ひきこもり当事者・喜久井(きくい)ヤシンさんによる小説「遊べなかった子」の連作を掲載します。12歳の少年みさきは、海の上をただよう〈舟の家〉に乗り、行く先々で奇妙な人々と出会います。さびしさやとまどいを経験していくなかで、少年はどこへたどりつくのか……?時にファンタジー、時に悪夢のような世界をお楽しみください。
文・絵 喜久井ヤシン 着色 PaintsChainer
こうふくという名前だったことのある国
薄桃色がかった空の下に、四角いコンクリートでできた島があった。たった一人だけの住人は、ヨレヨレのスーツを着た老人だ。優しそうな人だったけれど、とても疲れているみたいだった。
みさきがコンクリートの島におり立つと、老父が話しかけてきた。
「君にも、聞こえているのかな」
老父は半分だけにこやかに、半分だけうつむくようにして言った。
「聞こえる?どんな音が?」
みさきは〈舟の家〉から離れずに言った。
「あの音がだよ。大きな山がきしんで、ゆっくりと海の中へと崩れ落ちていく、あの。ほら――今も少しだけ聞こえているね」
みさきが耳をすましても、さざ波と風の音くらいしか聞こえない。やわらかな色の海はかなたまで何もなくて、桃色の空で引かれた水平線はまっすぐだった。
「私にはもうずっと、何十年も聞こえている音なんだ。大きな鐘の音が延々と響いているような、そんな音。……氷山を知っているかい?」
「……はい。海に浮かぶ、氷のかたまりでしょ。本物は見たことはないけど」
みさきは答えた。
「その氷山がね、はるか遠いところにあって、だんだんと溶けていっている。そうしてこの海の水位を、ほんの少しづつ高めて、この国をのみ込んでしまっているんだ」
「ふうん。この国を?」
みさきは四角いコンクリートのことを、おおげさに国と言う老父をいぶかった。けれど、島の淵に立って海面をのぞきこむと、老父の言っていることがわかった。
海の中には、広大な住宅街が広がっていた。アパートや公園があって、曲がりくねった道路が複雑にはりめぐっている。きっと大勢の人が住んでいたんだろう。みさきと老父がいるのは、四角いコンクリートのかたまりではなく、国の中で一番高いマンションの、その屋上なのだった。
みさきは言った。
「氷山が、こんなに大きな国を沈めたの?海には波もないけど」
老父は答える。
「そうだね。だけど遠くで、今も崩れ落ちている氷山が、僕のいたこの国をゆっくりと苦しめている」
老父は、自分がこの国で生まれて、ずっとこの国で育ってきたことを話した。
「むかしはたくさんの友達がいてね。街中を走り回って、悪ガキたちとイタズラもたくさんして。それでも、学校の成績は良い方だったんだよ」と、少し笑いながら言った。
「両親もいたし、恋人だっていた。そういえばむかし、みさきという親友がいてね……」
「みさき?ぼくの名前です。同じ名前」
「おお、それはいいな。懐かしい名前だ。とても。とても懐かしい。なんてむかしの思い出かと、信じられないくらいだよ」
老父は話を中断し、うつむいて街をながめた。海の中の街は、誰も立ち入ることのない静けさに固まっている。老父はしばらく、誰かを追うように視線を動かしたけれど、みさきには何も見えなかった。
みさきは島の淵にかがんで、抵抗することのない水面に指の先を入れた。海のはしっこがわずかに揺らいで、みさきの片手にあぶくが生まれる。顔をあげると、水平線まで広がる水の大陸が見えた。みさきがこれまでに歩いてきた、全部の場所を合わせたよりも、海は大きい。その広さは、自分ではどうにもできない遠さにあるものが、今ここにあるものを痛めつけることだって、ありえるように思わせた。
「ああ」
老父が声をあげた。
「今度のは、大きいぞ。あの恐ろしい音がする。いよいよ、僕のこの国もおしまいかもしれない」
と言って、老父はうつむいて耳をおさえた。海は静かなままで、みさきには何も聞こえない。それでもたぶん、本当に、老父の大事な国を、海は長い時間かけて沈めているのだろう。
老父は、唯一残った自分の国――コンクリートの屋上――から、離れるつもりはなかった。
「大丈夫ですか。ぼくに、何かやった方はいいことありますか」
みさきは声をかけたけれど、老父には聞こえなかった。遠くからやってくる音で、体がもういっぱいになっているのかもしれない。見わたした海は大きかった。
みさきはコンクリートの島を離れて、〈舟の家〉に戻った。そしてまた、別のところへ流れていくほかなかった。
つづく
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