「Node」設立の記事を読んで
ひきこもり経験者や当事者たちで作るNPO法人「Node(ノード)」について思ったことを少し書く。ひきポスの記事によると、賛否両論がわきおきるなか「Node」の記者会見が発表されたという。
前編・後編を読んでみると、不安や危惧する声が広がっているとある。この声はいわゆるひきこもり界隈内でひきこもり当事者の声だと思う。このひきこもり界隈というのは、かぎられた世界である。ひきこもり当事者が100万人いたとして、たぶん0.1%ていど。
オレもひきこもり界隈に多少足を突っ込んでいるけれど不安は全然ない。なぜか考えてみたところ、自分の生活に影響が出ないから。
「ひきこもり界隈」に繋がっていない、99.9%の当事者
この0.1%の不安より99.9%にどのような影響が出るのかのほうが気になる。
0.1%のひきこもり界隈というものに対して「お前らがひきこもりの代表面しているなよ」というひきこもり当事者がいる。
「ひきこもり界隈というのは、グルーミング(毛づくろい)して相互承認しているようなところだ」と自分も言われたことがある。面白いことを言うと思った。一方、それはそれで良くないだろうかと思った。本人たちがそれで満足ならば。
オレはNodeにしてもひきこもり界隈にしても利用できるならどんどん利用すればいいと思っている。なにもずっとそこにいる必要なんてないのだから。そこにいることが前提になっているから不安になっているんじゃないだろうか。そこにいてもいいがその比重をどれだけ減らすかなんだと思う。
既得権と言ったら言い過ぎかもしれないけど、ひきこもり界隈が変わらないことによって99.9%が入り込む隙間は出てこない。そういう意味では日本人というかひきこもり全般が保守的なんだと思う。変わることを恐れているしゼロリスクを求めている。
何も変わらないより、つぎに続くマインドを
Nodeという試み自体が成功するのは難しいと思う。だが、それでいい。こういうことは10回やって1回成功すればいいという土壌を作りあげることが大事であって、100発100中を求めるべきではない。見切り発車でいいと思う。問題があれば、その都度修正していけばいい。
2003年ごろ、NHKが長期にわたって「ひきこもりサポートキャンペーン」という番組を放送していた。でも、何も変わらなかった。そのキャンペーン自体が失敗したのはいい。問題はつぎに続くものがなかったということ。つぎに続きやすいようなマインドの形成が大事なんだと思う。
「他よりマシな選択肢」としての資本主義
オレは行政からのひきこもり支援に対しては極めて悲観的だ。まず、ひきこもりは政治的に力を持ち得ないから。数が多いことが政治的に力をもつとするならばとっくに非正規雇用労働者を支持母体とするような政党があるはず。社会によりコミットしている非正規雇用の人たちでこうなんだ。いわんやひきこもりをや。
そうなると、やはり資本主義しかない。ひきこもりと資本主義は相性が悪そうだけどそうだろうか。チャーチルの「民主主義は最悪の政治だ。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けば」という言葉の意味合いで最悪と言えるが、他よりマシだと思う。
ひきこもりは政治的に力を持ち得ないからまず行政の支援は難しそうだろう。でも、資本主義もきつい。そうなると活動的なひきこもりはヤマギシ会みたいになっていくと思う。非活動的なひきこもりは孤独死予備軍。それはさすがに嫌だわ。
いろいろ総合的に考えると資本主義しかない。資本主義の暴走など悪いところばかり挙げられるけれどお金の力は大きい。
お金で人種や性別や生まれなどの差別を取っ払うことができるんだから。もちろん、お金を稼ぐ能力による格差は出てくるけれど、どうしようもない先天的な差別を無くす可能性は生まれた。それでも残る差別は、宗教かノブレス・オブリージュを能力のある金持ちにインストールすれば何とかなるだろう。
あるいは、ひきこもりの概念みたいなものを少しずつ解体して鬱病や発達障害などの病気や障害のほうにシフトしていく。これだと支援の対象がはっきりするし、納税者も納得するだろう。
分かりやすさが関心を生む
ひきこもりというのは実にわかりにくい。外に出た瞬間、お前はひきこもりでないと誤解されてしまう。ほとんどの人は厚生労働省のひきこもりの定義なんて知らない。わかりやすさって大事だ。複雑さってそれだけで不利になる。
ひきこもりのわかりにくさのまま、支援を求めるのならそれは難しいと言わざるを得ない。人はただでさえ自分と関係のないものに関心を持たない。わかりにくければ尚更だ。オレだって地球の裏側で起きているであろう、内戦や飢餓について全然関心がない。それと同じことだと思う。