ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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台湾の映像作家 盧德昕との対話 第3回「ひきこもりとお金」

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盧德昕監督「Last Choice」より

 

文・盧德昕 & ぼそっと池井多

 

 

<プロフィール>

盧德昕(ル・テシン):台湾出身。現在、南カリフォルニア建築協会で修士として勉強するかたわら、ロサンゼルスで映画制作に関わる。日本のひきこもりを題材とした映画作品Last Choice/もがきを製作中。その他、創作活動は出版、著述、映画、空間デザイン、イベント企画、美術展など多岐にわたる。
盧德昕ホームページhttps://lutehsing.com/

ぼそっと池井多 :日本出身。ひきこもり。当事者の生の声を自分たちの手で社会へ発信する「VOSOT ぼそっとプロジェクト」主宰。三十年余りのひきこもり人生をふりかえる「ひきこもり放浪記」連載中。

 

 …「第2回」からのつづき

 

 「ふつうの人」とは何か

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ぼそっと池井多 西洋社会においても、ギードのような西洋のひきこもりたちは、ひきこもりが何であるか理解しています。

だから、これは東洋と西洋という対立ではなく、「ひきこもり」かひきこもりでない「ふつうの人」かという対立軸で考えるべきことかと思うのですが、いかがでしょう。 

 

 

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盧德昕 すると、またひきこもりの定義は何か、何がステレオタイプか、という話に戻っていきますね。

 

 

 


ぼそっと池井多 あるいは「ふつうの人とは何か」という論議にも帰っていくでしょうね。私たちひきこもりはいつも、「ひきこもりでない『ふつうの人々』は…、」と話すわけですが、じっさいそう話している私たち自身も厳密には何が「ふつう」かわからない。

「ふつう」の定義ができない。それでも「ふつうの人々」と表現しないことには話が進まない。だから、「ふつうの人々」と話している。

それを前提にしますと、ともかく「ふつうの人々」は、ひきこもりが何であるかあまり理解していないですね。

そういう状況は洋の東西を問わず同じです。だからフランスのひきこもりたちも、よくそのことをよく話題にします。「ふつうの人々」が自分たちを理解しない、という話を。

  

オタク文化の文法

ぼそっと池井多 私は「ひきこもり」という用語が存在しない1985年にひきこもり始めました。当時はインターネットもオンラインゲームもありませんでした。

アニメはありましたけど、私の原家族は教育圧力がへんな風に高い家族でしたから、アニメやマンガは禁止だったので、私はそういうものを観ないで育ちました。

非常に残念です、なぜならば、一つの外国語を習得する機会を逸したようなものだからです。私は、マンガを読むことは一つの外国語文学を読むことだと思います。私は英語やフランス語の本は少し読むことができますが、マンガがあまり読めません。きっと文法がわかっていないのでしょう。マンガもオンラインゲームも知らないので、オタク文化を理解できません。

しかしそれでも、あなたの友達と私は多くの共通点があることでしょう。私たちはきっと、実際の生身で他者たちと会うよりも、はるかに多くの時間をインターネット上の他者との交流に使っている。

あなたの友達はゲームのほかに何もやってなくて、それによって狂っているように見えるかもしれません。いっぽう、私は当事者メディアに一円にもならない記事を書いてばかりで、やっぱり狂っているように思っている人は、たくさんいると思いますよ。

そんな私もまた社会的には、
「何もやっていない人」
と人々から表現される状況でしょう。

実際にはいろいろやりすぎていて、忙しくて困っているのですが。

ひきこもりは忙しいのです。でも、記事を書くことで、私はお金を稼いでいません。

 

一つ、笑っちゃう話があって…。日本の経済界で有名な大新聞があるのですが、彼らは私が当事者メディアに書いた記事をもとにして、数日前にある記事を発表しました。

彼らはそれで儲けを得る。しかし、元になった私の文章は、私に儲けをもたらしてくれない。

ともかく、あなたの友達と私は、基本的に同じような日々を送っているのだと思います。

 

ゲーム以外のことをやる心の余裕がない

盧德昕 なるほど。台湾では、学校や仕事に行かない若いひきこもりたちに、両親がどうしているかというと、たいがい彼らのパソコンの電源を抜くのです。

それは本来やるべきこととは全然ちがう。なぜならば、彼らひきこもりは、心のなかにインターネットでやること以外のスペースを何も持っていないというのが現実なのだと思うのですよ。

私の友達は私にこう語りました。彼は自分の表面が膜をはっているように感じる、と。彼はゲームをするときだけ、その膜がはがれて、現実とちょくせつ触れ合えるのだ、と。

「自分はいつも圧縮されている。だからゲームをやりつづけるのだ」

とも言っています。それが彼の見方なのです。

 
ぼそっと池井多 「彼らひきこもりは、インターネットでやること以外のスペースを心の中に何も持っていない」というあなたの言葉から、私にはひきこもりでない他の人々はどうなのだろう、という連想が働きます。

あなたは、ご自分の友達のことをお話しくださいました。ゲームをしている間だけ彼の表面をおおっている膜(まく)が剥がれ、現実の世界に触れることができるという、あなたのお友達のことです。

私は彼の「膜」という表現にピンと来ました。私自身はゲームをやらないですが、それでもそれはとてもリアルな表現だと思います。

そういう状態が、ひきこもりでない他の人たちにもしばしば起こるものではないか、と私は思います。あなたのお友達は広い意味で嗜癖(しへき)者の心理を語っているのでしょう。

たとえば、アルコール依存症の人は、酔っぱらっている間だけその膜が開いているといいます。同じことがワーカホリック(仕事依存症)の人について言えますよね。

しかし、彼らは、自分がやっている、酒を飲むとか、仕事をするとか、ゲームをするとか、そういう嗜癖行動が、必ずしも好きではないのです。

「なんでオレはまたこんなことをやっているんだ」

と、自分のやっている行為を憎みながら、それをやっていることがあります。なぜでしょう? 

それは、あなたがいうように、「彼らは、それをやること以外のスペースを心の中に持っていない」からではないでしょうか。


しかし、ここでこういう反論を喰らうことが予想されます。

「仕事依存症の人はまだマシさ。何かを生み出し、お金を稼いでいるのだから。お前たちひきこもりは、ゲームをやっていようといまいと、なんにも生み出さずお金も稼がないじゃないか」という反論を。

 

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盧德昕「Tower」(部分)

ひきこもりとお金

盧德昕 それはありえますね。

じゃあ、ここで聞かせてください。
ひきこもりはお金を稼ぎたいのでしょうか?

 

ぼそっと池井多 それはなかなか曲者(くせもの)のご質問ですね。

世間では、

「ひきこもりはお金を稼ぎたくないから、ひきこもりをやっているのだ」

と考えている人が多いことでしょう。

なるほど、ひきこもりの間には、不毛な経済活動に参加するのがいやな人がたくさんいます。しかし、

「自分はぜったいお金を稼がないぞ」

という信念を持っているひきこもりなど、どれくらいいるでしょう?
ほとんどいないのではないか、と私は思うのです。


でも、もし私たちがこう口に出して言ったら、どうなるでしょうか。

「ぼくは働きたくない。でもお金は欲しい。ぼくはとても価値ある人間だから、世間の人たちは何も見返りを求めずに、ぼくという人にお金をくれるべきなのだ」と。

こうなると、せいぜい自己愛性パーソナリティ障害の診断を下されるのがオチですよね。

「お金がほしい」と「経済活動に参加したい」との間には、私たちにしてみると大きな距離があるのです。私たちの多くは、「お金がほしい」と「お金なんて要らない」という二つの考えの間を極端に揺れ動いているのではないか、と思います。

幸いにも、私は若い世代のひきこもり当事者のみなさんの中に
混ぜていただいてます。彼らのほとんどは30代です。

見ていると、彼らは私などよりも、たとえば「一攫千金」などへ夢を抱く確率が、はるかに大きいんじゃないかと思う。彼らの中には、

「これまでの人生の時間を自分はひきこもりとして無駄にしてきたから、それを取り戻すためにも、『一発逆転』を狙いたい」

という人が多くいるのではないでしょうか。

 

一発逆転と一攫千金

ぼそっと池井多 いまの私は、

「自分の過去のひきこもりの歳月が無駄であった」

とは、けっして思いませんが、二十代、三十代といった、彼らの年代には、私にもそういう気持ちがあったかもしれませんね。

私の場合は、抽象的なイメージとして「一発逆転」「一攫千金」を夢見たことはあったかもしれませんが、何一つ具体的にそれへ向けて行動することはありませんでした。宝くじも買ったことがありません。

それって、ただの臆病だと考えられるかもしれませんが、齢をとって考えると、あれは一つの自分の無意識的な選択だったかもしれない、と思うのです。

「お金持ちになるために、何か具体的に始動したとしたら、たちまち自分の生活は忙しくなり、隅々まで把握できないものになってしまうだろう。それは自分には手に負えない生活である。」

そんな風に私は無意識で考えていたのではないでしょうか。

けっきょく私は、人生においてお金よりも時間を取っていたのです。

 

働くとは、私にとって自分の人生の時間を売り、お金を買うことだったのでしょう。

 

いっぽうで、若いひきこもりの人の中には、できることなら、オンラインゲームと金儲けを同時にやりたい人がたくさんいることでしょう。だから、株や外貨や仮想通貨などのトレーダーの仕事が、若いひきこもりの中で高い人気を占めているのだと思います。
じっさい、その中で短期間に巨万の富を手にした人は、ごくわずかだと思いますが。


「お金を稼ぎたい」

という欲望は、

「自分を幸福にできるものはお金だ」

という信仰に裏打ちされているのではないでしょうか。

もちろん、かくいう私もつねに最低限生きていくだけのお金は必要です。しかし、たとえ小さくとも、静かで満足できる自分の生活環境を保持することの方が、お金を儲けるよりも、私にとってははるかに重要なのです。

これも齢のせいなのでしょうか。ゲーム三昧の日々を送っていらっしゃるというあなたのお友達は、このへんについていったい何て言うでしょうね。

 

 「親にわるいから」という感情

盧德昕 私が友達から聞いたことと、いくつか他のソースからの情報ですが、彼ら若いひきこもりがお金を稼ぎたいのは、両親に対する罪の感情を払拭したいからだと思いますね。

彼らは自立して、この手の罪の感覚から逃げたいのです。

たぶん彼らの両親はやさしくて、彼らを面倒見るのに、そういう罪をかぶせるようなことは何一つ言わないのですが、だからといって子どもたちであるひきこもりは、その手の罪の感覚を脱ぎ捨てることは容易にできません。


 ぼそっと池井多 なるほど、私も23歳でひきこもりになるまでは、
そういうふうに言っていたかもしれません。

つまり、
「自分は生まれながらにして両親に何かを負っている」
「自分が今日あるのは両親のおかげである」
と教えられてきたので、それをバカみたいに鵜呑みにしていたのです。

彼らが私に教育をほどこしてくれたので私は大学への行けたのだ、というように考えていました。そうしたら、私は肉体的に動けなくなったのです。うつ病の発症でした。それが私のひきこもり歴の始まりです。

虚心に振り返ってみると、両親が私に何かをしたことで私が学んだよりも、私が何かを自主的に学んでいこうとしたのを両親が環境的に邪魔をした時の方がはるかに多かったです。

だから、いまや私は、子どものころと同じようには考えていません。
私は両親に「そうしてください」と頼んだ覚えはないのです。

彼らが私に私の志向に反する、彼らなりの教育を与えたのは、彼らの選択です。私が責任を負うべき問題ではありません。
少なくとも、そのことについて私が両親に「わるい」とか、罪の感覚を持つ必要はまったくなかったのです。彼らは独立した人間で、私も独立した人間です。彼らは彼らの選択によってやることを決め、私は私の選択によって私のやることを決めています。
だからあなたのお友達も、今は両親への罪の感覚とかいっているかもしれないけれど、もう数年が経ったら、何というかわかりませんよ。

 

・・・「第4回」へつづく。

 

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