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科学技術の発達とひきこもりの増加:台湾の映像作家 盧德昕との対話 第4回

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盧德昕監督「Last Choice」より

 

文・盧德昕 & ぼそっと池井多

 

 

<プロフィール>

盧德昕(ル・テシン):台湾出身。現在、南カリフォルニア建築協会で修士として勉強するかたわら、ロサンゼルスで映画制作に関わる。日本のひきこもりを題材とした映画作品Last Choice/もがきを製作中。その他、創作活動は出版、著述、映画、空間デザイン、イベント企画、美術展など多岐にわたる。
盧德昕ホームページhttps://lutehsing.com/

ぼそっと池井多 :日本出身。ひきこもり。当事者の生の声を自分たちの手で社会へ発信する「VOSOT ぼそっとプロジェクト」主宰。三十年余りのひきこもり人生をふりかえる「ひきこもり放浪記」連載中。

 

 …「第3回」からのつづき

  

東洋のひきこもりに特有な親子関係

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ぼそっと池井多 前回「第3回」の最後にあなたは、ひきこもりであるかもしれないお友達の方が、ひきこもりであることによって、ご両親に罪の意識を抱いていて、それが彼にとって金持ちになりたい動機である、と語ってくれました。
つまり彼は、親を安心させたいから金持ちになりたいのですね。

私自身はまったくそのように感じていませんが、あなたのお友達が言いたいことはわかります。

かつて私もそういう感覚を持ったことがあったかもしれません。そして、いま私が友達である日本の若いひきこもりの中には、そういう感覚を親に対して抱いている人が多いかもしれません。

ところが、西洋のひきこもりたち、たとえばフランス、イタリア、アメリカといった国のひきこもりたちは、あまり親に申し訳ないといった感覚を持っているようには、私の耳には聞こえてこないのです。

少なくとも、私たちアジア人のようには、親への罪悪感が強くないように思えます。ひきこもり当事者、親、社会という三つを結ぶ関係性は、西洋においては東洋とちがうように思うのです。

だから私は、「親に申し訳ない」という強い感覚をもつのは、ある種、アジア社会におけるひきこもりたちの特徴ではないかと考えております。

 

それは不思議なことではないでしょう。私たちはいずれも、歴史をさかのぼれば、儒教の影響を圧倒的に受けてきましたから。儒教は私たちに、「子は親を敬い、年少者は年長者を尊重しろ」と教えてきました。

しかし、もともと儒教は、親子のあいだに調和のとれた関係性を提示していたと思うのです。なぜならば、昔は「孝慈」という言葉が使われていたようですから。つまり、子が親に尽くす「」と、親が子をいつくしむ「」は、セットで使われるのが、昔々は前提であったようですね。

しかし、時代が下るにつれて、子に対して「慈」を持っていないくせに、子に「孝」を要求する親が増えてきた。あるいは、自分の身勝手な自己実現を子どもに押しつけることが、子を愛すること、「慈」だと勘違いする親が増えてきたのではないでしょうか。

こうして、儒教的な親子関係は、子どもが親に見返りを求めず一方的に従うことだと考えられるようになっていきました。社会もそれを肯定し、推奨しました。

でも、これは本来の儒教的な考え方ではないと思います。こんにち「孝慈」という語は、日本では使われません。もし孔子が現代に生きていたら、
「親、慈ならざれば、子、孝するにおよばず」
とか何とか言うのではないかと思いますよ。

家族という共同体単位の絶対化

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盧德昕 なるほど、それはありえますね。多くの人は「家族」が社会における最小単位だととらえています。そして家族はずっとつながっていなければなりません。社会がそう望んでいるからです。


私は、これが非常に危険な思想であるように思われます。もし両親が子どもを愛していなかったらどうでしょう。もし子どもが親を好きではなかったどうでしょう。取るに足らない小さなミスが起こっても、そのようになりえます。
彼らはいったいどうしたら、お互い傷つけあうことを避けるために、家族という見えない鎖を断ち切って、自分たちを解き放つことができるでしょうか。
悲しいことに、人々はこの話題を話すことを避けています。なぜならば、人は「自分の家族がきらいだ」ということはあってはならないからです。
私が見る所では、こういうメンタリティはアジアでこそ、よく観察されます。

 

世界に共通するひきこもり要因

ぼそっと池井多 それはたいへん面白いですね。私は2017年12月、GHO世界ひきこもり機構 *1)というものをインターネット上に作らせていただきました。地球上のすべてのひきこもりや、ひきこもり関係者が、お互いつながり合いやすくするためです。


そこで私は、ひきこもりという現象が起こっているのは、何も先進国だけでないということを学びました。「どのようにひきこもりが生まれるのか」というプロセスにおいて、世界中に共通する構造や要因があるように思えてきました。それを言葉で表すのは難しいんですけどね。
しかし一方では、世界共通ではない、ひきこもり生成の要因もあるはずだと思います。ちょうど、アジア社会において、儒教の影響というものは、家族の中でひきこもりを生みだした間接的要因としてどこかにからまっているかもしれない、ということがあるように。
いずれにせよ、ひきこもりについては、たくさんのことがわかっていません。私たちがひきこもりに関して世界中からもっと多くのデータや事例を集められるようになったら、たぶん私たちはひきこもりに関してもっと真実を見つけられるようになるでしょう。

 

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盧德昕「Taipei Delirium」より部分

 

人工知能の発達とひきこもりの増加

盧德昕 ひきこもりに関して、おそらく世界共通のことで、もう一つの点を取り上げさせてください。それは科学技術とひきこもりの関係性です。

ぼそっと池井多 うおっ、なんだか壮大な話になってきましたね。それはいったいどういう問題でしょうか。

盧德昕 このような問題です。
あなたは、VRのようなメディア、アニメ、マンガ、没入型テクノロジーなどの技術が、ひきこもりになるための要素だと思いますか。
というのは、このようなテクノロジーを描いている『レディ・プレイヤー・ワン』という映画作品があるのです。
現代の新しいメディアに不満を表明している人は多くいますが、実際それらは彼らにとって自身を引き出すのに快適な環境をつくってくれていますよね。
あなたは、こういうことについてはどういうご意見をお持ちですか。

ぼそっと池井多 前に申しましたけれども、私がひきこもりを始めたときはインターネットがありませんでした。
だから、私がひきこもりになったことやひきこもりであることと、そういうテクノロジーの発達は、ほとんど関係がないと思います。
ひきこもりとテクノロジーの発達は、直接的には関係はないでしょう。
しかし、それを切り離れて考えれば、あなたのご質問は文明への疑問というべき何かに聞こえますが、いかがでしょうか。

盧德昕 そうだと思います。
あなたに言われるまで、そういう風には考えませんでしたが、言われてみれば、そうですね。

 

ミシェル・フーコーの予言

ぼそっと池井多 深い問題ですよね。
文明の発達は、私たちにさまざまな利便をもたらしました。たとえば、今日このようにあなたとこの場でお話ができているのも、文明のおかげですよね。
インターネットがなければ、遠い国に住んでいる者同士が知り合って、こうやってお会いすることもかなり難しかったでしょう。しかし、明らかなことに、一方で科学技術は、私たちから人間性とわれわれが呼んでいたものを、じょじょに奪っていくのです。


フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、たしか1964年に、「私たちが人間らしくありえるのはたかだかあと150年だ」と言っていましたね。
それから50年あまり経った今、AI、すなわち人工知能やロボットが到るところで活躍し始めている世界で起こっていることを眺めてみると、彼はよく予言していると思います。


テクノロジーが発達すると、私たちが、なぜこうやって生きているのか、何をすべきか、わからなくなる。テクノロジーの発達が、私たち人間から生きる意味を取りあげていってしまう部分があります。

しかし一方では、それはひきこもりの増加にも関連していると思います。なぜならば、若い世代のひきこもりは、言葉にして出さないけれども、こう感じている部分があるのではないでしょうか。
「よし、こういう仕事はみんなAIがやってくれる。オレが働く必要はない」と。

テクノロジーの発達は私たちに、「これだけ機械がやってくれる。それでも働くか、働かないか」という選択を与えはじめたのです。
このことが今日、世界的なひきこもりの増加とどこかで関連しているかもしれません。

 

AIの発達でがっかりするひきこもり

ぼそっと池井多 一方では、正直をいって、私のようなひきこもりは、AIの発達にちょっとした落胆をおぼえたりもしているのです。
おそらく私だけではないでしょう。AIの発達によって、私ができる領域が、あるいは人間ができる仕事が、どんどんなくなっていくように感じられるからです。
もし他の人が聞いたら、おかしいと思うことでしょう。なぜなら私たちひきこもりは働いていないことになっていますから。
「人間がする仕事がどんどん減っていくことでがっかりするなんて、働いている人だけがそれを感じる資格を持っているんじゃないの?」
と言われるかもしれません。

しかし、このことは何を物語っているか。
ひきこもりは単に働きたくない人ではなく、自分なりの方法で働きたいと思っている人だ、ということはできないでしょうか。

 

ベーシック・インカムはひきこもり問題を解決するか

盧德昕 あなたたちは国際的なベーシック・インカムについて語っていましたね。

ジャック・アタリは、未来予測について記した彼の著書
『未来についての簡単な歴史』(2006年)
の中で、将来的にはAIやロボットやアルゴリズムが人間の労働を代行してくれるようになり、すべての国境がなくなって、人々は社会階級や人種や性別に閉じこめられることなく、人間であるかぎり無条件に支給される収入、ベーシック・インカム(BI)によって満ち足りた生活を送れるようになるだろう、と書いています。

これはたいへん美しい未来予想図です。同時に、実現するのはとてもむずかしいでしょう。
たとえば、国際ベーシック・インカムや新しいテクノロジーといったものについて、あなたはどのように考えていますか。これらはひきこもりの未来にとって解決となるでしょうか。

ぼそっと池井多 それらはひきこもりから生じているさまざまな問題を解決するのに、おおいに役立つことでしょう。しかし、「ベーシック・インカムがひきこもり問題の解決である」とは、私はいうのをためらいます。
なぜならば、「ひきこもりである」ということの中に、いろいろな側面があるからです。さまざまなタイプのひきこもりが居るというだけでなく、一人のひきこもりの人生の中にも、さまざまなパターンのひきこもり期間があるものです。

たとえば私は、前にお話ししたように23歳でひきこもりを始めましたが、20代、30代、40代、そして今の50代と「ひきこもり方」が微妙にちがいます。

20代は国外逃亡して「そとこもり」、30代は外の光を視るのも恐れて、部屋を洞窟のように暗くして国内で暮らしていました。当時、すでインターネットは出現していましたが、私はアクセスする機器を持っていなかったので、ないのに等しい状態でした。
洞窟の中で、私はまったく独りだったのです。

しかし、私はそうなることを選んでいたのでした。私は、私自身以外の人間、誰とも会いたくありませんでした。他者というものは、私に近づいてこないかぎり、その人が働いていようといまいと、あまり関係ありませんでした。


もしジャック・アタリのいう未来予測が実現するならば、世界の人々は、そのときにはもう働いていないでしょう。すると、ひきこもりが「働いていない」といって責められることはもうなくなっている、と考えられますね。だから、それはひきこもり問題の解決のように思えます。

しかし、ひたすら他者に会うのを恐れているひきこもりにとってはどうでしょうか。

たとえ、もう人間がやるべき仕事がない未来社会においても、いまだに人々が互いに訪問しあったり会ったりということは、今と同じように行なわれていることでしょう。すると、どうしても社交的な人間がもてはやされる。あちこち付き合いの盛んな人が、より広い心をもった尊敬すべき人物ということになっていく。人間関係の貧しい人は、それが豊かな人をうらやむかもしれません。
それがひるがえって、人に会わないひきこもりが周囲から馬鹿にされる原因となっていく可能性はじゅうぶんにあると思います。

 

ベーシック・インカムによる人間的疎外

ぼそっと池井多 結局、ベーシック・インカムにひきこもり問題の解決策を託すよりも、「ふつうの人たち」が持っているひきこもりに関する考え方を変えてもらうように持っていくのが一番よい、と私には思われるのです。

他人に迷惑をかけないかぎり、いろいろな生き方が認められるような社会。ひきこもりであることがもはや問題でない社会。

そういう社会を目指したほうが、ひきこもり問題の解決としては、国際ベーシック・インカムを導入するよりも、より近く、現実的である気がします。

もし私たちがジャック・アタリの未来予想図を実現したら、それはそれで、私たちは数多くの困難をかかえることでしょう。経済的に豊かな国は、比較的に国内でベーシック・インカム制度を導入することが容易かもしれませんが、導入したあと、貧しい国から移民が殺到するのではないでしょうか。

だから、ベーシック・インカム制度は、国際的にほとんど同時に実施されることが望ましい。でもそうすると、それまでに国家間の経済格差をまずどうするのか、という問題が出てきます。

あの小さな、…「小さな」とあえて私はここで言いますが、小さなEUの中でも、彼らは統合するのにあれだけ苦労して、あそこまでこぎつけましたが、いま国家間の経済格差のためにうまく行っていません。

日本で、国内でベーシック・インカムを実施した場合の試算が行われたことがあります。正確な数字は忘れてしまいましたが、もし日本の中だけでベーシック・インカムを実施したとしたら、国民一人あたりに支給される額は、まあ当たり前かもしれませんが、現在の社会保障制度で生活保護受給者がもらっている額、つまり日本国憲法に規定されている「健康で文化的な最低限度の生活」を保証する金額よりも、はるかに少ないものでした。

すると、貧困層からベーシック・インカム制度に対して反対意見が続出したのです。「その制度は私たち貧民をもっと貧乏にする」と。

 

一方、私はベーシック・インカムに関して、こんな意見を持っている日本のひきこもりを多く知っています。

「もしこのシステムが実現すれば、私たちは働かなくてもお金がもらえる。それはよい。でも、私は人々からこのように言われて社会から追い払われたように感じることだろう。

『よしよし、お前たちにはこのお金をあげるから、どうかあっちへ行ってくれ。ここは働く人たちの場なんだから、邪魔をしないで』と」

つまり、社会に参加したいけれども、できないでいるひきこもりは、ベーシック・インカム制度の導入によって、なおさら人間として疎外されたように感じるかもしれない、ということです。

ひきこもりの中には、内的な問題を解決するのを先延ばしにするために、暫定的にひきこもりであることを選択し続けている人が多くいます。こういう人は、何も社会を拒絶してひきこもりをやっているわけではないのです。そういう人は、ひきこもりであることによってたくさんの矛盾を抱えこんでいます。ベーシック・インカムの導入によって「働く人の社会へ残るか、それとも、そこから出ていくか」を迫られ、これらの矛盾が一気に噴き出すかもしれません。

 

人生を意味あるものと思いたいから仕事にすがる

ぼそっと池井多 人はみな「自分の人生に意味があると思いたい」ものではないでしょうか。そのために仕事にすがる人がいると思います。そういう人は、
「自分はこういう仕事をしている。これで社会の役に立っている。自分がいなければ、この仕事をする人がいなくなるぶんだけ社会が困る。だから自分の人生は意味あるのだ」
と納得するために仕事をしているのです。
ところが、もしそういう人が、
「これからはAIがその仕事をするから、あなたはベーシック・インカムをもらって、ただ生きているだけでいいですよ」
と言われたら、どうなるでしょう。その人は、
「自分の人生の意味がなくなってしまった」
という問題を抱えこむことになります。

その観点からすると、ひきこもりとは、幸か不幸か、成育歴その他の影響で、仕事にすがることでは自分の人生に意味が与えられていると感じられない人だ、と考えることもできます。仕事をすることによって人生に意味がもたらされないものだから、そういう人は仕事をしないでひきこもっている、というわけです。

このことは再び、ひきこもりという存在が、単なる「働きたくない人」ではないということを物語っているかもしれません。むしろ、主体をもって自分なりの方法で働きたい人が、ひきこもりであるということを示しているのではないでしょうか。

だから私は、ベーシック・インカムの導入には、さまざまな意味で慎重です。また実現には長くかかるでしょう。さらにその実施がすぐさまひきこもり問題の解決になるとは思いません。

 

国境があってほしい人間心理

盧德昕 つまり、あなたはベーシック・インカムにはかなり距離がある、とおっしゃるわけですね。

ぼそっと池井多 そうです。もし私たちがベーシック・インカムの国際的な実施を目指すならば、まずその前に、国際的な経済格差をどうにかしなくてはなりません。
そこであなたがおっしゃった、国境の廃止という案が考えられます。
しかし、EUや、自由貿易に対抗するさまざまな国際的な最近の動きを見ていますと、いまだ世界中でたくさんの人が国家というものに自己のアイデンティティを投影していることが感じられます。つまり、多くの人は「自分の国」があってほしいのです。
だから国境をなくすにも、まだまだ時間がかかるでしょう。


私たち人間は、自己を投影する何かを必要としているのかもしれません。たとえ国家の境目である国境がなくなっても、人々はやがて国家に代わる何かを、すなわち、自分が投影できる共同体を外界と区別する何かを作り出し、その境界線を作り出すのではないでしょうか。

 

 

・・・「第5回」へつづく。

 

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