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映画『鈴木家の嘘』の感想。そして、野尻克己監督へのインタビューで私が涙をこらえられなかった理由

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映画『鈴木家の嘘』公式サイトより

(文・Longrow)


11月16日、映画『鈴木家の嘘』(野尻克己監督)が公開された。
ひきこもっていた長男の自死と、それを隠す家族…の、物語だ。


ひきこもりを追い続けるジャーナリスト・池上正樹さん『鈴木家の嘘』と野尻克己監督についての記事を書いているので、そちらもぜひ読んでいただきたい。

diamond.jp


…実は、野尻監督のお兄さんも最期に自死を選んでおり、監督は自死遺族でもある。つまりこの『鈴木家の嘘』は、野尻監督の人生が反映された作品であるとも言えるのだ。


さて、「長男の死を家族が隠す」を「長男のひきこもりを家族が隠す」に置き換えると、なんだか類似の構造に見えないだろうか?

例えば私の両親。
私がひきこもったことをごく一部の人以外には話してもいない。
「東京で働いている」とでも言っているのだろう。

この「家族が隠す」という構図に対して監督はどんな「答え」を用意しているのかと興味を持ち、私は公開日の11月16日に、調布のシネマに足を運んだ。

愚かさも優しさも捨てきれず、矛盾を抱えたまま生きる人たちの物語


前段の「答え」というワードを目にした読者の皆さまの多くは、こう感じるかもしれない。「答えなんてない」。
私も同感だ。答えなんてあるならば、2018年のこの今に、ひきこもりに関わる多くの人が苦悩しているわけはないだろう。

しかし『鈴木家の嘘』を通じて、「答え」ではないが、それに通ずるものとして1つ、感じたことがあった。
それは「愚かさと優しさは、どんな人の中にも同居している」ということだ。

本作品では、「この人は醜い」「なんて愚かな行動を取るのだろう」と感じるシーンがいくつか展開される。

例えば、グリーフケアのシーンで登場する、押しつけ的発言を繰り返すオバサン。
自死した者の遺族として苦悩を語る、ある登場人物の女性に、一方的に上から目線の言葉を連発する。
醜い。問答無用で醜い。
でも彼女は「醜い」の一言で断罪されてしまう人間ではない。実は…(ネタバレになるのでこれ以上書くことは控える)

本作品では登場人物の誰もが、「時に愚かで、時に優しく、愚かさも優しさも捨てきれないで苦悩しながら日々を生きている」。
このオバサンのように醜く見える人間だって、ただ愚かなのではない。

彼女たちは、私たちの誰もが行っている「苦悩すること」を通過してもなお、愚かであらざるを得ないのだ


この愚かさは、決して「醜い」の一言で切り捨てられるものではないし、時として強烈に共感できるものですらある。
彼女たちは幾たびの苦悩を経てもなお、愚かさを捨てられない。優しさを諦めてラクになることを決して選ぼうとしない。

劇中でたびたび現れるこの滑稽さに共感するたび、現実世界で愚かに見える人間たちにも、きっと確かな優しさが隠れているんだろうと思わざるを得なかった。

インタビューで「ベストの返答」を考え続ける野尻監督

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写真の左から、筆者、池上正樹さん、野尻克己監督。筆者は笑みを作っているが…。
(写真提供:池上正樹さん)

実は『鈴木家の嘘』の公開前、野尻監督と池上正樹さんのはからいで、野尻監督へのインタビューに同行させていただくことができた。
ひきこもった後に自死を選んだ人物がキーとなる作品だから、私のようなひきこもり経験者が同行することに意義がある、そうお感じになったのかもしれない。

さて、インタビューは主に、野尻監督が池上さんの質問に対して返答するという形で行われた(その内容は上記の池上さんの記事に活かされている。記事を読みながら、どんなインタビュー内容だっただろうと想像するのも面白いだろう)

そして同席の私はというと、「映画監督へのインタビュー」という状況に委縮してしまい、ソファに座ってただ話を聴いていた。

しかしその話は実に心に染み入るものだった。
いや、正確に言うと、話ではなくむしろ「話している監督の姿」の方にグッとくるものがあった。

インタビューでは、野尻監督が池上さんからの質問に即座に返答することはなかったように記憶している。
監督は、まず池上さんからの質問を受け、言葉を選びながらいったん返答する。
しかしその「一度目の返答」の後に、監督はさらに言葉を続けようとする。

(一度目の返答)…ということかな…いや、それは言葉が違うかな…」
(一度目の返答)…それは彼の選択だから…でもそれは私の…」

といったように。
一度目の返答の時点で、既に監督は十分な時間を取って言葉を選んでいる。
にもかかわらず、返答が終わってもなお言葉を続ける。
監督は返答後もなお、自身に問い続けていたように見えた。
その言葉で返答していいのか、と。

それはまるで、答えなどないと分かりきっているなかで、答えを模索するような姿に見えた。
まるで本作品に登場する、苦悩する人々のように。
(※上記のカッコ内の「発言」は、野尻監督の発言を正確に再現したものでないことは付記しておく)

野尻監督のインタビューに同行した私が、涙をこらえきれなかった理由


そうやってインタビューが進み、だんだんと監督の言葉が積み重なっていく。
そのたびに、胸が熱くなっていくのを感じた。
「ああ、この人は本気で生きているんだ」と。

そして私の中に1つの確信ができていった。
この『鈴木家の嘘』は、人間って何だろうと考えに考えて、形になったものだろうという確信が。
そして迷いながら言葉を紡いでいる監督の姿から、きっとこの人は毎日、自死した兄のことを考えながら生きているんだと感じざるを得なかった

そこに、私のひきこもりの日々…何もできずただ辛いけど「生きなきゃ」と1時間に100回は考えていた日々…が重なった。

インタビュ―開始からしばらくして、ただソファで置物と化していた私にも話す機会が与えられた。
ちょうどその時は「レッテル」に関する話がされていたと記憶している。そこでインタビューの流れに沿って、私のなかで一番つらい「レッテル」に関する体験をお話させていただこうと…思ったところで、ちょっと、もう無理だった。

・・・
そのお話とは、忘れもしない2013年12月の話。自分をひきこもりと感じていなかった当時の私が、たまたまIORIという「ひきこもりの人たちが集まるイベント」を知って、参加したときの話。
IORI開催の当日、私は会場まで足を運び、IORIが行われている部屋の前に到着した。あとは部屋の扉を開けるだけだ。
…しかし、それには時間を要した。それまで自分をひきこもりと感じてこなかったがゆえに迫ってくる感情と考えに、戸惑いと恐怖を感じたからだ。
「この扉を開けて中に入れば、僕は僕自身をひきこもりと認めることになる。」
この扉を開ければ、自分はひきこもりというレッテルを貼られることになる。
だってここは「ひきこもりの人たちが集まる場」だから。
・・・

今までは体験を語る時に涙が流れたことなんてなかったのに、この時だけは言葉を発することができなかった。
己の無力さに涙を流したことは何回もあったけれど、こういう涙を流したのは初めてだったかもしれない。

何が涙の理由か正確には分からない。
けれど「今目の前にいるこの人に対しては、本気で答えなければ礼を失する」と思ったことは覚えている。
だから今まで思い出さなかった、「この扉をくぐればひきこもりになる」という当時の苦悩が鮮明に再現されたのかもしれない。

そしてそれが、言葉を選びながら返答する監督の姿から生まれたものだということは、間違いない。

『鈴木家の嘘』は終わっていないのかもしれない

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再び、『鈴木家の嘘』公開日の11月16日。
午後4時ごろ、私の目の前のスクリーンにエンドロールが流れた。
苦悩や人間に終わりはないが、映画には必ず終幕がある。
その終幕の後、私は『鈴木家の嘘』はよく完成されている、と感じた。

しかし今の私は、こんな想像をしてしまう。
監督はこの作品を「作り終えた」と感じているのだろうか…と。
完成なのかと。
先のインタビューで、言葉を選びに選んで返答した監督の姿が、私の脳裏に焼き付いて離れなかったから。

だからこそ、監督は最後までこんなことを問い続けていたかもしれないと想像してしまう。

『鈴木家の嘘』はこの形でいいのだろうか」
「いや、こうだろうか」
「いや、しかし…この表現を選んだほうが…」

そうだったとすると、本作品は「完成」というより「時間の許す限り問い続け、思索を続けた結果、最後に残った形の表現」なのかもしれない。
その意味で『鈴木家の嘘』は終わっていない、と捉えることもできるかもしれない…。
そんな想像が止まらない。
終わってないんじゃないか。

『鈴木家の嘘』からは希望も絶望も受け取れる 


最後に。
冒頭に書いた通り、「家族の存在を隠す」という点で、本作品と「ひきこもり」は構造的に似ていると感じる。
(※作品とひきこもりでなく、あくまで「隠す」という構造が似ていると感じる)

だからきっと、ひきこもりの当事者・経験者・ご家族が本作品をご覧になったら、自然と登場人物にご自身を重ねることになるだろう。
そこからひきこもりの「答え」は見つからないかもしれない。でも例えば、好きなワンシーンを思い出しながら思索を重ねることで、本作品はきっとあなたに「生きるヒント」を提示するだろうと思う。

そして私からの最後の言葉は、ひきポス創刊号にある言葉と全く同じである。

「彼らが感じている希望と絶望を、『鈴木家の嘘』から受け取っていただけるのであれば、これに勝る喜びはありません」