(著・ゆりな)
同じ当事者を目の前にして思う。
「引きこもり時代の苦しみは、私より"まし"だったんでしょ?」
私が初めて、女性だけの引きこもり当事者会に参加した時の真情だ。
会場に入り、ホワイトボードを囲むように設営された椅子には、大勢の女性が座っていた。
それを見た時「こんなにも引きこもっている女性がいるんだ」と安心すると同時に、
ここにいる女性全員の苦しみを勝手に想像し、自らの苦しみと一気に比較した。
会場には、ゆるやかな時間が流れていた。角が取れた丸い雰囲気。
でも私は、
静かに整然と会の開始を待つ女性たちの後ろ姿
そして今ここに、各々が異なる"毒の過去"を持ち合わせ、これから語らおうとしている
と思うと、なぜか
「この中で一番"普通に近い"当事者でありたい」
と願わずにはいられなくなった。
席につき、参加者の女性との距離が近づくと、その比較したい気持ちはより強くなった。
主催者の経験談を聞いた後、参加者は
トークテーマごとのテーブルに分かれた。
世代・身分関係なく、自己紹介や体験談などを伝え合い、暗い話ながらも、会話はテンポよく進んだ。
しかし、私は一人一人の経験を深く聞いていくほど
「私の方がまだ救いようがある」
と身勝手な判断を下し、心の中で自分と相手との間にナイフで線を引いた。
本来、生きづらさを少しでも緩和してもらえたらという思いの基に存在する会。
そこには、同じ痛みを抱えている者同士で自らの経験を語り、悩みを吐き出してほしいという望みがある。
私はその、共感し、人が繋がり合うために用意された場で、「過去の価値」を張り合っていたのだ。
私はひきこもりという共通点を通して
生きやすくなるためのヒントを求めて来たはずなのに、
心の中で相手からマウントをとることで、自分が引け目に感じている「引きこもり時代」をなんとか肯定しようとしている。
それに気付いたとき
私は自分の醜さから目を背けられなくなった。
生きづらさに対して無責任に優劣をつける非情さ
より安易で、邪道な方法で、 生きようとしていることが許せなくなった。
あの日私は、
"人よりも救いがいのあるひきこもりなんだ"という思い込みを持つことで、
自らに、会へ参加している意義を与えていたのかもしれない。