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私が支援の場で言われた最悪の言葉 「いつまでも〇〇じゃないんだから」

今回は、支援者から言われた一言がテーマです。言う側は励ましのつもりで発言していても、当事者にとっては、「最悪」だったというその言葉とは何か。生きづらさ当事者との、向き合い方を考えさせられる一本です。

 

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支援者から言われた言葉

 八歳ほどの頃から、私は学校へ行かなくなった。それ以来、ほとんど人と接することのない中学の三年間があり、精神疾患に苦しむ十代後半があった。早くから社会的な道筋をはずれていると、望むと望まざるとにかかわらず、支援の場とのつながりも生じてくる。学校に設置されていた相談室やカウンセリングルーム、また行政による支援所やサポートステーション。それらの場所や支援者たちは、すべてが最悪だったとはいわないにしても、多くは嫌悪や疲労を覚えさせられるものだった。
 
 私は支援の場で、まったく的外れな対応や、支援者の鈍感さを示すような言葉を経験してきた。その中でも、ひときわ神経にさわり、いまでも怒りの湧いてくる一言がある。
 それは、「親御さんだって、いつまでも元気じゃないんだから」、という言葉だ。
 私はこの発言を最悪のものだと思う。

 目の前で直接に言われたことは二回ある。
 一度目は十五歳の時、学校の「カウンセリングルーム」で、部屋に予告なくやってきた中年の教師から。
 二度目は二十八歳の時、行政の若者支援の場へ行った際に、相談室で話した若い職員からだった。

 両者ともなんらかの助けを与えようとしている善意の人で、人柄や口調が悪いわけではなかった。それでも「親御さんだって、いつまでも元気じゃないんだから」、という言葉は、目の前の「支援者」が、私の境遇を理解していない証明に思われた。

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「いつまでも元気じゃないんだから」発言の問題点

 発言の趣旨としては、「親も将来的には収入がなくなり、病気になったり亡くなったりする。そうなれば子供の面倒も見られなくなるのだから、あなたは(「不登校」や「ひきこもり」をせずに)金銭的に自立しなければならない」、といったところだろう。

 この発言のひどさは、まず第一に、そんなこと私自身が誰よりもわかっている、ということにある。「不登校」や「ひきこもり」にあたる状態であった時、苦しみ、悩んでいたのは、社会的でいられない自分と、「親」との関係の悪さにあった。「学校へ行かねばならない」・「働かねばならない」という、典型的で直接的な苦しみなら、悩んだ経験もなく「支援者」をやっている人間の、誰よりもよくわかっている。

 「親御さんだって、いつまでも元気じゃないんだから」と言う「支援者」は、相談者の状況を、根本的に理解していないと思われる。社会的に不能であることの苦しさは、私にとって親の殺害について考えるほどに強かった。他殺も自殺も考えるくらいに追い詰められている時に、将来の親の健康悪化を指摘するのは、どうしようもなく能天気すぎる。

 私は親との関係など良くなかったし、親によって苦しまされてきたことが多々ある。「親御さん」に甘えてきたわけではなく、「親御さん」が頼りになるわけではない。救いにならないものが健康でなくなった場合のことを言われても、自立への励ましにならない。

 それに私は、八歳で学校へ行かなくなり出した頃から、似たような言葉を言われていた。行政の「支援」の場で「いつまでも元気じゃない」と言われた時、その「いつまでも」という言葉は、二十年前から変わらない、私への批判だった。二十年間云われてきた言葉を、またあらためて、「支援者」がわざわざ口に出して私に言う。それ自体に、ひどく気持ちを疲れさせ、うんざりさせられる思いがする。少なくとも、二度とこの「支援者」と話したいとは思わない。

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〈将来の私〉より〈現在の私〉と話してほしい

 この言葉には、「今現在は良くても、将来どうするのか」という批判がある。「今は寝て食べて暮らしていけても、養ってくれる親がいなくなればそれもかなわない。働かなければお金が得られないのだから、将来のことを考えて、就労せねばならない」、という、そのような批判。

 すでに言われてきたことだけれど、良い「社会人」になるためには、〈現在〉を犠牲にさせるような考え方がある。正しい生き方をするためには、〈将来〉から駆り立てられるようにして、神経をすり減らさねばならない。

 小学校の時は、「良い中学へ行くため」に勉強する。
 中学校の時は、「良い高校へ行くため」に勉強する。
 高校の時は、「良い大学へ行くため」に勉強する。
 大学の時は、「良い会社へ入るため」に勉強する。

 そうして、会社員になって働くのは「良い出世のため」であるかもしれず、安定した給与を得るのは「良い老後のため」であるかもしれない。下手をしたら、いつまでも〈現在〉のためには生きられない。〈将来〉のために、〈現在〉の生活を決めている。

 社会的なコースからはずれても、〈将来〉のプレッシャーはずっと続いていく。

 学力の低い学校へ行っていたら、
 「良い学校へ行かないで将来どうする」
 不登校になったら、
 「学校へ行かないで将来どうする」
 何もしないで過ごしていたら、
 「勉強もしないで将来どうする」
 長い年月が過ぎていったら、
 「自立できないで将来どうする」
 そうして言われる、
 「親だっていつまでも元気じゃないんだから」

 

 家からは叩き出されなかったけれど、私は〈現在〉から叩き出されてきた。〈将来〉への悲観が自分を否定させ、精神を悪くし、家族との関係も悪化させた。

 善良な「支援者」が、将来を不安がらせることによって私を変えようとしても、その言葉は悪い影響しか与えない。結果として、〈現在〉の私を果てしなく痛めつけるばかりだ。

 

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 執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の三年間は同世代との交流をせずに過ごした。二十代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆。個人ブログ http://kikui-y.hatenablog.com/

 

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