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シチリア-東京 ひきこもりダイヤローグ 第2回 「ひきこもりになる人、ならない人」

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タオルミナ・ビーチ」写真:Nicola e Pina Sicilia
マリアテレサ「わたしの家からクルマで約1時間。シチリア随一のリゾート。去年G7サミットが開かれて世界の首脳が集まりました。」

 

文・ぼそっと池井多 / マリアテレサ・カルラボッタ

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 <プロフィール>
ぼそっと池井多:日本、東京郊外に住む55歳のひきこもり当事者。
マリアテレサ:イタリアの南端、シチリア島で理系高校に通う16歳。ひきこもり支援者をめざしている。

  

 ・・・「シチリア-東京 第1回」からのつづき

なぜひきこもりに共感を

ぼそっと池井多: 前回、私たちの第1回をお届けしてから、じつに多くの方々からご反響をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

マリアテレサ: どうもありがとうございました。

ぼそっと池井多:いただいたコメントの中で、いくつかはマリアテレサ、きみへの質問だよ。「なぜあなたはそんなにひきこもりに共感するの?」というものだ。

マリアテレサ: はい、じゃあ、ここでお答えします。

じつは、わたしは二、三年前まで、とってもシャイで内向的な女の子だったんです。そして、わたしは社会のいろいろなことにムカついてました。今もわたしは社会のいろいろな慣習に「これはおかしい」と思い続けています。とても小さな力にすぎないけれど、できるかぎりそれら社会のおかしさを良い方向へ変えていきたい、っていつも思ってるの。

ぼそっと池井多: へえ~。具体的にいうと、きみは社会のどんなところが許せないのかい?

マリアテレサ: たとえば、わたしが住んでいるイタリアは、社会的にも文化的にもたくさんの問題があります。政治家たちは彼らの責任と仕事が何であるか、ほんとは知っているくせに、知らないふりをしてるんです。あの人たちは偽善者です。なにも結論づけようとしない。大衆の支持を取りつけるために、いろいろうまいことを言うくせに、結局ほとんど行動しないんです。そして、彼らの地位を利用して利益をむさぼっています。

ぼそっと池井多: まあ、そりゃ、どこの国でも起こることだわな。

マリアテレサ: イタリアには、もうやる気を失って、心理的には麻痺してしまっていて、悲観的な状況に慣れっこになっちゃっている人が多いんです。わたしたちの今の社会は「怠慢」と「無関心」という二つの言葉で説明できます。

ぼそっと池井多: おお、すごいね。自分の住んでいる社会を批判的にとらえようとするきみはすごく偉いと思うけど、情けないことに私はきみのようではなかったな。自分の高校時代を振り返ると、きみのように社会へ怒りを持つほど成熟していなかった。

子どものころ、私の心は、社会ではなく、自分が身を置いている家族に怒りを持つことで忙しかったんだ。あのころの私にとって社会というのは、家族の外に茫洋(ぼうよう)と広がる未知なる世界だった。それが何であるかわからないから、それに対する反感も持ちようがなかったのさ。 

マリアテレサ: あなたは高校生のころ、政治について考えたりしなかったの?

ぼそっと池井多: 発言はしていた。きみの年齢、16歳のときに、私は政治にかかわる現実的なことは何にも知らないくせに、偉そうにいろいろな発言だけは行なっていたんだよ。私は生徒会の会長なんて、やっちゃっていたからね。発言する機会だけはたくさんあった。

でも私は、自分の国の政治や、この世界の状況に、ほんとうに怒って政治的な発言をしていたんじゃない。もし政治的な発言をすれば、それだけ自分が大人っぽく見えて、友達よりも優位に立てると思って、そうしていたのにすぎないんだ。

それらは、親によって充たされることのなかった存在承認への欲求から出る、まったく空虚な発言ばかりだった。まったく恥ずかしいかぎりだ。でも、私はそういうふうに空っぽの虚勢を張る必要があったんだ。母によって否定され、つぶされる自分を保持するために、ね。

マリアテレサ: わたしの高校でも生徒会みたいなものがあって、何人かの生徒が政治的な運動をやっています。まあ、わたしはイタリアの政治状況については意見があるけど、政治そのものだけに関心があるわけじゃないの。だからわたしは、生徒会役員とかそういうものからは距離を置いているんです。 

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「わたしのカプチーノ朝食」 写真:マリアテレサ

ひきこもりと外の世界

ぼそっと池井多: まあ、私自身の場合を単純にひきこもり全般に広げて考えてはいけないよ。私はしょせん自分の例しか語れない。

たくさんのひきこもり当事者が、外の世界に対して怒りや、反感、軽蔑などを持っているようだ。自分がひきこもっている部屋の外に広がる社会には、彼らはときにバカバカしさと偽善しか見いだせない。私が知るかぎり日本でもヨーロッパでも、たくさんのひきこもり当事者がそうさ。そういうひきこもりと、きみは何か共通点を自分に感じる?

マリアテレサ: うん、感じる。わたしはひきこもりの人たちと同じことを考えている。そして、ひきこもりの人たちの世界観に賛成できる。でも、わたし自身はひきこもりとはちがう行動を取っていこうと決めたの。だからわたしは、ひきこもりの支援者になるんだ。わたしはひきこもりとは違うからこそ、ひきこもりとわたしの間で理想的な関係を築きたいと思ってる。

ぼそっと池井多: なるほど。それはそれで、すばらしい考え方だね。ひきこもりときみの共通点も違いも、私はなんだかよくわかる気がするよ。きみの社会に対する不満や、大人たちにムカついている感覚は、私の耳には、とても具体的で、社会的で、外向きであるように聞こえる。反対に、ひきこもりたちが持っている同じような不満やムカつきは、たいていもっと漠然としていて、抽象的で、内向きなんだ。

マリアテレサ: へえ、そうなんだ。それはなぜだと思いますか。

ぼそっと池井多: たぶん、それはひきこもりが、人間関係を維持することに問題を抱えているからではないか、と思う。人がひきこもり始める理由は、人の数ほどある。「親に虐待された」「学校でいじめにあった」「家族ごと村から追放された」などなど、私が聞いたことのある話だけでも多種多様だ。

でも、たいていひきこもりというのは、成育の初期段階において、根っこのところで他者に対する基本的な信頼感が持てないまま、その上に人間関係を築いていこうとした人であることが多いように思う。

たとえば、きみは友達はたくさんいる?

マリアテレサ: います。まあ、友達もかなり選んでるけどね。

ぼそっと池井多: きみの友達は、みんなひきこもりじゃないだろう。

マリアテレサ: そうね、ひきこもりじゃない。 

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「学校の友達と」 写真:マリアテレサ

ひきこもりは何ができないか

ぼそっと池井多: 私が見るかぎり、ひきこもりじゃない人を友達にできる人というのは、たいていひきこもりじゃないんだよ。私の場合は、友人という存在が長年にわたってできなかった。近年は、友達はいるけれど、彼らは多かれ少なかれみんなひきこもりだ。世界観というか、どのように世の中を見ているか、ということが、ひきこもりとひきこもりでない人の間では、根っこからちがうように思うんだ。

マリアテレサ: わたしだって、人間関係に問題がないとは言い切れないわ。さっきも言ったように、わたしはとても臆病で内省的な女の子だったの。いつも周りをキョロキョロ見回して、この世界を見ている自分をもう一つの角度から眺めているようなところがあったし、同じくらいの齢の子が考えないようなことばかり考えていたわ。

ぼそっと池井多: それはただ、きみが知的に早熟な少女だったということだけじゃないのかなあ。たとえ、きみが友達をどこか外側から観察しているとしても、きみはちゃんときみ自身を学校というコミュニティの中に適応させているだろう?

マリアテレサ: そうね。わたしも初めは学校というコミュニティに溶けこんで、そこでわたしなりの居場所を得るのに、いくつか問題がありました。でも、わたしの場合、のんきで、しかも頼りがいのある友達に囲まれていたから何とかなった。その点、わたしはラッキーだったと思ってる。

だから、わたしは、

「ひきこもりの考えていることはわかる。でも、わたしは違う行動を取ることを選んだ」

というスタンスを取れるのだと思う。

ぼそっと池井多: ひきこもりだって「わたしはひきこもりとは違う行動を取ることを選びたい」と思っている人はたくさんいると思うよ。でも、できないんだ。問題は「どういう方向の行動を取るか」ではなくて「できるか、できないか」だと思う。

マリアテレサ: どういうこと?

ぼそっと池井多: たとえば、ここにきみの友達がいるとしよう。彼は足を折っている。きみは彼に言うかもしれない。

「ほら、今日は天気がいいわよ。外で走りましょうよ。わたしは走る。あなたは走らないの?」

すると、どうだろう。

「ぼくだって走りたい気持ちはあるんだ。でも、できない」

と彼は言うかもしれないね。

彼は、きみと同じ選択をしなくちゃいけない、ということはないんだ。彼の足は折れている。彼は彼ならではの方法でその時間を充実させるべきだ、たとえば外で走るかわりに室内で本を読んでいるとかね。

マリアテレサ: もちろん、それはそうだわ。

ぼそっと池井多: いま私は、「室内で本を読んでいる」を「ひきこもりになる」に例えたわけだけど、初めは「ひきこもりになる」ことは、けっして私が望んだことではなかった。でも、何年か経つうちに、自分が通ってきた人生の道すじにも、私はそれなりに納得している。たとえ、ひきこもりである現在の自分に賭けているとしても、始まりにおいてひきこもりになることに自分を賭けたことはない。そういうことが、私の中では矛盾なく言えるのだよ。

マリアテレサ: それはわかります。歳月が経っていくとともに、あなたは徐々に自分の状態を知るようになって、「ひきこもりになること」が実はあなたの「望んでいること」だと知るようになった、ということかしら。

ぼそっと池井多: もっと正確にいえば、歳月が経っていくとともに、私は自分が何になりたいかとは関係なく、いまの自分がこうであることを受け容れるようになり、現実的に限られた選択肢のなかで自分のやりたいことを探すようになった、ということかな。

マリアテレサ: もともとのあなたの人生計画ではそうでなかったとしても、あなたはひきこもりになったことに何一つ後悔はないでしょ?

ぼそっと池井多: 後悔? 私はたくさん後悔があるよ。これまでの人生をふりかえると、間違いと後悔だらけだよ。いま私は自分がひきこもりであることに、ある程度の満足はしているけれども。

マリアテレサ: その感覚はなんとなくわかる。でも、もっと教えて。あなたのいう後悔は、あなたがひきこもりになった事実に関してですか、それとも、あなたの人生を形づくったもっと他のことに関してですか。

ぼそっと池井多: 表面的には答えは後者だね。でも、深く考えると、たとえどんな小さなことであっても、私の人生でやってきた一つ一つの行動や体験が、今ひきこもりである私を作ってきたと思うね。

たとえば私は、大学のときの最初のガールフレンドを親に紹介したことを、いまだに後悔している。あのとき私の母は、紹介したガールフレンドに信じられないひどいことを言った。そのとき私はガールフレンドを守り切ってあげられなかった。結果的に彼女とは別れた。この小さな出来事は、いま私がひきこもりであることと、見かけ上は何の関係もないように見えるけど、これが私の「結婚もしない、子どもも作らない人生」へ踏み出す入り口だったという見方もできるわけだよ。そして、そういう人生の延長が、今のひきこもりだ。

マリアテレサ: なるほどー。あなたのいう後悔の全体像がわかったわ。

ぼそっと池井多: きみはとても早熟な女の子だけど、ひきこもりや不登校の中にも、本当に知的に早熟な子どもたちがいるよ。だから早熟というものは、人がひきこもりになる理由とどこかで絡んでいるのにちがいない。だけど、早熟だといわれた子どもが、ひきこもりになることなく、そのまま社会的に立派な成功をおさめることも多いから、早熟とひきこもりになる可能性を、安易にいっしょくたにするわけには行かないね。

マリアテレサ: それはそうだわ。あなたはよくぞ早熟とひきこもりの関係に焦点を当ててくれました。すべては、人が環境に適応する能力と、ひきこもりになるかならないかという意志の問題だと思う。

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「午前零時」 写真:ぼそっと池井多

意志の問題なのか?

ぼそっと池井多: きみこそ、よくぞその重要な問題にスポットライトを当ててくれたね。能力と意志。…そう、「意志」とは、まことに深い問題だ。私自身の個人的な体験にふたたび戻らせてもらおう。

私が初めてひきこもりになった1985年、それはまずうつ病という精神疾患から始まった。そのとき私はたしかに社会へ出ていくために行動を起こそうという意志を持っていたんだ。就職活動も会社訪問もした。ところが、動こうという意志を持てば持つほど、私は動けなくなっていった。

私はそれまで意志の力というものを信仰し、しっかりした意志を持てば全てのことは成ると信じていたから、動けないという自分の状態は受け容れられないものだった。そこで私は、「意志の力ではどうにもならない」という、経験したことのない新しい現実に、自分を適応させていかなくてはならなかったんだ。

その新しい現実に自分を適応させた延長線上に、いま私がひきこもりとして生きている現状がある。意志とは、そんなふうに複雑なものだ。

マリアテレサ: あなたが言うように、これは深い問題です。意志というものは、過大評価しても、過小評価してもいけないと思うの。意志にはかなりの力がある。でも、その力には限界があって、その限界は無意識によって作られているんじゃないかな。

「やろうと思えばできる」とよく言われるけど、それは「やろうと思うこと」に無意識が同意している範囲内でのこと。

努力したにもかかわらず、試みはすべて結果を出せなくて、あなたがひきこもりになってしまったのは、このためだと思う。あなたの潜在意識は、あなた自身の「社会へ出ていこう」という意志に反対していたのかもしれませんね。

ぼそっと池井多: そのとおり。人は、ひきこもりになった理由を説明しようとするとき、幾通りもの説明が頭に浮かぶものだけど、私の場合、その一つが「私の潜在意識が、ふつうの人々が織りなす社会に飛びこんでいこうとする私を止めた。だから私はひきこもりになった」というものなんだ。

マリアテレサ: そう言えるかもね。

ぼそっと池井多: 奇しくも私がひきこもりになった年に、人間の意志というものに関して、ある有名な実験の結果が発表されていたらしい。アメリカの心理学者にして神経学者、ベンジャミン・リベット (1917-2007) による実験だ。

マリアテレサ: なんか聞いたことある。

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「生物室で実験」 写真:マリアテレサ

 ぼそっと池井多: その実験が行なわれる前は、人はこう考えていた。「はじめに、人は何かをしようという意志をいだく。それから、彼はその意志を実現するために身体を動かして行動を始める」と。

ところが、その実験の結果は反対だったんだ。はじめに、身体の運動を起こす指令が被験者の脳波に起こった。それから、意志というものが生まれ、さらにそのあとで、身体が実際に動いていく。つまり、最初に生じるのは意志ではなかったんだね。

マリアテレサ: 考えてみると、わたしたちが自分の意志によっておこなっている行動って、日々の生活の中でごくわずかよね。意識によって動かせる随意筋(*)でさえ、わたしたちの心が知らないうちに「動きなさい」という指令をこれらの筋肉に送っているから動いている。

たとえば、今わたしが椅子に座って、たまたま肘(ひじ)を動かして座り心地を良くしたけど、これだってわたしが自分でやったことだけど、そうしようという意志を持ったとはいえないもん。

重要な出来事ではないから気づかないだけで、こういうことがわたしの毎日にたくさん起こってる。 

    • 随意筋(ずいいきん / voluntary muscle)

      手や足の筋肉のように、自分の意識によって動かせる筋肉。皮肉にも「意志の (voluntary) 筋肉」とつづられる。反対が、内臓筋のように意識では動かせない不随意筋(involuntary muscle)。

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 ぼそっと池井多: まあ、リベットの実験は、単位が「ミリ秒」というような、非常に短い時間で測る現象を対象にしているので、これによって単純に、私が「ひきこもりになろう」という意志を持って身体が動かなくなったのではない、ということを説明するのにあてはめることはできないだろう。

そしてまた、意志と関連づけた時にも「ひきこもりになる」と「ひきこもりであり続ける」は、異なる別個の問題であるかもしれない。けれども、少なくともこの実験は、それまで信じられてきた意志の全能性というものを否定したんだ。「ある行動を実行せよ」というコマンドが神経システムにおいて発せられたあとに、意識された自我、つまり「わたしはこうしたい」という気持ちが生まれる、ということが証明された。

マリアテレサ: それってすごいことですよね。これによってわたしたちは、意志がかなり無意識に従わされていて、それがすべての行動にあてはまる、という理論についてもっと議論することができるんだから。

リベット博士が分析したのは、客観的で経験的な見地からの神経のメカニズムだったみたいだけど、結果的に彼は「自由意志」というものがどのくらい有効かということを問題視することになった、というわけね。

ぼそっと池井多: そのとおり。「自由意志」というものが、ほんとうに存在するのか否か、それは大きな問題だ。リベット博士による1983年の実験で採用されたのは、「手首を持ち上げる」というような、簡単な身体の動きだったんだけど、それからもっと後になって、「あることを言葉にする」とか「いくつかの文字を書く」とか、さらに認知的に複雑な現象についても同じような実験がおこなわれた。そして、結果は同じになったんだ。(*1)

    • *1:Benjamin Libet, Mind Time: The Temporal Factor in Consciousness. Cambridge, Massachusetts, Harvard University Press, 2004. pp. 137-156,

マリアテレサ: なんかわかる。たとえば誰かに話しかけるとき、言うことをあらかじめ考えて話しかけるんじゃなくて、気がついたら話してたりするじゃない。これもそうかなあ。

ぼそっと池井多: 人がひきこもりになるとき、その人の潜在意識は、意識された自我が把握しているよりも、もっとたくさんのことを把握しているはずなんだよね。このとき、その人は社会へ出ていくという、あるいはもっとその先を言えば、社会を変革し、世界を変えるといった行動的な考えをあきらめているとも言える。なぜならば、ひきこもりになるというのは、ある意味で無力であることの認識だからだよ。

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「修学旅行 - シチリア島にしばらくの間さようなら」
写真:マリアテレサ

マリアテレサ: なぜそこであきらめるの?

ぼそっと池井多: うん、二つ理由を挙げてみよう。一つは、ひきこもりになる人の頭の中は、内的な世界のことで忙しくて、外部の世界のことを熱心に考えるだけの頭脳的なメモリがないんだ。 たとえば、大きなところでは政治、小さなところでは部屋の片づけなんかも、メモリが割り当てられない領域に入るだろう。

二つめの理由は、ひきこもりになる人は、ある意味、早熟であるがゆえに、自分の能力の限界を早くも悟ってしまっていることがよくあるからだ。初めからできないとわかっていることはやらない、というだけの話なんだ。

マリアテレサ: それもなんかわかる気がする。生来、自分にこもっちゃう人というのは、ひきこもりになりやすいのかしら。

ぼそっと池井多: うん。私が思うに、意識であれ無意識であれ、ひきこもりになる決定というのは、「外部の世界とは戦っていけない」というあきらめから来ているものだと思うよ。

私は自分がひきこもりだから、よくそう考える。社会的なことにコミットしなくなるあきらめというものは、私たちひきこもりの早熟か遅熟かどちらかから来ているものだと思う。

マリアテレサ: おっしゃることわかります。もちろん、みんな自分にとって、ほんとうにフェアで筋の通っていると思うことだけを行為しているんだわ。

ぼそっと池井多: そのとおり。結局きみが支援者となることを選び、

「わたしだってあなたと同じように考えた。でも、わたしは違う行動を取ることを選んだ」

といったとき、ひきこもり当事者がどのように思うかが問題だ、と私は言いたいのだよ。きみは支援者として、当事者との共通点を挙げたつもりかもしれないが、当事者からすると、

「そうかい。あなたは違う行動を取ることを選んだんだね。よかったね。でもボクはできないよ」

と思って、きみとの間に冷たい距離を感じるかもしれない。そうしたら、きみの支援は成功しないだろう。ひきこもりの支援者になるというのは、そんなに簡単なことじゃないんだ。

マリアテレサ: わたしだって、ひきこもり支援者という役割が簡単じゃないことぐらい知ってますよ。ひきこもり当事者と支援者の関係バランスは、とてもデリケートで本質的だと思います。このバランスは、それぞれ違う体験を生きてきて、それぞれの体験が共有され、お互いによって受け容れられるということの上に成り立っています。当事者・支援者という関係は、同じ状況を違う観点からとらえ合うということで、お互いの人生を豊かにするかもしれません。この話題については、のちのちお話していきましょう。

 

・・・「シチリア-東京 第3回」へつづく

 

・・・この記事のイタリア語版

・・・この記事の英語版