ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

「ひきこもり建築」の日本 家族を孤独にするイエの問題

(文・写真 喜久井ヤシン)

あたりまえすぎて言われてこなかったけれど、閉じこもるためには部屋がいる。どんな家のどんな間取りに住んでいるかによって、「ひきこもり」生活のクオリティは違う。今回は、ひきこもり×建築をめぐるニッチなエッセイを掲載する。孤独死や虐待など、現代日本の問題にもつながる当事者発の「イエ」論。

f:id:kikui_y:20180808154930j:plain

森美術館『建築の日本展』会場風景

「建築の日本展」&「ゴードン・マッタ=クラーク展」

 2018年8月、東京都内では建築に関する二つの展覧会が開かれている。

 一つは六本木・森美術館で開催中の「建築の日本展」。千利休の茶室を原寸大で再現したものから、建築家たちの最先端のプロジェクトの紹介まで、大規模な展示で構成されている。日本は「建築のノーベル賞」と言われるプリツカー賞の最多受賞国で、西洋建築と東洋的な自然観を融合した美意識などが、世界的に高く評価されてきた。セクションの一つには「集まって生きる形」というテーマがあり、建築からはじまる新しいコミュニティの試みも紹介されている。

 もう一つの企画展は、竹橋・国立近代美術館で開催されている「ゴードン・マッタ=クラーク展」。1970年代のニューヨークで活躍したアーティストで、アジア初の回顧展となっている。公共(パブリック)空間と私的(プライベート)空間の境界を破る作風が特徴的で、代表作には、本物の住宅を真っ二つにした「スプリッティング」(1974)がある。他にも、美術館に穴を開けたり、公共の場の大木に巨大ハンモックを吊るしたりと、アクティブ(というより言ってみればヤンチャ)なアートの実践者だ。

 建築から社会問題を問う取り組みは、これまでにも意欲的に成されてきた。たとえば建築家の山本理顕は、『脱住宅』(平凡社 2018年)で以下のように言っている。

『アパートやマンションで起きる事件や事故のニュースを聞く度に思う。最近、特に頻発しているとさえ感じるそうした事故や事件は、もともとのその住宅の設計に根本的な原因があるということである。高齢者の孤独死。そしてその発見が遅れる、住宅の中でのレイプ事件、殺人、子どもへの虐待。こうした事故や事件は、住宅があまりにも密室化されすぎているところに原因がある。』

  住宅がかかわる社会問題(とされるもの)に、私はもう一つ「ひきこもり」が加えられると思う。文字通り部屋の中に引き籠ることで始まった「ひきこもり」の問題化には、住宅および建築、ひいては日本の都市設計の歴史がかかわっているのではないか。

f:id:kikui_y:20180808164740j:plain

マンションの15階の「ひきこもり」

 私はマンションの15階に住む「ひきこもり」だった。
 人に話すと階の高さに驚かれるけれど、住んでいたのは高層住宅の乱立地帯だったため、自分では高いという感じがしない。周囲には15階以上のマンションが三棟、それとは別に30階建て以上が二棟あるという都市的な地域だった。

 当然のことながら、どんな家に住んでいるかは生活習慣に影響する。私にとっての、やや細かな影響の一つを言えば、窓の外を平気で見られることだった。15階の自室の窓からは、遠くの街並みまで見渡すことができた。通りを歩く人たちは豆粒の小ささでしかなく、窓辺に立っていても私に気づく人などいない。もしこれが1階や2階なら、道行く人(場合によっては知り合い)の目を気にして、カーテンも閉じたままにしただろう。晴れた日の平日に外を見ることが簡単だったというのは、私の生活の密閉性をゆるませていた。

 村上龍の長編小説『最後の家族』では、意識的に窓の外を見る「ひきこもり」男性が描かれる。解説の斎藤環は「ひきこもり」が自主的に外を見るのは不自然だと指摘しており、私も同感に思う。けれど人と目の合うことのない高層階であれば、外を見ることも比較的容易にできる。映画『彼とわたしの漂流日記』の場合、「ひきこもり」女性が高層マンションに住んでいる。この女性が望遠レンズで地上を見たことによって物語が始まるという展開で、高層階でなければできないストーリーだった。

 

f:id:kikui_y:20180808164537j:plain

映像作品《パワー・オブ・スケール》(『建築の日本展』より)

安全な子供部屋があることの重要性

 私は13歳から、自分専用の子供部屋を持った。ちなみに子供に専用の部屋がある世帯の割合は、ざっくり見て一戸建てが6割、マンションが4割程となっている。マンションに住む子供としては、自分専用の部屋があることはやや幸運な方だった。けれど、間取りの都合で部屋が水場に面していたことは、生活上のストレスになっていた。養育者(両親)がトイレや風呂を使う音がほぼすべて聞こえてしまい、養育者との関係が悪化してからは、音がするたびに不快感が生じた。
 精神科医の中井久夫は、自室があることの意義について語っている。

『実際的にも、どんな恰好をしていてもいい、ほんとうの自室があることが、すべての患者に望ましいことである。自室はあっても、家族の便所への通路に当たっている場合などは、その価値が大幅に下がる。』(中井久夫『世に棲む患者』 ちくま学芸文庫 2011年)

 精神障碍者を対象に言った言葉だけれど、生活者の気分としては誰にでもあてはまることかと思う。同居者との間取りの関係や、自室にどこまでプライバシーが確保されているかなどは、生活のクオリティに直結する。
 もし私が一戸建てに住んでおり、たとえば二階が自分一人だけの生活スペースだったなら、階段などの距離がある分だけ防衛的な安心を感じられたはずだ。(ただしその分、「ひきこもり」生活の閉鎖性は高くなっていただろう。)

f:id:kikui_y:20180808164715j:plain

映像作品《パワー・オブ・スケール》(『建築の日本展』より)

「ひきこもり」に通じる。近代日本のざっくり建築史

 集合住宅に夫婦と子供が3~4人程で住むかたちを、私はあたりまえのものと思ってきた。実際、日本の都市設計の歴史はそんな「家庭」のイメージを強化してきたところもあるらしい。

 (建築の門外漢があれこれ書いてしまうのだけれど、)敗戦直後の1946年、戦災や取り壊しなどによって、日本全国で不足していた住宅は、420万戸にのぼると推定されている。大量生産できる住宅が求められる時代があり、政府は規格化された集合住宅の建設(通称「51C」。1951年の公営住宅標準設計C型と言われる。)に乗りだした。それが現代の住宅風景のルーツとなっている。

 人口学的な変化も大きい。40年代後半には、合計特殊出生率(女性が一生に産む子供の数)が平均四人台だったものが、60年代には半減している。その60年代には2DK、3DKの住宅が増え、夫婦の寝室と子供部屋が分かれるようになった。

 子供部屋に注目すると、なかなか興味深いものがある。先駆的に「ひきこもり」を描いたとされるマンガに、藤子不二雄Aの『明日は日曜日そしてまた明後日も……』がある。男は大学を出て就職したものの、出かけると恐怖を感じ、医者いわく「勤めにでることができない病気」になる。それ以来「二階でジッとして」いるだけの生活を送るようになった、という短編。憂鬱な顔でうずくまっている場面がラストシーンになるのだけれど、このコマの描写からすると、男には独立した子供部屋がある。作品が発表されたのは1971年なので、作中の男は60年代に子供部屋を与えられたと考えられる。一般的な子供部屋の発生と、「ひきこもり」像の原型の発生は、ほとんど同時なのではないか。

 評論家の逢坂巌は以下のように言っている。

『振り返れば、子ども部屋とは、「近代人」養成のための、「自立」と「孤独」の訓練空間であり、それぞれの時代が深く刻印されています。』(鈴木成文・上野千鶴子他著 『「51C」家族を容れるハコの戦後と現在』平凡社 2004年)

 戦後の世界的なベストセラー『スポック博士の育児書』の中でも、子供部屋は独立心をはぐくむものとして推奨されている。住宅が家族のあり方を変え、子供部屋の存在が子供のあり方を変えてきた、そのような歴史を見ることもできるのだろう。

f:id:kikui_y:20180808165417j:plain

千利休《待庵》(『建築の日本展』より)

「内か外か」を分けない家

 家族が別々に、カギのかかる個室で過ごすという住宅文化は、基本的に近代以降のものだ。「建築の日本展」でも紹介されていたが、かつての日本の建築には「パブリックかプライベートか」に分類できない、あわいの空間があった。建築家のジェフリー・ムーサスは、『「縁側」の思想』(祥伝社 2008年)の中で、「縁側」や「玄関庭」(道路に面した格子戸を開けて入ったところにある空間)に着目している。「内」とも「外」とも言い切れない「あいだ」が、かつての日本の家屋には組み込まれていた。

 現代的な方法で、「内」と「外」の区切りを打破する試みもある。たとえば山本理顕による「保田窪第一団地」は野心的な設計だ。「分棟(ぶんとう)」というらしいけれど、一世帯の住居が二つの棟に分かれて建てられている。具体的には、リビングルームと寝室が別の建物にあり、移動するためには渡り廊下を使うわねばならない。設計の山本理顕は、『雨風が入り込むと非難されたが、熊本のような気候条件においては、分棟形式は採光・通風のためにも極めて有効なのである。』と言う。

 私は少々夢想した。「内か外か」があいまいであれば、家に閉じこもる人の精神状態にも、閉じこもりきらなくなる「あわい」が生じうるのではないか。物理的に「外」が「内」に入り込み、それが不快にならない住宅だったなら、「外」への意識は開かれやすいのではないか。

 日本では戦後に画一的な集合住宅が大量に造られたが、外国の住宅発展の歴史は多様なものだ。セルフヘルプ・ハウジング(自力住宅建設)や、コア・ハウス・プロジェクト(ワンルームと水回りのみを供給し、あとは居住者にゆだねる)と言われるものがあり、イエの自由度が高い。日本の建築にもオルタナティブ(もう一つのあり方)はありえたのではないかと思う。

 

固定観念の壁をぶった切る

 「ひきこもり」ほど住宅と密接にかかわる「社会問題」は珍しい。オルタナティブな実例を知り、他の可能性があったと気づかされることは刺激になる。私はイエや家族のイメージに縛られてきたけれど、美術館は固定観念に閉じこめられないためのヒントをくれる。
 「建築の日本展」は、伝統的な家屋と最先端のプロジェクトとの結びつきを見せてくれた。また「ゴードン・マッタ=クラーク展」は、アートによる力技での想像力と破壊力を表している。住居を真っ二つにし、建物の壁に巨大な穴をあけることだってできる。彼はアートによって云っていた。内か外かの境界線なんかぶった切れる、思い込みに穴を開けろ、決まりきった規範なんかお断りだね、と。

 

 

   参考

●六本木ヒルズ・森美術館15周年記念展 建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの
会場: 森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)
会期: 2018.4.25(水)~ 9.17(月) 会期中無休
開館時間: 10:00~22:00(最終入館 21:30)※火曜日のみ17:00まで(最終入館 16:30)
料金 : 一般 1,800円 学生(高校・大学生)1,200円 子供(4歳~中学生)600円 シニア(65歳以上)1,500円
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/japaninarchitecture/index.html

●ゴードン・マッタ=クラーク展
会場:東京国立近代美術館 1F 企画展ギャラリー
会期:2018年6月19日(火)~ 2018年9月17日(月・祝)
開館時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-21:00)
休館日:月曜
観覧料:一般1,200円 大学生800円
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/gmc/

●藤子不二雄A作『明日は日曜日そしてまた明後日も……』は以下のページで試し読みすることができる。
http://fujiko-a.com/detail?key=bla 

 


   オススメ記事 

www.hikipos.info

www.hikipos.info