ひきこもり当事者・喜久井(きくい)ヤシンさんによる小説「遊べなかった子」の連作を掲載します。12歳の少年みさきは、海の上をただよう〈舟の家〉に乗り、行く先々で奇妙な人々と出会います。さびしさやとまどいを経験していくなかで、少年はどこへたどりつくのか……?時にファンタジー、時に悪夢のような世界をお楽しみください。
遊べなかった子 #02 / 文・絵 喜久井ヤシン 着色 PaintsChainer
旅立たなかった日
みさきの居いる〈舟の家〉は、どこかの国の岸部にたどり着いていた。
波が、潮の流れを使った声で、語りかけてくる。
「おりる・こと・が・でき・るよ」
二階にある自分の部屋から外をながめると、コンクリートの船着き場が見える。みさきは、ひさしぶりに大きな陸地を見た。町にはいくつもの建物があって、洗濯物がはためいていたり、古そうな自転車が置かれていたりした。人の姿は見えなかったけれど、間違いなくたくさんの人が暮らしている国だ。
「ぼくを、運んでくれたんですね」
みさきは緊張しながら言った。
「おお・おお・おお」と、波はうれしがるような、あいづちみたいな返事をする。
みさきはふり返って、自分の部屋の中を見た。床はおもちゃや紙きれで散らかっている。どれもこれも、もう遊べなくなったものだった。ボードゲームは壊れてしまっていたし、トランプはカードが欠けている。テレビゲームのソフトはもうやりたくない。波は、みさきが島へ降りることを待っているのかもしれなかったけれど、みさきは家から出なかった。
「ぼく、やることがあるんです。だから、まだ行けません」
みさきは部屋の中に目ぼしいものがないとわかると、クローゼットを開けて、中にしまってあった段ボール箱を取り出した。小さなころから持っている、おもちゃ入れの箱だ。忙しさをよそおうみたいにして、ガチャガチャとひっくり返すと、中からはガラクタがたくさん出てきた。壊れた何かの部品に、動かなくなったロボット、汚くなった小さなクマのぬいぐるみに、破れたボール。何年も前に好きだったキャラクターのカードも、折れ破れてしまっている。一つだけ面白そうなパズルのセットがあったけれど、みさきの手にふれると、パズルのピースはボロボロと砂がくだけるようにして、形がほころんでしまうのだった。楽に時間を過ごさせてくれるようなものは、何も見つからない。みさきにとっては、おもちゃ箱の中の、小さな地獄みたいだった。
みさきはやれることが一つもなくて、床に座りこんだ。ベッドに寄りかかって、天井を見た。明かりのついていない照明と、ベージュ色の壁紙しかない。みさきは何も言わなかったし、波も何も言わなかった。
ドアの外にあるはずの、世界の音も聞こえずに、静かに時間が経ぎていった。みさきの部屋からはあざやかな、むらさきがかった夕暮れの空が見えている。
また長い、どうしようもできないような時間が過ぎて、気づくと〈舟の家〉は、いつのまにか島を離れ流れているようだった。窓の景色は島の山なみを横に流していき、だんだんとその影を遠のかせている。みさきは、波に止めてとは言わなかった。離れていく港町は、夕焼けの薄闇にいくつもの外灯を灯してきらめいている。住んでいる人のなかにはもしかしたら、良い人もいたのかもしれない。きれいなイスに座ることのできた、みさきにとって過ごしやすい場所もありえたのかもしれなかった。
たくさんの時間が流れて、みさきの家から見える景色は水平線だけになった。いつもどおりの見慣れた眺めだ。誰かがやって来ることもないし、どこかへ出かけねばならないこともない。また一日一日があるんだろう、壊れたおもちゃや、ボロボロのパズルや何かに囲まれながら。
ある日、みさきは窓にもたれてつぶやいた。
「ぼくの声、とどきませんか」
波は、深いところからくる海底の震えを伝えるだけで、みさきの言葉に答えてはくれなかった。
「もしぼくを流してくれるなら、飽きたり壊れたりしない、おもちゃのあるところに連れて行ってください。どんなにたくさんの時間があっても、耐えられるように」
みさきは退屈と戦うみたいにして、窓のところで体を揺らした。波は何かを言っているような気もしたけれど、聞きとることができなくなっていた。みさきは、自分を流し去ってくれるなら、どんな彼方にある目的地であってもかまわないという思いでいた。
〈舟の家〉は、やさしい潮の道にのって、夕暮れの海を流れている。波は新しく語ることもなく、みさきをどこかの陸地まで運んでいる途中だった。
つづく