ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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ひきこもりに生産性はないのか ~なぜ、ひきこもりは白い眼で見られる?~

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「生産」というと工場のような場所における
モノの生産を思い浮かべる人が多い。
写真・photoAC

 

文・ぼそっと池井多

 

昨年の流行語大賞は、

「そだねー」

が取ったようだが、私としては

「生産性」

が取るべきであったと思っている。

 

それほど昨年は「生産性」論議に明け暮れる一年であった。

発端はいうまでもなく、昨年7月に「新潮45」に発表された杉田水脈衆院議員の論文であるが、これは見かけ上はLGBTの人口的再生産における生産性を論じようとしているものであった。すなわち、

「生物的に子どもを産めば生産性がある」

と考えているような、見地の浅い論議である。

しかし、「生産性」という言葉がまず想起させるものは、やはり工場でガッチャンガッチャンと何かモノを生産しているような経済的生産性であるだろう。そのため生産性の議論が盛んになるにつれ、白い眼で見られるようになったのが、いわゆる「働いてない人」、すなわち私たちひきこもりやニートといった人々である。

  

私自身もそこへ含まれる。
いまの私は無職、「働いていない人」である。

このようにいくつかの言語で当事者発信ということをやっているし、ひきこもりに関わるイベントで講演やファシリテーターなどをやらせていただいているが、社会的には「働いていない」とされる。

生活保護を受けている私は、講演の謝金など収入が生じた場合は、収入申告書というものを役所に提出し、収入の何割かを翌月の支給額から差し引かれなくてはならない。

その際に私がやっていることは、役所に「労働」とは見なされず、収入は「非稼働収入」と見なされ、高率な控除額を適用される。

「非稼働収入」とは、たとえば「宝くじが当たった」「思わぬ遺産がころがりこんできた」などの、ラッキーなことに棚ぼた式に懐に入ってきた収入を主に指す。本人が汗水たらして働いた成果とはみなされないのである。

そういう収入は、「稼働収入」、つまり汗水たらして働いて得た収入よりも高い金額をがっぽりと役所に持っていかれるのである。いくら私が頭を悩まして原稿を書いても、私のやっていることは労働ではなく、私は「働いていない」とされているというわけである。

 

よって私は社会的に「生産性がない」と分類されるであろう。
杉田議員には、ぜひ私をネタにして次の論文を書いていただきたいものであるが、肝心な「新潮45」があっさりと廃刊されてしまったので、べつの媒体を探さなければなるまい。それを探すプロセスは、はたして役所に「生産」と見なされるであろうか。

 

たしかに、私がつむぎだす言葉などに、たいした価値はないかもしれないが、しかしそうすると、私がうつの頭をふりしぼり、ウンウンとうなりながら言葉をつむぎだす作業はいったい何かということになる。

これは「生産」ではないのだろうか。

 

何もしていない生産活動

そこでひきこもりの親御さんから問われるかもしれない。

「なるほど、よろしい。あなたはまだしも生産性があると認めてあげましょう。言葉をつむぎだし、発信という生産をしていますからね。
でも、うちの子は何もしてないんです。だから、これはやっぱりダメでしょ、生産性ないでしょ。だから、私はヤキモキしているのです」と。

 

ところが、私から言わせていただけるならば、そういう親御さんが心配しておられる子どもさん、つまり、何もしていないと見えるひきこもりも、言葉を生産していると認めてもらえた今の私のようなひきこもりと、本質的に同じであると見えるのである。


なぜならば、私がもっとガチでひきこもっていたころ、たとえば30代などは、まさにそういう親御さんが描写するような「何もしてないひきこもり」だったからだ。

傍目には本を読み、ゲームをしていただけである。私は、実家を出てからひきこもりが始まり、30代は独り暮らしでひきこもっていたので、そんな私を見て、
「この子は何もしていない」
とヤキモキする親の存在はいなかった。親は遠くにいた。
しかし、私が何もしていなかったことには何も変わりはない。

傍目には何もしていないように見えても、私の内部では自問自答が進んでいた。
なぜ自分はこのように動けなくなるか。
なぜ自分は他の人たちのように働けないのか。
自分が望むものとは何か。
自分が言いたいこととは何か。
自分とは何か。……

世の人が「働き盛り」と呼ぶような年代を、そんなふうに何もしないで過ごしてきた結果が、いまの私から生産され発信されている言葉たちである。

何もしないでただひきこもっていた時間が、間違いなく生産という過程の一部を成していた。何かが生み出されてくるのが他者の目に認識されることが生産なのではない。

生産性は、評価の視点によっていくらでも変わるのだ。

 

ひきこもりに生産性はないのか。
私は「ある」と思う。
ひきこもりは、きっと未来の世界における新しい生産性のかたちを人生を賭け、身をもって提案している、スーパー・クリエイティブな人たちであることだろう。

 

<筆者プロフィール>
ぼそっと池井多 :まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOTぼそっとプロジェクト」主宰。
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