ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

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ワケあり女子のワケのワケ⑨ 家族が苦しい

 

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(自宅近辺の加賀市内の様子。家族で買い物に行く際によくこの辺りを通った。撮影・ワケあり女子)

こんにちは!ワケあり女子です。ここ最近「暑いですね」としか言ってない気がする。。

日焼け止めが切れそうなのにAmazonで買うの忘れてて猛烈に後悔している30代女性です。

近所のドラッグストアをはしごしたけど同じの売ってなくて泣きそうです。

皆さまも、日焼け止めの在庫切れにはくれぐれもお気をつけくださいね(?)

それでは「ワケあり女子のワケのワケ」、2週ぶりにお楽しみください!

 

www.hikipos.info

 

(これから記述するひきこもり期、おもに15歳から18歳頃までの出来事については、
 本人の記憶が曖昧なため、時系列など一部正確でない可能性があります。)

 

学校に行けなくなってからは地獄とも思える日々が続いた。
ただ「学校に行く」というだけの、皆が普通に行っていることが自分にはできない。
社会の営みに参加できない自分に生きている資格などない。
この世から自分の存在を消してしまいたい。
毎日眠りにつく前に「このまま朝になっても目が覚めなければいいのに」と涙を流す。
目が覚めるたびに絶望する。
ただ生きているだけの自分を責める。
その繰り返しだった。

部屋の中は決して安住の地などではない。
日々世間からのプレッシャーという拷問を受け続けているようだった。
もう何も見たくなかった。
世界は進んでいて、私は止まっている。
その耐えがたい苦痛から目をそらしたかった。

母の妊娠、流産

ある日の夜、天井から妙な物音が聞こえた。
私の部屋の真上には母(と父)の寝室がある。
最初はまた夫婦の諍いが始まったのかと思った。
でも寝室でなんておかしいと思った。
すぐに様子が違うとわかった。
金縛りにあったようだった。
全身の血が一瞬で燃えたぎり、凍りついた。
夫婦が珍しく仲良くしている光景を見るときはいつも嬉しかったけれど、
でもこれは嬉しいのか悲しいのかわからない。混乱した。

ついこの間まで互いに罵倒し合い、一方が家を出るような関係じゃなかったのか。
「なぜ今になって」とか「よりによってこんな時に」とか、そんなことを力なく考えた。
耳をふさいだ。泣いたかもしれない。よく憶えていない。思い出したくない。
ただこの行為の果てに生まれた自分の身体を呪った。
母に「気持ち悪い」と言われたことを思い出す。
「気持ち悪い」「気持ち悪い」その言葉が何度も脳内に響いた。

後日母親に妊娠を告げられた。
あの時のね、とぼんやり思った。
弟と妹のどちらがいいか、などと尋ねてくる母はとても嬉しそうだった。
私はまだ見ぬ弟に(なぜか弟である気がしていた)、
「生まれてこない方がいいよ」と心の中で真剣にアドバイスした。
この両親のもとに生まれても幸せになれる気がしなかったからだ。

本当は昔からきょうだいを切望していた。
両親が争う夜に、せめて慰めあう存在が欲しかった。
もしも生まれてきたら、16歳年下の弟だ。
そんな存在ができたら私は全存在をかけてその子を守るだろう。
母に代わって、必ずその子を幸せにしてみせる-。
芽生えたばかりの私の母性が急速に成長していった。

けれど弟は本当に生まれてこなかった。稽留流産だった。ほんの数週間の出来事だった。
そんなわけないと頭ではわかっていても、
私があんなアドバイスをしたのがいけなかったのかなとしばらく本気で考えた。
姉になれなかった悲しみと、生まれてこなかった弟を羨ましく思う気持ちが交錯した。
ふさぎ込む母親の姿を見て、同じ女性として同情する気持ちと、娘としての恨みが複雑に入り乱れた。

「うちは虐待じゃない」

その頃の私は、虐待を生き抜いた当事者の出版した手記を貪るように読んでいた。
壮絶な児童虐待の様子を描いた『Itと呼ばれた子』や、
代理によるミュンヒハウゼン症候群の母親に苦しめられた
『Sickened―母に病気にされ続けたジュリー』などである。
それらを読んで私は必死に自分に言い聞かせていた。
虐待というのは、ガスバーナーで腕を焼かれたり、何日も食事を抜かれたりするなどの、
生死に関わるレベルのものを指すのだ。
私は身体にあざのつくような暴力を受けたことはないし、食事も毎日用意されている。
だからうちは虐待じゃない。うちは普通だ、正常な家庭なんだ-。

しかし一方で、いっそ殴られた方が楽だったのではないかという思いも浮かんだ。
わかりやすく暴力を振るわれた方が、こちらも堂々と相手を憎むことができる気がしたのだ。
また身体にあざでもあれば、周囲の大人がもっと早く異変に気づいてくれたのではないかとも思った。
自分をさんざん苦しめてきた親を憎むか、それでもなお愛そうとするかで葛藤する日々が続いた。

心的外傷(トラウマ)や心的外傷後ストレス障害(PTSD)という言葉はそんなわけで当時から知っていたけれど、自分には当然適用されないと思っていた。
それはもっと、生命を脅かされるような暴力を受けたり、
性的虐待などで尊厳を著しく傷つけられたり、
あるいは戦争や災害などの非常事態に見舞われた人だけが語ることを許されるのだ、と思っていた。

だから後年になって受けたカウンセリングでPTSDと言われた時、
身体の緊張がほぐれるような不思議な安堵感を覚えた。
そして16歳当時のことを思い出した。
長年の心のつかえの一つがようやく取れた気がした。

 

(つづく)
(著・ワケあり女子)