ひきこもり当事者・喜久井ヤシンさんによる小説「遊べなかった子」の連作を掲載します。12歳の少年みさきは、海の上をただよう〈舟の家〉に乗り、行く先々で奇妙な人々と出会います。さびしさやとまどいを経験していくなかで、少年はどこへたどりつくのか……?時にファンタジー、時に悪夢のような世界をお楽しみください。
〈家族〉の上演
Ⅰ
みさきはサティアの国で、新しい家族に配属されることが決まった。
理由もわからないけれど、初めて会った〈演出家代理〉という人がいて、「V地区配属・C2層適正・一名決定」と言い、その一言で新しい家族ができた。サティアの国では、誰もが自分の役割を正確に演じている。はじめにみさきにあてがわれた役は、〈13歳・中学生・息子・兄〉で、13歳でなくても13歳らしく、息子でなくても息子らしく生活せねばならない決まりだった。
初めて入った家には、〈36歳・靴職人・夫・父〉を演じている人がいて、みさきをまともに見ないまま、「おかえり」と言った。みさきはすでにこの家の息子なので、「はじめまして」なんて言わなかった。小さな女の子がいきなり「お兄ちゃん」と言ってなついていたし、〈母親〉からは「ご飯の時間でしょ、なんでテーブルに来ないの」と叱られた。〈家族〉はそれぞれの人が、いつもどおりの日常を営なんでいる。みさきだけが、初めて会う親しい人たちの中に放り込まれていた。
次の日からは、「もう中学生なんだから、しっかりしなさい!」と言われたり、「お兄ちゃんでしょ、もっと妹の面倒を見てよ」と注意されたりした。みさきは中学生でも兄でもなかったのに、サティアの国ではうまくこなさないといけないようだった。もっとも、新しい家族は本当のように楽しい人たちで、みさきは息子として受け入れられていた。一日が経ち、二日が経ち、また一週間が過ぎていくと、みさきもようやく〈家族〉の生活が分かってきた。〈35歳・主婦・妻・母〉の役の人とも、〈9歳・小学生・妹・娘〉の役の子とも会話ができる。サティアの国では、すべての役に基本方針が決まっていて、見えない台本に沿って生きていく。その台本は不可解だけれど、どこかで決められていることこなしていけばいい。実際、みさきにはいきなり〈友達〉ができていたし、おしゃべりの好きな〈おさななじみ〉までいた。役割どおりならいじめられることもないし、さびしい思いをすることもない。みさきは月日をかけて、サティアの国に慣れようとした。
Ⅱ
けれど〈13歳・中学生・兄・息子〉の役をつかめてきた頃、夜になっていきなり〈舞台監督〉がやってきた。〈舞台監督〉は警官の格好をしていて、みさきに役割の変更を告げた。
「明日から、ここの家族の子はあなた一人になります。〈家族〉には女の子が一人必要なので、明日から〈9歳・小学生・娘〉になってください」
〈舞台監督〉はあたり前のようにそう告げて、〈小道具〉二人が家から男の子の持ち物を運び出した。残ったのは〈妹〉の分だけで、明日からはみさきがこの家の〈娘〉をやれという。
「今度はいきなり女の子の役をやるの?今までのお兄ちゃん役は?今日までにできていた友達はどうなるの?」
女の子の服を渡されたみさきは、〈舞台監督〉にたくさんの質問をした。けれど〈舞台監督〉は平然と決まりを伝えるだけで、みさきはますます混乱させられた。
サティアの国で役割が与えられたら、気持ちがどうであれ、そのとおりの役を生きなければならなかった。次の日の朝から、みさきは〈娘〉になった。昨日まで〈妹〉役だった子がいなくなっていて、〈兄〉役の存在が消えていても、〈母〉役と〈父〉役の人の演技には影響していない。みさきは、
「どうしてまだパジャマなの!早く着替えなさい!」と叱られて、今度はスカートをはかねばならくなっていたし、話し方も指導された。それまで〈友達〉だった男の子たちは素通りするようになり、新しい女の子の〈友達〉ができていた。ナミという役名に変わっていて、「ナミちゃん、遊ぼ!」と誘われるのだ。初めて会った〈親戚〉のおじさんは、「大きくなったねぇ、ナミちゃん。ほら、プレゼントだよ!」と言って、小さな子向けのお人形をくれた。ナミちゃんとしては嬉しがるべきだと思ったけれど、みさきは声が出なかった。〈9歳・小学生・娘〉の役の演技が、みさきにはまったくできなかった。
みさきはナミちゃんでいることが下手で、どうにもできずに日々が過ぎていった。問題ありとみなされたために、警官のような〈監督官〉が来るのも当然だった。
「あなたはアドリブがひどすぎる。このままだと少年稽古場に連れていくことになりますよ。気をつけてください」と警告をする。少年稽古場というのは、たぶん少年院のような場所のことだろう。みさきはサティアの国では、犯罪者みたいなものなのだ。
「わたし・・・・・・ぼくは・・・・・・、なんでここまで演じなきゃいけないのかわからないです。ぼくは、ぼくのままでいることはそんなにいけないことなの?」
〈監督官〉は答える。
「10歳の男と、50歳の女が同じだと思うか?別々のものが、同じ演技であっていいはずがない。あてがわれた役割を、正確に演じていきなさい。」
「そうでないと、許されないの?」
「わかるだろう。それが人間の舞台だ」
みさきにはわからなかった。
夜になって、みさきは〈娘〉のためのベッドに腰かけていた。小さな照明には可愛らしい飾りがついていて、枕元にはお人形が置いてある。みさきは女の子向けの赤色のパジャマを着て、座ったまま呆然としていた。静かな夜だ。
「ナミちゃん、眠れないの?」と、やってきたのは、〈母親〉役を続けているトチさんだった。心配そうな顔や言葉をしていて、一見演技には見えない。トチさんはみさきの横に座り、肩を抱いた。これまでの演技した月日が思い出されて、みさきの心はぐしゃぐしゃになっていた。
「心配してくれるの?」
「あたり前でしょう。私たちは家族じゃないの。あなたは私の、一人きりのかわいい娘だもの」
このあいだまでいた〈お兄ちゃん〉は、記憶にも残っていないのだった。
「……優しくしてくれたって、どうせ全部が嘘なんだろ。この家だってお前だって、どれもこれも作り物じゃないか」
みさきが毒づくと、トチさんの表情が変わった。〈母親〉の演技ではない、見たことのない目だ。
「……私にも、そういう時期があった。世の中の台本どおり生きることに、悩んでいるんでしょう」
みさきはトチさんの顔を見た。その目には優しさが宿っている。
「性別や年齢に合わせて、仕事や人づきあいに合わせて、自分を捨てて仮面をつけないといけない。それは時には苦しいことかもしれないけど……。でもね、マニュアルがあって、演出が決まっていることは、生きることを簡単にしてくれる。今の私は、この国の人間で良かったと思ってる。台本に従っていれば、自分がどういう人間なのかを迷わないですむもの」
トチさんはつづけて言う。
「これから先、どうしても耐えられないってなったら、私に話してみて。演技も役割も捨てて、あなたを助けてあげる」
その夜、みさきとトチさんは長いあいだお互いの話をした。静かな夜だった。みさきはこの夜を覚えていようと思った。
Ⅲ
翌日からも、ナミちゃんとしての〈女の子〉の日常があって、みさきは役に入ろうと努力した。9歳の女の子らしい言動を身につけて、女の子の〈友達〉とも仲良くなった。一日が過ぎて、二日が過ぎて、あっというまに月日は過ぎていく。
そんなみさきの努力も、〈舞台監督〉の新しい通達であっけなく崩れていった。
ある日の夕方、〈友達〉と別れた帰り道でのことだ。
「役割の変更がありました。今日の夜から、あなたは別の家族の子で、五人兄弟の下から二番目の女の子になります。よろしく。これからすぐに案内しますが、次の家はこの道の逆方向にあるので……」
みさきは〈舞台監督〉が話し終わる前に、自分の〈家〉まで逃げだした。トチさんに助けを求めようとしたのだ。けれど昼まで家であったはずの場所にたどり着いてみると、そこには老夫婦が住んでいた。そこにある家具も飾りも、すべて別のものが置かれていて、建物だけが同じだった。聞いてみると、老夫婦はもう四十年近くこの家に住んでいると言う。みさきは〈舞台監督〉に見つからないよう、素早く裏口から駆けだしていった。これから先も決められた役割どおりに生きるだなんて、想像することもしたくなかった。
Ⅳ
みさきは通りを抜け、人の多い市場に入って身を隠した。商店の並ぶ通りであてもなく時間をつぶしていると、偶然、聞きなれた声が耳にとどいた。
「いらっしゃい!今日は良いオレンジが入ってるよ!」
みさきが顔をのぞかせると、そこにいたのは果物屋役のトチさんがいた。〈41歳・果物屋・妻〉として、別の〈家族〉の別の人間を上手に演じている。
「トチさん!」
みさきは叫んで駆け寄った。
「助けて。ぼく、もう耐えられない。今日は誰でなきゃいけないの?明日は?来週は誰でなきゃいけない?どんな子で、どんな言葉で、どんな顔をしていたら認められるの。ぼくにはわからないよ!」
「誰?誰だいあんた。人違いしてんじゃないの」
話し方も身振りも違っていたけれど、目の前にいるのは間違いなくトチさんだった。みさきはくり返し訴えたが、トチさんも周りの人も、何がおきているか分からない、といったふうに演技していた。
やがて騒ぎを聞きつけた〈舞台監督〉が来て、みさきを怒鳴った。
「やめなさい!お前はこの人とは他人だ。話しかけないように!」
〈舞台監督〉に、みさきは答える。
「違うんです、ぼくがこの国でダメだったら、その時には頼りにしていいって言ってくれたんです。そうですよね、トチさん!ねえ!」
トチさんは悩んだようだったけれど、一瞬、〈果物屋〉の〈他人〉の目をやめた。そうしてトチさんは、みさきに耳を近づけてつぶやいた。
「全部演技に決まってるだろ。この舞台に迷惑をかけるなよ、ガキが」
低音の、おそろしい声だった。顔を離すと、トチさんは〈舞台監督〉に向かって首をふる。この子が何を言っているのか、まったくわけがわからないよ、と〈果物屋〉の顔をして。
〈舞台監督〉は言う。
「お前は早く、新しい〈家族〉の上演に入るべきだった。だが公序法違反により、今後は一定期間演技指導が必要となる。お前はこれから……あっ、おい!」
みさきはまた走り出した。果物屋を抜け、八百屋も、花屋も、食べ物屋の屋台も抜けて。市場の中を、方向もわからずに走った。息を切らして、足の筋肉を痛めながら過ぎていくサティアの国は、いつもどおりの景色だった。手をつなぐ親子、本を読む若者、花を売る老婆、連れ立って歩く男女の恋人。それぞれの人が、それぞれの日常を、それぞれの役割で平穏に生きていた。サティアの国から、みさきは逃げた、自分の足で。
執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の三年間は同世代との交流をせずに過ごした。二十代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆。個人ブログ http://kikui-y.hatenablog.com/
次回 「昨日だった」
前回 「かけがえのなかった子」