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「ひきこもり」のいそがしさ

ひきこもりは、何年も一人で過ごして退屈しないのか?——素朴な疑問に、喜久井(きくい)ヤシンさんははっきり「しない」と答えます。「ひきこもりに休息はない」と語るその真意とは。独特な言葉遣いで語る当事者手記をお届けします。

 

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 私には人と会うことがなく、実りのない長い時を経るばかりの歳月があった。それは猛烈に空虚な時間ではあったけれど、退屈な時間だったとはいえない。私は自分を責め立てるような思いから逃げ続けねばならなかったし、鋭さの行きすぎた神経が、いつも自分を安らかさから追い立てていた。

 

 コンピューターの処理動作が止まる「ビジー状態」というのは、私のおちいっていた歳月のありさまを思い起こさせるものがある。「ビジネス」の語源でもある「ビジー busy」は、忙しさや接続困難を意味する言葉で、「塞がっている」という暗示的な意味も持っている。コンピューターはビジー状態になると処理が止まるけれど、それは何もしていないのはなく、行うべきことが多すぎたり、矛盾していたりすることによって動かない。端から見たら何もしていないこととと同じであっても、コンピューターの、回路基板だか何だかは正常に働いていて、むしろ動きがありすぎるせいで、次のものごとに進めない。

 

 私は、わかりやすい言葉に直すなら、「勉強セヨ」とか「就労セヨ」、「親孝行セヨ」、「金ヲ稼ゲ」なんていう、無意識の命令を自分に下しながら生きていた。
 私はよく昼近くになって目を覚ましては、一人きりの部屋で呆然として過ごしていたけれど、それはただダラダラと怠惰をむさぼっていたわけではない。私には今ある自分の状態をいけないと思いながら、人から認められるような者にならねばならないという、焦りに満ちた内側からの叱り声に打ちひしがれていた。自らを駆り立てる声の響きからすれば、私は毎朝6時に起きて勉強し、一日も休むことなく学んで、すみやかに同世代と同じところにまで追いつかねばならない。にもかかわらず、現実には昼になって目を覚ました自分がいて、本来ならためになったはずの一日の、すでに半分が潰れてしまった時間の抜け殻がある。
 私が昼に起きたことは、客観的には予定のない者が昼に起きたということでしかなかっただろう。けれど身の内では、寝坊したことで「すべき」ことの目標(命令)を守れなかったろくでなしが、もう同世代に追いつくことができないという遅刻の失意に立ち上がれないでいる、というありかただった。長い時間寝たあとでもしばらく動き出せないのは、ボーっとしているというよりも、自責の念で身じろぎができなくなっているという方が合っている。

 

 「ひきこもり」の条件が「しない」ことによって成り立っているのだとしても、内面には数多くの「すべき」ことの意思が吹き荒れていた。たくさんの「すべき」ことがあるなかで、私はヘトヘトになってしまっていたし、思い通りに「すべき」ことを達成できないせいで、自分のおこない一つ一つへの批判が湧き上がってきて、自らを精神的におとしめていた。

 

 見た目には止まって見えながら、内側には激しい動きがつまっている、という例に、『レナードの朝』で描かれた人々を思い出す。医師のオリヴァー・サックスは、嗜眠性脳炎(眠り病)の患者たちの治療にあたるなかで、体が硬直し、意思とは無関係に身じろぎできなくなった人々と出会う。体の硬直は、その状態だけを外から見れば、動きの止まった、何も激しさのないものにすぎない。けれどサックスの観察では、体の震えがだんだんと激しくなっていき、どうにもできない痙攣(けいれん)の果てに硬直が起きている。そこからサックスは、患者たちの硬直は体の動きが止まっているのではなく、神経や筋肉があまりにも激しく動いているために硬直して見えるのではないか、という分析をする。

 

 私の「ひきこもり」の歳月も、心理的にはこれらの硬直なり、先に例を出したビジー状態なりにあてはまるところがあった。動きがないことではなく、むしろ動きがありすぎているせいで、生き生きとした暮らしができなくなってしまう。内実には「すべき」ことが激しく渦巻いているために、芯から眠ることも休むこともできずに、神経を疲れさせては歳月が空回りする。

 

 つけ加えるなら、「鬱」という言葉にも共通するような由来がある。これは元々エネルギーが出ないことではなく、ありあまるエネルギーがスムーズに表出されないというような含意で、「草木が鬱蒼(うっそう)と生い茂る」という使用例のように、本来まっすぐに伸びていけるはずのものが絡み合い、こじれてしまうところに「鬱」の意味がある。

 エネルギーがないせいで「しない」というのではなく、たくさんの「すべき」ことのエネルギーを率直に表せられないために、私の歳月はとげとげしく空っぽになっていた。そこには「しない」ことのおだやかさや日常性なんてなく、「すべき」ことに満ちた神経のいらだちと、ことごとく挫折していく自分への指弾があった。

 

 精神科医の中井久夫氏は、『統合失調症の人なら「退屈」したらだいぶ治ってきたといえる』といったが、至言だと思う。
 私の統合失調症の経験者としてもいえるけれど、神経は自分のありさまを批判するために忙しく働きつづけていて、心から落ちつけるような時間のあらかたを奪っていた。一日10時間の眠りのなかに休息はないし、残りの14時間の目覚めの時は、神経にさわる自己批判で騒がしく過ぎ去っていく。

 

 おそらく私が求めるべきものは、「すべき」ことを徹底させるのではなく、本当の意味で「しない」ことを徹底させることだっただろう。私の「ひきこもり」状態から、「朝6時に起きよ」、「一日10ページ数学のノートをやれ」といった「すべき」が減っていったなら、ただ「座る」こと、ただ「居る」こと、ただ「眠る」ことを簡単にしたように思われる。

 「ひきこもり」は何もしていない、という批判は外側の遠いところからしか見ていない人によるものであって、内実は「する」ことに忙しい。私なりに味わってきた歳月の教訓からすると、「すべき」ことをあきらめて、「しない」ことが増えていったとき、伸びやかなエネルギーによって自分なりの活動が生まれてくる。どうすれば「すべき」ことを減らし、「しない」ことを増やせるかという考えの道筋の方が、自分のあり方にしなやかな強度を与ええるものだった。

 

 

 

 参考
オリヴァー・サックス『レナードの朝〔新版〕』春日井晶子訳 早川書房 2015年

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 文・写真 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の3年間は同世代との交流なく過ごした。20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター https://twitter.com/ShinyaKikui

 

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