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ワケあり女子のワケのワケ⑲ 絶望のマインドフルネス(後編)〜自己からの解放

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(東京都北区・飛鳥山公園。2018年。満開の八重桜。撮影:ワケあり女子)

こんにちは!ワケあり女子です。

ついに来てしまいました…第一部、これが最終回です。いつから「第一部」だったんだ?!って感じですね!

安心してください、私のワケあり人生、これで終わるワケがありません。この程度でワケありなんて言えるワケがありません笑

すぐに第二部が始まりますので、乞うご期待…!?

そんなワケで、「ワケあり女子のワケのワケ」、今までありがとうございました。第二部も楽しみにしていてくださいね!

 

www.hikipos.info

 

(これから記述するひきこもり期、おもに15歳から18歳頃までの出来事については、
 本人の記憶が曖昧なため、時系列など一部正確でない可能性があります。)

 

焦りはピークに

18歳も次第に終わりが近づいてきた。
福井の冬は暗く雪が降っている。
虫たちもあまり姿を見せなくなり、雪のせいで外は白く静かだった。

3月には元同級生たちが高校卒業を控えている。
本来なら今ごろ大学受験真っ最中のはずだった。
そのことを考えると眠れないほど苦しいので、
睡眠時間を削って精一杯の現実逃避をしながら、
それでも購入した映画のDVDを英語字幕で観るなどして、
「学校ではできない勉強をしている」となんとか自分に言い聞かせていた。

ある日自分の顎のラインに違和感を感じて、久しぶりに自分の顔を鏡で見つめた。
そこには目と頬がたれ下がった中年女性のような少女が映っていた。
人と会わず声も出さないので、表情筋がすっかり衰えていたのだ。
それは母の顔に似ていた。私は自分の未来を呪った。
同級生たちはみな春になったら、進学・就職し、あるいは恋愛などして、
これからますます輝いていくのだろう。
それに比べて私は、あと5年もしたら老婆のような顔になってしまうに違いない。
そんな自分を想像してまたひとしきり泣いた。

今でこそ時折容姿を褒められるようにもなったが、
それはのちに表情筋のトレーニングを死ぬほどやったからである。
人間の顔はほとんど筋肉でできていることを実感する。
18歳当時よりもずっと若々しい今の姿を見て、
あの時死ななくて本当によかったと、自分に感謝している。

人間の可能性

それは2006年の2月、トリノオリンピックシーズンだった。
ひきこもりの私にとって、人の活躍を見ることは死ぬほど辛かった。
たとえ娯楽番組やテレビドラマであっても、自分と近い年齢のタレントが出演していたりすると、
この人はこんなに立派なのに自分は……とつい考えて憂鬱になってしまう。
オリンピックなんてその最たるものだった。
何しろ世界中からトップレベルの才能たちが集結するのだ。
劣等感の起爆装置だらけに違いないそのスポーツの祭典を、私はなぜか見続けることにした。
見たくないものを見るという、一種の修行だったのかもしれない。
昼夜を問わず、深夜の放送もリアルタイムで見た。
それこそ寝る間を惜しまなかった。
なぜあれほど熱中したのか今でもわからない。

ただ見続けるうち、次第に奇跡を目の当たりにしているような心地がしてきた。
人間の身体にはこれほどまでにあらゆる可能性が秘められていて、
それは紀元前から数千年にわたり続いてきた人類の進化の証なのだ。
そしてその進化の歴史に、私という人間も確実に組み込まれている。
人間の可能性を、自分の可能性を、もう一度信じてみてもいいのかもしれないと思った。
テレビでは荒川静香選手が金メダルを手に満面の笑みを浮かべていた。
選手たちの真剣な眼差しが、私の心の何かを動かし始めていた。

『私がいなくても世界は回っている』

ひきこもってからというもの、私は「自分がいなくても世界は何事もなく回っている」ことにたびたび絶望させられた。
それはひきこもって、社会参加をやめてみて初めて知る驚愕の事実であり、
つまり「自分はこの世界にとって不要な、価値のない存在である」と思わせるに充分な衝撃を持っている。
私のひきこもり期の苦しみのほとんどはこの無力感に起因すると言っていい。
しかしある時ふと、私の中に大きなパラダイムシフトが起こった。

「私がいなくても世界は回っている。ということはつまり、『私はこの世界を信頼してもいい』=『信頼するに足る世界に私は生きている』ということではないのか?」

その瞬間、今までに感じたことのない喜びが波になって私を訪れた。
そうだ、私はこの世界を信頼していい。
だってこんなにも素晴らしい人々がこの世にはたくさん存在するのだから。
胸を痛めるようなニュースも頻繁に耳にしてきたし、そのたびに絶望を深めたりもしたけれど、
それだって、少しでも状況を良くしようと動いている人たちが同じくらいたくさんいるはずだ。
だから世界は今日も破滅せずに回り続けている。
こんなにも信頼に足る世界に生まれ生きている私は、幸せだ。

そして思った。もう一度この世界に参加してみよう。
また傷つくかもしれないけれど、でもその傷はもう、私だけのものじゃない。
「自己」とは自分だけのものではないのだ。
この世界のあらゆるものが「他者」であり「私」でもある。
私はもう、自らが規定した狭苦しい「自己」に囚われる必要はないのだ。

それは「自己」からの解放だった。
この世界のあらゆるものに受け入れられた気がした。
モノクロだった世界が鮮やかに色づき始めた。

窓を開けると、隣の庭の八重桜が満開に咲き誇っていた。思わず涙がこぼれた。
そうだ、私は八重桜なんだ。
みんなと同じく桜の時期の3月には卒業できなかったけれど、
少し遅いし形も違うけれど、でも私だってこれからちゃんと花開いていくんだ。
生命の形はいろいろあるんだ。そう力強く思えた。

5月に生まれた私を祝うかのように、その八重桜は優しく咲いていた。
19歳になった私は再び動き出す準備を始めた。

 

(第一部・完)

(著・ワケあり女子)