リーマンショックが起きた年、母が倒れた。すい臓がんだった。医師に余命三ヶ月と言われた。
余命のことは言わなかったが、すい臓がんだとあらためて母に伝えた。母は保健師だからすい臓がんのおそろしさはわかっていたと思う。
父は最後まで告知に反対していた。母が発狂するからだという。まったく馬鹿げている。自分の最期をどう生きるかを選択することは家族にだって奪うことはできない。
母が医師から告知されて病室に戻り、頼りなげにベッドに腰をかけた。付き添っていた僕も母のとなりにすわった。
母が僕の手を握った。いつもより力がないように感じたけれど、その手はとても暖かかった。
母にとっての初孫が生まれる
母が倒れる一ヶ月前に僕の姪にあたる赤ん坊がこの世に誕生した。母にとっては初孫だ。
母が入院している病院で、母の初孫は生まれた。
2008年は激動の年だった。リーマンショックもあったし、サッカークラブW杯でガンバ大阪がマンチェスター・ユナイテッドから三点を取った。姉が赤ん坊を産んだ。母がすい臓がんで倒れた。
そのころ、父は単身赴任で秋田にいた。兄や姉は独立して家を出ていた。僕と母の二人暮らしだったがその生活が一変した。母が入院することは、僕のライフラインが止まることを意味していた。
お金があっても買い物のハードルが高い。外に出れば人に見られる。人に見られると思うと挙動不審になる。挙動不審になればますます人に見られる。買い物ができない……。
僕はみるみるうちにやせていった。
冬将軍の訪れ
僕はまだ赤ん坊である姪っ子の動画を撮った。病室にいる母に見せるためだ。今みたいにスマホはなく、デジカメの貧弱な動画機能を使った粗い映像だけど、自分ができる精一杯のことだった。
毎日、僕は病院に通った。病院まで行くのに自転車で三十分以上かかった。肌寒くなってきた時期で本格的に冬将軍の訪れを予感させた。
僕は、ヒートテックを着込んで完全武装で対応した。しかし、病院に到着するころには汗でびしょびしょになってしまう。ヒートテックは、何もしないぶんには暖かいのだけれど、ちょっと動くと汗でからだが冷えてしまう。
風邪をひいて母に風邪をうつしたらまずい。だから、いつも替えのヒートテックをリュックに詰め込んでいた。病院に着いたらすぐにトイレで着替えてから母に会った。
母は姪がうつっている動画を嬉しそうに何度もみていた。
(母が亡くなる一ヶ月前に医者に自宅に帰ることが許された。もう残された時間はないとわかっていたのだと思う。そのときに自宅で初孫を抱くことができた)
ヒートテッカーさえ手を出さない禁断のヒートテック
毎日のように自転車にのって母の見舞いをすることができた。ただ、ヒートテックの回転が早くて間に合わなくなってきた。
当時、ヒートテックは空前の大ヒットで品切れが続出していた。必死にユニクロの店舗をはしごしてようやく見つけたのはワンサイズ大きめのヒートテック。なんともいえないミドリの毒々しい色だった。大人気のヒートテックでもそれだけが売れ残っていた。つまりはそういうことだ。だけど、背に腹はかえられない。僕は仕方なくそれを手に取り、レジにむかった。
母は、医師の宣告通り三ヶ月後に亡くなった。
肌寒い季節になると、あのぶかぶかした毒々しいミドリ色のヒートテックをいつも思い出す。そして、母のことも。
執筆・イラスト さとう学
(Twitter:@buriko555 )
1977年生まれ。 小学生のときに不登校。中学で特殊学級に通うものの普通学級への編入をうながされて再び不登校。定時制高校に進学するが中退してひきこもる。
大学を一年で中退してしばらくひきこもる。障害者枠で働き始めるがパワハラをうけてひきこもる。2017年にひきこもり支援を訴えて市議選に立候補。落選して再びひきこもる。