもはや
当事者発信の代弁性は問題にならないで済む。
 
だが、そのときはすでに、
当事者発信そのものが、その役割を終えているであろう。
 
もし、そうであるならば、
いま行われている当事者発信は、
すべての当事者が発言・発信できるようになるための
準備期間であると考えることができる。
 
それはとりもなおさず、
当事者発信というものが要らなくなるために、
当事者発信している、ということでもある。
 

  •  *1. 参考:佐々木俊尚『「当事者」の時代』光文社新書 P.195