ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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短篇小説「鍋前」

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鍋前

 

 文・日間好子

 

 

 

 どこかと思ったらまな板の上だった。

 どうやらもう首は落ちているらしい。自分の首と目が合った。胴体側のこちらには目がないのだから、目が合ったというのもおかしな話だが。

 なぜまな板の上にいるのか、少しづつ思い出してきた。首を落とされた衝撃で忘れていたらしい。しかし、自分の小さな脳みそは落とされた首のほうにあるはずなのに、なぜ思い出したり考えたりしているのか不思議である。身体の記憶と魂のなせる業か。

 死に別れた自分の首にも魂が幾ばくか残っていて、首だけで何やら考えているかもしれない。そう思って死に別れた首を見る。首は、死にたてのせいかまだ目が艶々として綺麗だった。そちらのおまえ、死んだ肉の内にひっそりとまだいるか。

 そんなことを思う間にも、調理人が切り口を下に、自分を酒の入った器の上に掲げて血を絞っている。主人と思しき男が、その様子を見ながら満足そうに微笑んでいた。

「ああ、いいね。これは綺麗だ」

 と呟き、とても優しい声で

「お前はこれから食べられるんだよ」

と言った。

 血の気が引いた。肉体はもう死んでいるのだから、そんなはずはないのだが、体内に残った血が一斉に引く感触がした。

「ちょっと待ってくれ」

 たまらず自分は声を上げた。上げたつもりだが喉も口もない身でどうやって声が上がるというのか。しかし、主人はまるで聞こえたかのようにまな板の上の自分に視線を合わせた。

「俺のこの切り口を、あそこの切り花みたいに水に挿してくれ。そうすればあともう少し生きられるかもしれない」

 調理人は粛々とことを進めている。包丁を入れて甲羅をはがしにかかった。主人が待つように言うと、調理人は手を放した。甲羅が中途半端にくっついたまま自分は主人に言いつのった。

「切り花ってのは生きてるだろう?切られてはいるがまだ死に切ってはいないだろう?あいつらはどのあたりで死ぬんだろうね。俺もあいつらみたいに水に挿してもらえればまだ生きられるかもしれない」

 自分の言い様があまりにも必死だったためか、主人は心底同情し憐れんでいるような慈悲の目で自分を見た。

「そうかもしれないねぇ」

と言う。その言い方があまりにも優しくて労りに満ちていたので、自分はふと我に返った。

 何がそんなに問題なのか。騒ぐようなことが何かあるのか。なんということはない。自分という存在がただ終わるだけだ。いや、もう終わっただけだ。

 すべてはもうすっかり済んだことなのだ。

 ああ、そうか終わったのか、終わったのか、と繰り返すごとに、身の内にくっきりと刻まれるように実感が浮かび上がってきた。ああ、そうだ終わったのだ、終わったのだと納得すると、さっきまでの差し迫った焦りが消えて、代わりに愛おしいような物悲しいような純度の高い未練が身の内に湧きおこり溢れだした。

 魂が消える前に、すっぽんながら大したものだったと主人が後々人に語りたくなるような何か哲学的なやり取りでもしてやりたいが、生憎と何も浮かばない。ただただ素直に未練ばかりが溢れてくる。そして、未練が溢れ流れきった後には、ぽっかりとこの上なく穏やかな気持ちになった。

 もう何を思い煩うこともないという安堵感が身の内を満たし、ぬくぬくとして浮き立たんばかりに軽い。この心地良さをずっと味わっていたいが、その時間はもうないようだ。

 それでは皆々さまお先に失礼と、気持ちの上ではこの上なく丁寧なお辞儀をしてこの世に別れを告げると、すうっとあたりが暗くなり、少し寒くなり、気持ちはさらにこの上なく軽くなり、ああ魂が消えるのだと思ったのがさいご。

(了)

 

<プロフィール>
日間好子(ひま・よしこ)
47歳。女性ひきこもり当事者。ひきこもり歴26年。本人の希望により、より詳しいプロフィールはこちらを参照のこと。