(文・メガネヘッド)
劣等感から社会に出るのを恐れた日々
大学生の頃、私は強い劣等感に苛まれていました。何の因果か難関と呼ばれる大学に運よく合格したものの、周りは自分よりも遥かに優秀な学生ばかりで、おまけに彼らは社交性も高く、「なぜ自分はこんなに頭の回転が遅いのか」「なぜ自分はうまく人と接する事ができないのか」と、何かにつけて自分は引け目を感じていました。
人から見ればそれは大した問題ではないのかもしれません。しかし当時の私には重大な問題でした。私の劣等感は日に日に大きくなり、ついには、その劣等感のために、社会に出る事を恐れるようになりました。私はなんとか留年して大学を卒業したものの、その恐れのために二年ほどは定職につけずにいました。
しかし、その後、私はあるきっかけからその自分自身の最大の障害と言うべきその悩みを破り、なんとか無事に就職をする事ができました。
そのきっかけとは何か。それは仏教でした。
さて、このような宗教の話を始めると、往往にして、宗教とはきな臭く、迷信じみていて、そのようなものに縋るのは精神的な弱さのためだという意見を述べる人に出会う事があります。
また、宗教を信じるには何かの宗教団体に属する必要があり、所属すれば金銭的に搾取されてしまうと考える人もいます。
私自身が、そのような考えの持ち主でした。しかし、ふとしたことから仏教の本を読んだ事がきっかけで、だんだんと考えを変えていきました。
私が触れた仏教とは、一言で言えば「自分で考えながら信じていく宗教」でした。
仏教は、自分の持つ悩みに対して対して、どのように向き合っていけば良いかを教えてくれます。その中には、すぐには理解し難い内容もありますが、宗教のイメージとしてよくあるように「ただ闇雲にそれを信じて受け入れろ」という事は仏教では言いません。
なぜそのような教えに至ったかと言う理論的な背景を、様々な本を読んだり、我々自身の人生と照らし合わせながら、納得いくまで考える事が許されています。そこには何の迷信も入り込む余地はありません。自分で考えていく宗教、それが仏教の魅力です。
私自身は、仏教の中でも法華経(妙法蓮華経)と呼ばれるお経を幾度も読み、その内容を自分自身の生活に重ねながら、理解を深めてきました。
一日でも生きる事自体が素晴らしい
法華経というお経は、古くは聖徳太子の時代から日本人に親しまれているお経で、「我々のなんでもない日々の暮らしこそが修行である」と説いています。
普通、仏教の修行というと、静かに瞑想をしたりするイメージがあるかもしれません。実際、今世間では仏教の瞑想がブームになっています。
家でくつろいで瞑想をすることは、確かにひとときの心の安らぎをもたらしてくれるかもしれません。しかし、現代社会に生きる我々は、瞑想ばかりしていれば良いというわけにはいきません。すぐに現実社会に引きずり出されて、様々な悩みに強制的に向き合わされてしまいます。
そんな我々に対して、法華経は、瞑想のような特別な修行ではなく、現実社会を、悩みを持って生きる事そのものに価値があると説きます。悩みのない人間よりは、たとえそれがどんなくだらない悩みであっても、悩み多き人間であればあるほど、魂の高みに近いというのです。
これを読んだ時、私は非常に勇気づけられました。私は劣等感の塊でしたが、いくら劣ったところがあって悩んでいても、その事自体が、価値があるという、これは自分自身に対する大いなる肯定でした。この事に気づいた時から、逆説的に、私の恐れは、どんどん小さなものになっていきました。
もちろん、全ての問題が一気にすぐに消えたわけではありません。このような考えに到るまで、法華経を何度も読み、それ以外の仏教の本も色々と読みました。その結果至った結論です。
先述の通り、仏教は、すぐに信じられなくても、納得いくまで、自分で考えれば良いのです。
そして、その過程において、私はいかなる宗教団体にも所属しませんでした。時にお寺にお参りしてお坊様のお話を聞く事はありましたが、特にそのお寺の信徒になる訳ではありませんでした。昔はわかりませんが、少なくてもメディアや交通の発達した現代においては、何かに所属しなくても、いくらでも探究ができるのです。
もしこれを読んで、何かを信じる事に関心を持ったのならば、本屋や図書館で一冊何か本を手に取ってみると良いでしょう。大金を支払う事もなく、何かとても大切なことに気づく事ができると思います。
最後に、もしどの本を手に取ってわからない場合のために、最近私が読んで良かったと思う本を一冊オススメしておきます。よければ読んでみてください。