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どうして〈レオ=レオニ〉の物語は心を慰めのだろう?~ひとりぼっちに捧げられた3つの絵本について。~

   絵本?レオ=レオニ?
  そんな。いい年になって小さい子向けの本なんて読まないよ。
  時間もないし、かっこ悪いし。
  どうせ本を読むのなら、もっと役に立つものでないと……。
――以前の私は、そんな風に思っていた。絵本なんて、わざわざ大人が読むものではないと。けれどある時知ったのだ。ストーリーの面白さ、絵の美しさ、描かれた世界の愛おしさ……。絵本にはあなどってはならない深さがある。中でもレオ=レオニの作品は、マイノリティへの優しさで満ちている。人との関係の難しさを描いた、絵本による芸術だ。今回はその魅力の一端を紹介する。

 

レオ=レオニと『スイミー』

レオ=レオニ(Leo Lionni)は、20世紀を代表する絵本作家だ。
1910年オランダに生まれ、ニューヨークなどで活躍。
89歳で亡くなるまでに、40冊ちかい作品を残した。


有名な一冊に『スイミー』(1963年)がある。

スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし

『スイミー』は、ひろい海に住む魚の物語。
兄弟みんなが赤色をしている中で、スイミー一匹だけが黒色で生まれてくる。
そのせいで、スイミーは長いあいだ、一人ぼっちで生きていく。
赤い魚たちは、おおきな魚をおそれて、隠れながら生きていた。
けれどある時、魚たちは集まって、もっとおおきな魚のかたちをつくる。
そしてスイミーがおおきな魚の目になることで、こわい魚をおっぱらうことができた。

 

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 スイミーは、一匹だけ「ふつう」ではないものとして生まれてきた。まわりと違うことで、さびしく生きていくことになる。けれど違っていたからこそ、みんなにとって特別な存在になる。
 レオ=レオニには、一人ぼっちに対する特別な視点がある。次に紹介する作品もそうだ。いくつかの作品から、その世界を旅していこう。

 

Ⅰ 何もしてないと思われたねずみの物語 『フレデリック』

フレデリック―ちょっとかわったのねずみのはなし

ねずみたちは、冬に向けて大忙しで働いている。
けれどそんな中、フレデリックだけは仕事もせずに、一人でぼんやりしているように見えた。

 「フレデリック、どうして きみは はたらかないの?」みんなは きいた。
 「こう みえたって、 はたらいてるよ。」と フレデリック。
 「さむくて くらい ふゆの ひの ために、
  ぼくは おひさまの ひかりをあつめてるんだ。」

雪の降る寒い冬になり、ねずみたちは隠れ家で過ごす。
はじめの内は食料もたくさんで、暮らしているのに困らなかった。
しかし長い月日のせいで、ねずみたちは退屈してしまう。
そんな時、フレデリックは輝く太陽のことを語り、皆に色彩を思い出させる。
さらには役者となって詩を語り、ねずみたちを感動させる。

 おわると みんな はくしゅかっさい。
 「おどろいたなあ、フレデリック。きみって しじんじゃ ないか!」

仲間たちが食料を集めていた時に、フレデリックは「ことば」や「いろ」を集めていた。フレデリックは役立たずに見えたけれど、皆と違った仕事をしていただけなのだ。食べていくための生産性を問うだけでは、人は大事なものを失ってしまう。この作品は、本当の「豊かさ」についてのメッセージをしたためている。

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Ⅱ 人と人とがまじわることの難しさ。『あおくんときいろちゃん』

あおくんときいろちゃん (至光社国際版絵本)

 本作は、レオ=レオニの59年のデビュー作だ。人や動物の絵ではなく、丸いかたちと色だけで絵本になっている。画期的な一冊だ。

「あおくん」と「きいろちゃん」は仲良しの二人。
ある時一緒に遊んでいるうちに、くっついて一つの「みどり」になる。
二人は楽しんでいたけれど、「あおくん」の家に帰っても、「きいろちゃん」の家に帰っても、よその家の子だと思われて、追いだされてしまう。
「みどり」はかなしくなって、ボロボロと涙を流す。

 ないて ないて なきました。
 ふたりは ぜんぶ なみだになってしまいました

その涙が「あお」と「きいろ」に分かれたことで、二人は元の「あおくん」と「きいろちゃん」になる。
「きいろちゃん」が家に帰ってくると、「あお」色の両親はうれしくて抱きしめる。すると、くっついたところが「みどり」になって、両親はようやく事情がわかる。
このことをきっかけに、両親や友達たちも、お互いに色を重ねて、自分の一色だけでない、重なった色を楽しむようになる。

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 おやたちも うれしくて やっぱり みどりに なりました

 めでたし、めでたし。

 原題は“Little Blue and Little Yellow”で、男の子と女の子ではない。
 難しく言うなら、これは差別と融和の物語だと読める。一緒になってはならない「あお」と「きいろ」がいて、「みどり」という、それぞれのイエにとって受け入れられない色になる。けれど二人の、涙そのものになってしまうほどの悲しい思いが大事な人たちに伝わる。そこから、多くの人たちがお互いを認め合い、新しい色を受け入れるようになる。
 とはいえ、それらのことを考えなくても、色とかたちにあふれた楽しい作品として読むことができる。

 

Ⅲ どこかにいるはずの自分を探して。『ペツェッティーノ』

ペツェッティーノ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし

他のみんなは大きくて素晴らしいのに、ペツェッティーノは小さく、自分には何かが欠けているように思われた。
これはきっと、自分が何かの「部分品」で、完全な本体がどこかにいるためだ。ペツェッティーノはそう考えて、どこかにいるはずの、強くて大きな自分を探そうとする。

 「もしもし、 ぼくは きみの ぶぶんひんじゃ ないでしょうか?」

走るやつ、泳げるやつ、飛べるやつなど、ペツェッティーノはいろいろなものと出会っていく。けれどその誰もが、欠けたところのない、立派な完成品だった。

 「ぶぶんひんが たりなくて つよい はず ないだろう?」

答えは期待はずれのものばかりだった。

長い旅をして、ペツェッティーノは疲れ果ててしまう。
そのせいで、ある時岩山から転がり落ち、体がバラバラになる。
それを見て、ようやく気がついた。

 やっと ペツェッティーノにも
 わかった。じぶんも みんなと おなじように ぶぶんひんが
 あつまって できて いると。

小さなペツェッティーノでも、欠けたところはなかったのだ。
ペツェッティーノは長い旅を終え、元の家へと大急ぎで帰ってくる。
彼を待っていた友達たちに向かって、喜びに叫ぶ。

 

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 「ぼくは ぼくなんだ!」 かれは おおよろこびで さけんだ。
 なんの ことか よく わからなかったけど ペツェッティーノが
 うれしそうだったから みんなも うれしかったのさ。

レオ=レオニはこの物語で、「自分」を探しに行く必要はなく、すでに完璧な自分が出来上がっていることを伝える。
特に色使いの美しい作品で、ペツェッティーノはオレンジの四角だけで描かれているのに、喜びや寂しさが伝わってくる。

 

おわりに

これらの絵本は、きれいごとすぎるストーリーだろうか?けれどシンプルな分、根源的で、忘れてはならない真理があるように思う。
もしもレオ=レオニの絵本にふれる機会があったなら、ひととき足をとめることをオススメする。ねずみの「フレデリック」のように、すぐには役立たないとしても、いつかどこかで、大切なものを思い出させてくれるかもしれない。

 

 参考文献
レオ=レオニ 『スイミー ちいさな かしこい さかなの はなし』谷川俊太郎訳 好学社 1969年
レオ=レオニ 『フレデリック ちょっと かわった のねずみの はなし』 谷川俊太郎訳 好学社 1969年
レオ・レオーニ 『あおくん と きいろちゃん』 藤田圭雄訳 至光社 2000年
レオ=レオニ 『ペツェッティーノ』 谷川俊太郎訳 好学社 1975年


ご覧いただきありがとうございました。


 執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校に行かなくなり、中学の三年間は同世代との交流をせずに過ごした。二十代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験する。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。個人ブログ http://kikui-y.hatenablog.com/

 

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