ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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札幌母娘餓死事件の中心にあるのは、ほんとうに「8050問題」か。

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写真・Eisuke Ishii
 
 
文・ぼそっと池井多
 
 

今年はじめに発覚した札幌の母娘餓死事件は、
まことに痛ましい事件であった。(*1)

*1. 母と娘、孤立の末に
札幌のアパートに2遺体
「8050問題」支援急務

北海道新聞 2018.03.05

 

 

 

 

生活困窮世帯。老いた母親とひきこもりの娘。
生活保護も福祉サービスも受けていなかった。
母親は昨年12月中旬、ひきこもりの娘は12月末に、
それぞれ低栄養状態、低体温症で死亡したと推定される。

お金がなくて餓死したわけでもなさそうである。
部屋には9万円が残されていた。

「何とかならなかったのか」とおぼえる焦りに、 

「8050問題」支援急務

という見出しの一節が火を点ける。

 

きこもりといについて考える
ひ老会」(*2)などというものを主宰している私のところへは、
この事件の発覚以降、多くのメディアの方が連絡をくださる。
「8050問題について、どう思いますか」と。

*2. ひ老会(リンク

 


ところが、私の知っている8050問題の実相を語り始めると、
戸惑いを見せる記者さんが多い。
なかには、それで私の取材を打ち切る方もいる。

 

彼らが考えていた「8050問題」の像と
私が話す内容が違うからである。

彼らの頭の中に描かれた「8050問題」とは、
まさに札幌の事件のようなことなのだろう。
ほんとうは、彼らは私にこう聞きたいのではないか。
 
「8050問題に取り組んでおられるというあなた。
ほうっておくと親子ともども
餓死してしまいそうな家庭を知りませんか」
 
知るわけがない。
もし、知っていたら、すでに手が打たれているだろう。
餓死しそうな人々を知って放置するほど、
私も冷たい人間ではない。

 

札幌の事件の娘さんも、
おそらく餓死する直前であろう、12月26日に
通っていた銭湯の息子さんによって
自動販売機でスポーツドリンクを買うところを目撃されている。
息子さんは彼女をアパートの前まで送ってあげたという。

 

だが、ひと言も交わさなかった。
息子さんは、彼女がどういう体調にあるか、
あるいは、
部屋の中にすでに亡くなった母親がいるかなどは、
知ることがなかった。できなかったのである。

 

こうしてみると、私はつくづく思うのだ。
この事件の核心は、はたして
「8050問題をかかえた世帯は、ほうっておくと餓死してしまう」
というところにあるのだろうか。

 

むしろ、この事件から私たちが考えなければならないことは、


「餓死という状態で事後に発見されるまで、
自分たちの悲惨な情報を外へ出さない、出せない世帯をどうするか」


という問題ではないのか。

 

そして、それは「ひきこもりを持つ家庭」だけではないのである。

 

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写真・さえきたいち


ほぼ同じころに起こった、こんな事件はどうであろう。

 
長崎県佐世保市の民家で亡くなった妻(79)の遺体を放置したとして、死体遺棄の疑いで同居していた夫(82)が1月に逮捕された。約半年にわたり周囲に気付かれなかった妻の死。背景の一つに夫の「孤立」があったとされる。(*3)

 

 

遺体は腐敗して一部が白骨化していた。
夫は「昨年7月に妻が亡くなり、そのままにしていた」と供述。
二人の息子は独立して県外で暮らしていた。

その町の自治会長は2年前から夫を訪問し、
妻に要介護認定を受けさせ、生活の手助けをしてもらうことを勧めていた。

だが夫は「私が見てるんだから」と怒り、「もうよかって」とドアをピシャリと閉めた。次第に留守がちで会えないことが増えた。「無理やりでも家の中を見ておけばよかった。でもそういうわけにもいかないでしょう」(*3)

 

夫は元公務員であったという。


ならば、どのような手続きを取れば
行政支援サービスが受けられるか、
一般の住民よりもよく知っていたはずである。

にもかかわらず、いっさいそういうことを求めなかった末に
妻の遺体は白骨と化し、自身は逮捕されたのであった。

 

この事件には、「ひきこもりの子ども」は登場しない。
そのため、これを「8050問題」だという識者はいない。
しかし私は、この事件は本質的に札幌の母娘餓死事件と通じていると思うのである。

 

「親が死んだらどうする」ではなく、

「妻が死んだらどうする」だったわけである。

 

本人たちが「助けて」と言えなくて、
とんでもない問題をかかえているのは、
なにも80代の親と50代のひきこもりの子から成る家庭だけではない。

ここに、
「当事者が自分たちの悲惨な状況を、情報として外へ出せない」
という問題がある。

これに対して、
「もっと踏みこんで支援しよう」「おせっかいは良いことだ」

という声が、すぐにあがる。

 

なるほど、それが正当性を発揮する場合もあるだろう。

 

しかし、それは一歩間違えば、
「支援される者の主体の蹂躙(じゅうりん)」
につながり、
「支援という名の暴力」
になりかねないのだ。

 

「ひきこもり支援」という名の、
当事者の主体が蹂躙されたケースを多く見てきているひきこもり当事者だからこそ、私はそのことを強く感じざるをえない。

暴力的なアウトリーチは、けっして支援される者を幸福にしなかった。

 

札幌母娘餓死事件の教訓を、
行政による支援介入強化としてしまうのは、
安易であるばかりか危険である。

 

つまるところ、札幌母娘餓死事件の中心的なテーマは、

「8050問題」であるよりもまず、 

当事者の主体の尊重」と「介入の妥当性
葛藤相克

という問題なのである。

その問題を考えることなくして、
やみくもにここから「8050問題」支援急務とあおることに、
一人の非力なひきこもり当事者として、
私は小さな鈴のような警鐘を鳴らす。

 

「ひ老会」でお聞きしているかぎり、

「8050問題」を持つひきこもり当事者のほとんどが、

「親が死んだら自分は餓死してしまうかも」

という問題を持っているわけではないからである。

 

ほんとうの「8050問題」の内容は、もっと別なところにある。