文・写真・たれまお。
入院くりかえしの始まり
入退院合計16回。
何でこうなったのかが分からない。IgA腎症で3回入院、元彼氏からのDVで身体拘束3回、子宮筋腫摘出1回、急性胃腸炎1回。他にも遭ったが忘れてしまった。
私はとても驚いている。
自宅に居るより むしろ入院の方が落ちつくのである。リアルの世界は、なまら疲れるからだろうか。できれば自宅に帰りたくない。ずっと入院していたい。……
42年生きてきた。
昭和50年8月26日生まれ。午後2時7分に私は生まれた。
父親と母親のしつけは、とても厳格だった。例えば、
「魚の骨を全て残さずに食べなさい」
とか言われていた。
小学校5年生の時から中学受験のための進学塾に通っていた。その進学塾は毎年、夏と冬に模擬テスト。これが苦痛でたまらなかった。小学5年生の時はたくさん遊びたかったのに・・・。
結局、中学受験には落ちてしまったが、今は受験したその学校が荒れているという話も聞く。行かなくて良かったと思う。
そして公立の地元の中学校に入学したが、春の学校検診で尿検査を受けた時に尿蛋白が出てしまった。地元の世田谷区の総合病院に入院した。しかし、そこでも詳しい検査結果が出なかったので、もっと大きな新宿区の大学病院で診てもらうことになった。
やがて18歳の時、IgA腎症が悪化して、腎生検を3回受けた結果、たくさんの薬を服用することになり、その副作用でムーンフェイスになってしまったのである。
IgA腎症の治療は、なまら辛かった。治療の結果、3割の腎機能をやられてしまい、ときおり自宅安静を強いられた。また、ムーンフェイスになったことで保育の専門学校で苛められた。
物が捨てられなくなったわけ
母親と父親からの虐待も凄かった。
中学受験の勉強をしていたころ、私はレコードデッキとレコードを持っていた。大好きだったのは工藤静香さんと光GENJIさんのレコード。しかし父親が、
「受験のさまたげになる」
といって、実家の2階の私のお部屋からレコードとレコードデッキを窓から捨てたのだ。
そのおかげで、私は今でも「物が捨てられないという愛着障がい」を持っている。これは今現在でも大変で、とても悩んでいるのだ。
母親は、すぐ癇癪(かんしゃく)を起こした。
こちらが悩みながら話しているのに、母親は癇癪を起こし、状況が自分に不都合になってくると、勝手に電話を切ってしまったりする。
私は、母親と父親にはとことん呆れている。彼らから、気が遠くなるほど殴られてきた。酷い時は、26歳の頃、母親と大喧嘩になり、ガラスを割ってしまい、右腕にあざが残った。当時は居場所のような所がなかったため、逃げていく先もない。
中学校時代の女友達から煙草を勧められ、自分も吸うようになり、22年間吸っている。そろそろ禁煙しなきゃいけない。けれども、自分の弱さに負けてしまうのだ。
煙草を吸うとコミュニケーション能力が身につく感じがする。それで、煙草が辞められない。これはとても困った。いずれかは必ず煙草を辞めなきゃいけない。けれども、そこが自分自身の弱さとつながっている。
診断にショック
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学(専門学校)と「健常者扱い」で学校を出たが、幼稚園から社会人になるまでずっと苛められてきて、毎日のように自殺を考えてきた。
24歳になって最初の精神科にかかったが、心理テストを受けた結果、精神障がいと発達障がいの疑いという結果が出てしまい、大変ショックを受けた。
「どうして私が? 精神障がいと発達障がい?」
は耳を疑ったが、これで障がい者手帳も2冊となった。周囲の友人からは、
「たれまおは頭の回転が速い」
と言われていたから、自分で2つの障がいを持っていることは信じられない。大人になってからの診断は遅いよ。
一方、母親と父親からの虐待は、もう恐怖感しかもたらさなかった。
実家の階段で、母親はヒステリー、父親もヒステリー・・・2人の間に挟まれるのは二度といやだ。
しかも、祖父母が静岡県の西伊豆から東京に上京して来た時に、私は祖父母と話したかったのだが、母親が祖父母を独占する。祖父母は私と話せない。これもとても困った。
産みたかった子ども
17歳の頃から6年間、「ゆうメイト」という名前の郵便局の非常勤職員となって、お仕事をしていた。
ある正規の職員さんと仲良くなった。母親と父親からの度重なる両親の虐待から逃れたかった私は、その人に居場所を求めていたのかもしれない。それで、子どもができてしまったのである。
本来ならば産みたかった。私はその件で15年近く苦しんだ。
「子どもに逢いたい」
と何度思ったことだろう。何度苦しんだことだろう。
しかしながら、2人同時に事をしてしまったので、いわゆる人工中絶をすることになってしまった。つまり、正規の職員さんの彼がいたのだけど、一人だけでは満足できなくて、もう一人の男に手を出してしまったので、どちらの子どもかわからなくなったのだ。それではまずいだろうということで中絶をしたのだが、9週9日目にやってしまった。それでは心の傷ができるのは当たり前である。
警察へ連行されて
28歳のとき、横浜で初めての同棲生活をした。でも、まもなくアパートの管理人さんが亡くなって、もうそのアパートには居られなくなったので、福祉に優しい東京都の江戸川区に移って、元彼と暮らしはじめた。
ところが、元彼からは強引に性を求められ、同時にDVもあり、「自己防衛」で包丁を振りかざしたところが警察へ通報され、小松川警察署へ連行されて、そこから都立墨東病院へ救急車で運ばれた。そのときは、初めての身体拘束もされて、恐怖の連続だった。
毎日自殺を考えた。自分なんかいなくてもよい。自分が消えたらどうなるんだろう? 泣いてくれる人が居るのかな? そう考えていた。
31歳の時に元彼が「行方不明」になった。江戸川区の自宅を出ていったのである。
「これはラッキー!」
と思いながら、DVしていた元彼の私物を、全て着払いで元彼の会社へ送ってやり、仕返しを遂げたのだった。
「行方不明」になった元彼は、私と暮らしていた江戸川区の住居を出て行った後、他の友人のところに転がり込んだようだが、性格があわなかったらしくて、そこも追い出された。元彼とは7年間も暮らしたが、その7年間の歳月を返してほしいと願う今日この頃である。
ひとり暮らし
元彼が出ていって、独りぼっちになった私は、生活保護を受けることになった。
そのころはのんびりと暮らさせていただいた。
ところが、はじめて都内三鷹市の就労移行施設で働き始めると、一つの異変が起こった。
生理がとても重くなり、お昼でも夜用の生理用ナプキンを付けるようになったのである。
「これはおかしい」
と思い、江戸川区の病院でMRI検査を受けた結果、子宮筋腫だった事が判明。その傷口はずっと大きくなっていって大変苦しんだ。
三鷹市の就労移行施設は辞めざるをえなくなった。
傷口は広がって、投与される鎮痛剤が効かない。
とうとう大学病院で子宮を残して筋腫を摘出する手術になった。
手術なんて、生まれて初めてなので、大変驚いた。生活保護なので治療費は無料だったのがとても助かった。
夫との出会い
江戸川に住んでいた頃、自宅近くのコンビニでコピーを取っていたところ、ベンチで煙草を吹かしていた1人のお兄さんがいた。
その方はやがて、私の旦那様になるのだが、彼の経緯をここで話させてもらおうと思う。
旦那様はずっとそれまで北海道の釧路でトラック運転手をやっていた。
運転手の会社の役員にまでなったりしたのだが、上司にもなりふり構わず生意気な発言をするので、そのたびに会社を馘(くび)になることを繰り返していた。
釧路には働く所がなくて、東京へ出てきた。そこで、新聞専売所の社員として働いていた私と、江戸川区のコンビニで出会ったわけである。7年前のことであった。
因みに今も私は旦那様から、『言葉の暴力』を受けている。もう勘弁してほしい(T-T)(涙)
結婚のきっかけは、テレビでやっていたアルコール依存症の特集である。
一緒に見ていたときに、旦那様が、
「たれまおも、ああなっちゃうのかな?」
と涙ぐんでいた。
そこで私は旦那様に、
「私は実家から虐待を受けた。旧姓の苗字を捨てたい」
と話したところ、籍を入れることになった。
いまの姓になってから、旦那様と、ある友達のおかげで、私の精神病がみごと治った。
助けてくれた友達の思い出
その友達とは、私の恋人である。
彼氏と私の関係は、旦那様も公認だった。
ところが、彼氏は去年の大晦日、2017年12月31日に道端で倒れてしまって、救急車で病院に運ばれた。急性大動脈解離スタンフォードBという病気だった。緊急入院となり、私は週に3日はお見舞いに通っていたのだった。
彼氏の主治医は、
「今のままでは余命1ヶ月だぞ」
と言い、6時間の大手術になった。
そのときは命が助かって2月3日に退院したが、大動脈解離が再発し、2月15日に還らぬ人となってしまった。
旦那様と、彼氏。この2人が居なかったら私は自殺をしていた。
2人は本当に心から命の恩人である。
彼氏には、困ったときには頼ってばかりいた。亡くなってしまったので、頼れなくなり、いま私は不安の毎日を過ごしている。
ところが、その亡くなった彼氏に続いて、大切な友人がオーバードーズで4月3日に還らぬ人となった。
相次いで若い2人が亡くなって、さらに会社からのストレスが加算されて、4月20日の深夜に下痢が11回と続くようになった。
「これはまずい」と思ったが、哀しいことに旦那様がその日は夜勤だったので、一人で救急車を呼び、病院へ搬送された。
ストレッチャーで運ばれて、その後すぐベッドで点滴投与となった。
その結果、急性胃腸炎が発覚して急遽、自宅に帰れなくなり、そのまま緊急入院となった。
発達障がいと精神障がいも併発で持っているので、個室での入院となった。
御飯は絶食で、ずっと点滴だった。
入院しても下痢が続いて、また点滴治療も大変だったし、一人だったこともつらかった。
やがて点滴治療も収まって来た頃に「御飯を食べても良い」という許可も出た。でも流動食だったのを覚えている。
入院は1週間かかったが、すでに退院し、そして御陰様で普通食も食べられるようになった。
話を元に戻すと、入退院16回の繰り返し、IgAも急性胃腸炎もある。
IgAや急性胃腸炎になった時は、必ず安静にしていなければいけない。
もともと私はジッとしてはいられない性格ではあるが、病気なので、じっとしている。好きでひきこもりをやっている訳ではない。それだけは皆さん分かって欲しい。どんなに私が動きたいか。
いま現在は、2017年4月3日から就労移行施設にて、ピアスタッフを目指し訓練中である。会社の中でもいろいろとあるが、おかげさまで楽しい日々を送っている今日この頃である。
(了)