文・絵 喜久井ヤシン 着色 PaintsChainer
夜の書Ⅲ 遊べなかった子
みさきの世界は、いつも唐突に変わってしまう。みさきがリビングの窓をあけると、いきなり、次の部屋ではなく、ベランダがあった。終わることのないリビングを通ってきたけれど、ようやく途方もない〈家〉がついえたようだった。十数階の高さのマンションで、アザレアの植木鉢が置かれたベランダからは、夕暮れの町の景色を遠くまで見渡せた。町には無数のビルが立ち並んでいて、木々の集まっているあたりには、大きな公園があるらしい。
みさきはしばらく、呆然としながら町の景色をながめていたけれど、ふと、ここで行き止まりになっていることに思いあたった。もう先のリビングルームはない。また来た道を戻る?それとも、ここから飛び降りるしかない?
けれど、家の壁の方を振り返ると、屋上までつづくチェーンのハシゴがぶら下がっていた。この先に何があるのか、想像する気力もないまま、みさきはハシゴを登っていった。
白いコンクリートの平場に、夕暮れの赤紫色の空が広がっている。マンションの屋上には、私服の〈作家〉が一人、座っていた。六十代くらいのおじいさんで、メガネに無精ひげ。紙の束を50センチほどの高さに積み上げたものをイスにして、ノートパソコンを膝の上にひろげている。すぐ横には焦げ付いた一斗缶があり、その中では何枚もの紙を燃え、小さな火の光がちらついていた。
みさきは、ポケットの中の「夜の書」を思い出した。あの少年は、「夜の書」を火の中に投げ入れろと言っていた。火山とか地獄の炎とかではなく、ただの「火」としか言っていない。あのホームセンターで売っていそうな、安い一斗缶の中に投げ入れればいいということか?
みさきは〈作家〉に近づいていった。〈作家〉はキーボードに長い文章を入力しているところで、顔もあげない。
みさきは言う。
「あなたは、ぼくにとっての敵なの?ゲームで一番最後に出会う、ラスボスみたいな人に見えるんだけど、どうだろう?」
〈作家〉は目だけ動かして、みさきの姿を見た。どこかあきれているようだった。
「みさきなのか。わざわざこんなところまで、よく来るな」
〈作家〉はみさきに無関心だった。
「はじめから今まで、わけのわからないことばかり起きているんだ。この世界は何?ここはどういうところ?」
みさきの問いかけに、〈作家〉は不愛想に答える。
「べつに。見てのとおり、マンションの屋上だよ。ここは東京の喜久井町で、向こうに見えているビル群は新宿だ。あっちの緑が多い方は戸山公園。コンビニもスーパーも近くにあるから、行きたければ行けばいい」
どれもこれも、みさきの知らない地名だった。
「ぼくの〈舟の家〉は、どうして壊されないといけなかったの?波のない海や、話しかけるカモメは?ぼく、途中でおかしな国の人にいっぱい会ったんだ。あの世界はどこへいったの?」
〈作家〉は膝に置いたノートパソコンを示しながら、みさきに言った。
「わかるか?これはウィンドウズの中古のパソコン。キーボードを打って、文字になる。『M・I・S・A・K・I』と打つと、『みさき』と出るんだ。それを『Ctrl』と『S』を同時押しして上書き保存する。文章にして、アップすると、何人かが読む。いくら書いても金にはならないが、続けてきた。わかるか?」
みさきには、何の話をしているのかまったくわからなかった。〈作家〉はつづける。
「いつまでファンタジーのつもりなんだ?ここまでたどりついてしまったなら、お前はもう12歳じゃないよ、もうおしまいにして、大人にならないと」
〈作家〉とみさきのあいだに、時間が剥き出しになったような、荒れた沈黙が流れた。
しばらくして、みさきが沈黙を破った。
「ぼくの出会った、別の〈みさき〉が言ってたんだ。この『夜の書』を燃やすんだって……」
みさきは『夜の書』をポケットから取り出した。
「冒険する、本当の主人公から託された?」
「主人……。託される、というか、その人が歩けなくなって、ぼくが、代わりに、火に投げ込むつもりで、持ってきた。それで……」
「そうか」
〈作家〉は言う。
「ほら、火だぞ、燃やせばいいだろ」
〈作家〉は目の前の一斗缶を指し示す。
「入れるよ」
みさきは、「夜の書」を無造作に投げ入れた。何の抵抗もない。「夜の書」は一斗缶の中の小さな火に焼かれ、端の方からじりじりと焦げていく。やがて火が広がり、炎が紙の本をつつんだ。
燃える火を見ながら、みさきは言う。
「もしかしてあなたも〈みさき〉なの?ひどい話ばかり書いてきた、最初の〈みさき〉か」
〈作家〉は質問を無視した。
「その本は、本当は『遊べなかった子』というんだ」
「どういうこと?」
「……」
〈作家〉は答えず、「夜の書」は燃えていった。言葉がどうしようもなく無力だった。
やがて本は真っ黒な灰になって、あとかたもなくなった。全部が燃えつきて、火も灰にくすぶるだけだった。夕暮れの町は、空気も雲も固まっているみたいで、世界は微動だにせず、何一つ変わることはなかった。
「何が起きたの?」
「わかるだろ。本があって、火に入って、燃えた。それだけだよ」
「終わったの?」
「ああ、終わった」
「全部?」
「全部」
どれだけ待っても、物事は変わらなかった。みさきが望む変化は何一つとして起こることがなかった。
「これが?これがみさきの物語の終わり?こんなものが?」
火の音もなくなり、世界では静かに、変わることのない夕暮れが照っていた。残酷な時間だった。
〈作家〉は話した。
「お前は、闘ってきていないじゃないか。主人公になれるはずがない。目的のために冒険して、仲間を集めて、武器を得て、大きな敵に立ち向かっていくのが物語だろう。お前は大切な人も大事なものもなく、ただ時間だけをひたすらやり過ごしてきただけじゃないか」
「物語でなかったことが、全部ぼくのせいだったっていうの?狂った国ばっかり出てきて、めちゃくちゃな目にあってきた。ぼくはどうすればよかったっていうの!」
「私はこれまで、延々と少年の物語を思い描いてきた。みさき、みさき、みさき、みさき。何十年も囚われてきたんだ。理想の少年を求めて、大量に生み続けてきた。ある時は王さまで、ある時は獣だった。ある時は海にやり、地獄にもやった。いくらでも物語になりえるものはあったんだ。何千人もいた。何十年も住んでいる自分の部屋にいながら、紙やパソコンで……。この同じマンションの……。こんな……」
〈作家〉は急に言葉を失って、話すことができなくなった。
「いや、もういい。物語はない。おしまいだ。これ以上書かれるべきものはもうない。私は疲れ果てた。……完結だ。『おわり』と。『おわり』と記そう……」
みさきは言う。
「ぼくは?これからどうすればいい?こんな別の世界に放り出されて、言葉がないって?終わりにできるはずがないよ。あの静かだった海と〈家〉にぼくを帰せよ。はじめのころには誰も人はいなくて、波が話しかけてきたり、鳥と話したりしたんだ。でもある時から急にたくさんの人が出てきて、国とか、町とか、大勢の人たちが住む場所があった。でもぼくはどこもなじめなくて……」
みさきは〈作家〉に話しつづけた。みさきが話しやめないので、〈作家〉は仕方なく、ノロノロとした動作で、前かがみになり、尻の下の紙の束をごそごそとあさった。〈作家〉は言う。
「白紙の紙ならある」
〈作家〉は白紙のノートを抜き取り、みさきに差しだした。
「お前が書き出せばいいんだ。ほら
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の3年間は同世代との交流なく過ごした。20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter
「遊べなかった子」(全30話)更新予定
次回 最終話 5月25日
前回 28話「夜の書Ⅱ 物語れなかった子」