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【ひきこもりと地方】福井のひきこもり支援者 西見幸雄さんインタビュー前篇「不登校やひきこもりの子どもたちは、ものごとの本質を見抜く力が強いんです」

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ぼそっと池井多 今日は、福井でひきこもり支援を行ない、福井地方におけるひきポスの専売所にもなっていただいている、西見幸雄さんにお話をうかがいます。今日はどうもありがとうございます。インターネット上ではいつもお会いしていますが、実際にお会いするのは今日(2018年9月8日)が初めてですね。

読者の皆さまには、どのようにご紹介すればいいですか。

西見幸雄 福井で、不登校やひきこもり、発達障害などの子どもたちの支援、家庭教師、兼アドバイザーのようなことをしています。

中学校の中に、発達障害や知的障害の子どもたちのためのサポートクラスがあって、昼間はそこへ支援として入っています。以前は、不登校ぎみの子を担当する相談室にいました。夜は塾と家庭教師をやりながら、休日はホルン奏者として演奏活動をしております。

ぼそっと池井多 支援や家庭教師ではどんなことを教えていらっしゃるのですか。

西見 高校受験、大学受験、英検、高卒認定、就職試験、小論文など、子どもたちが必要とするものなら、なんでも教えています。

ぼそっと池井多 不登校、ひきこもり、発達障害などの子どもたちに関わり始めるきっかけは、どのようなものでしたか。

会社員生活でポリープがいっぱいに

西見 大学を出てからサラリーマンになり、大手上場企業のコンピュータ部門や事務部門で16年半ほど働いていました。指示や命令をされるのが苦手なので、サラリーマン生活はぜんぜん合っていませんでした。会社員は、きっと今でもダメですね。

ぼそっと池井多 会社で、今日でいうパワハラとか、そういう事があったということですか。

西見 もちろんあったと思いますけど、当時はそんなものは「あって当たり前」と思っていました。上司や周りから、「お前みたいなのは、うちの会社に向いていない」というようなことをたまに言われていました。

それで無理をして、身体をこわして、胃の中にポリープがたくさんできて、医者には、

「もう、あなたは死ぬよ」

って言われて、

「死ぬんだったら、もう働いている場合じゃないな」

と思って会社をやめました。

それで、2年半ぐらい病院に通いながら自宅にひきこもって療養生活を送っていました。その間に、貯金や退職金を使い果たしてしまって、

「なんか仕事をしなくちゃ」

ということになって、家庭教師を始めたときに、最初に勉強を見た子がひきこもりだったんですね。それが、ひきこもりの子どもたちと関わり始めるきっかけでした。

ぼそっと池井多 私も30代になってから、病気で動けなくて、ひきこもって、どんどん貯蓄が減っていって、このまま行くと飢え死にするかホームレスになるかを選ばなくちゃいけない、と不安になっていた時期がありました。そういう不安というのは、ありませんでしたか。

西見 不安はあったし、ずっとつながって今日に至るわけですよ。ぼくのやっていることは、このまま続くとは何の保証もないわけで。

ぼそっと池井多 ご病気になる前は、けっこう貯金もされていたのですか。

西見 40代は、ある意味では平均的なサラリーマン以上に働いていたので、それでちょっと貯金もできたんですね。

でも結局、それで無理がたたって、病気になりました。50歳目前に失明もしました。心臓の手術もしました。肺にも穴が空いて…。

失明は手術で視力がもどったんですよ。他の病気はひたすら寝て治すしかなくって。

ぼそっと池井多 そういうご闘病の時期を経て、変わったことというのはありますか。

西見 結局わかったのが、不安はあるけれども、なんとか生きていける、ということがわかりました。

ぼそっと池井多 ご結婚とかは、されなかったんですか。

西見 結婚はしませんでしたが、パートナーはいました。50歳のとき、その病気の時期に別れました。

ぼくは自由気ままだったので、稼ぐことは稼いだんだけど、ぜんぶ自分の好きなようにお金を使ってしまっていたんです。気が向くと旅行に行ったり。沖縄なんか、しょっちゅう行ってましたね。

子どもみたいに勝手な男だったんで、相手の女性が愛想をつかして逃げてしまったというわけです。すごくキッチリした綺麗な女性だったんです。だから、合わなかった。


不登校さえやらせてくれない時代

ぼそっと池井多 西見さんご自身は、不登校などされた経験はありますか。

西見 学校には、小さいころから違和感を持っていました。学校でやらせられることは、何事であってもすべてつらかったです。

「なんで、こんなこと、やらなくてはいけないんだ」

と思ってました。

小学校はまだ良かったけど、中学校は地獄でしたね。でも、部活があったので、なんとか乗り切れて、高校も部活で乗り切れました。でも不登校気味で、実質的に不登校でしたね。

でも、ぼくらの時代って、不登校さえさせてくれないっていうか、学校へ行かないこと自体「犯罪」という空気が社会にあって、どうしても学校へ行かないわけにいきませんでした。死ぬほど苦しかったけれど、もう行くしかなかった。学校の先生には、毎日「顔色が悪い」と言われていました。

せめて卒業式には行きませんでした。それで、なんとかバランスを取ったという感じです。

 

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写真:いわだてようこ

子どもたちと関わる現場

ぼそっと池井多 不登校やひきこもりの子どもたちに関わるようになって、それでどうなりましたか。

西見 福井には、1986年に不登校・登校拒否の子どもの親の会として「やよい会」というものができ、それが現在もひきこもりの親の会となっています。その「やよい会」に、私は1998年ごろから関わるようになりました。

そのうちに、親の会の研修会のようなイベントがあって、そこで2005年ごろに神奈川の丸山康彦さんと知り合って、それからもう十何年おつきあいさせていただいています。

ぼくは、もともとひきこもりよりも不登校の子を担当してたんですが、その子たちが学童年齢よりも成長して、そのままひきこもりへ移行するケースが多くて。

ぼそっと池井多 子どもたちを教える現場は、どんな感じですか。

西見 割が合わないんですけど、朝7時から夕方4時まで授業したり。

ぼそっと池井多 では、塾というよりフリースクールのようなものですかね。

西見 いや、私が授業する空間が学校の中に入っているのです。学校の中で、アスペルガー、自閉症なんかの子どもたちがやってくるサポートクラスで教えてますから。

ぼそっと池井多 ああ、ようやくわかりました。私は最近の学校を知らないものですから。

学校の中のサポートクラスとは、どんな所ですか。

西見 教育現場に入って、私がびっくりしたことの一つですが、サポートクラスでは、子どもたちはもうゴチャマゼなんです。アスペルガーから、自閉症から、知的障害から、ようするにふつうの授業についていけない子どもたちというか、学校の先生が対応できないと思った子どもたちが、みんなそこへ回されてきますから。

それぞれみんな特性がちがうから、系統立った指導はできない。いちおう通り一遍のことはやっていますけど、それぞれの子どもの傾向がちがうから、たいしたことは授業できないのが現実です。

逆に、子どもたちが自分で勉強している。それで成長している。私はそれを支えているだけ、というような感じですね。

そのへんのことは、言いたいことは山ほどあります。

ぼそっと池井多 どうぞ、言っちゃってくださいよ。

西見 学校の上の方は、不登校やひきこもりのことを全然わかってないし、こちらも生徒一人ひとりにていねいに対応している余裕はないし。先生方の中にも、不登校やひきこもりの経験者がおり、そういう人たちは生徒たちのことをよく理解しています。しかし、上司からの理解がなく、思うように動けないことが多いのです。

私たち親の会や支援者の地道な活動が影響を与えて、近ごろはずいぶん変わってきましたが、不登校やひきこもりにまったく理解がなく、生徒たちに対して真逆の対応をしてしまう学校関係者は、依然として多いです。

学校によっては、親御さんが先生方と連携を取りながら、その生徒が少しでも気持ちよく学んでいけるように心を砕いているところもあります。

親御さんたちにも、自分の子どもがどんな状態になっているか知らない方がいて、そういう人には教育現場の実情を知らせてあげなくてはなりません。私のような立場の者には、子どもの現状を親御さんに教えてあげる、という役割もあるのです。

発達障害、不登校、ひきこもりの子どもたちの共通点として、ものごとの本質を見抜く力がものすごく強いんです。だから、そういう意味では、私が教えられてばっかりです。ずっと指導している子を見ていると、結局こっちが指導されているというケースが多くて。

 

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西見さんと丸山さん(右) 写真:西見幸雄

庵-IORI- に通った時期

西見 以前は毎回、福井から上京して庵-IORI- にも通った時期もあるんですが、あのころの庵は、ひきこもりを就労につなげることを目指している感じがして、抵抗を覚えるようになっていきました。ファシリテーターの人たちも、ひきこもりをマイナスには考えていないようでしたが、積極的にひきこもりの価値観を認めるというわけではないように見受けられて、「これはちょっと違うな」と思って、けっきょく行かなくなりました。いまの庵はそんなことないそうですけど。

ぼそっと池井多 福井から東京まで交通費もかかるでしょうに、庵に毎回、通われていたということは、それだけ庵に価値を感じていたということでしょうか。

西見 庵に感じていたというよりも、そこで会う人々に価値を感じていたのでしょうね。とくに丸山さんとお会いしてお話しできることには、ものすごく価値を感じて通っていました。

 

 

・・・「後篇」へつづく