文・インタビュー・ ぼそっと池井多
協力・土橋詩歩
はしがき
筆者である私、ぼそっと池井多が、あるSNSを始めて以来、ずっと愛用し続けているプロフィール写真がある。
理由は単純で、私という人間を端的に表現した一枚だからだ。
撮影は土橋詩歩(どばし・しほ)さん。
2019年3月11日。私は、彼女に再会するため岩手県釜石市を訪れた。人口3万4千人ほどの、自然に囲まれた「鉄と魚とラグビーのまち」といわれている市である。
ギネスブックに世界最深として認定されていた釜石港湾口防波堤までもが破壊された東日本大震災から、ちょうど8年が経った日であった。
釜石の軌跡
釜石市の北部にある鵜住居(うのすまい)地域。
いのちをつなぐ未来館が開館セレモニーを迎えていた。ここは震災前、鵜住居地区防災センターという場所であった。
一時避難場所には指定されていなかったが、「防災センター」という名称を持ち、かねてより津波避難の訓練が行われていたため、いざ津波がやってくるときに、地区の住民など244名以上が避難してきた。そのなかで、推定210名ほどが建物ごと津波に呑まれて亡くなった。「釜石の悲劇」と呼ばれている。
すぐ背後には、2週間後に三陸鉄道リアス線の駅として営業再開を控えた鵜住居駅が雨に濡れていた。
一方では、のちに「釜石の軌跡」と呼ばれることも、この鵜住居地区で起こった。
津波てんでんこ。「津波が来たら、各自てんでばらばらに、勝手に逃げろ」という意味である。
そんな津波教育がかねてより徹底されていたため、地震発生直後に釜石東中学校の生徒たちは、それぞれ自分たちで判断して避難先へ走り出し、それを見た隣接の鵜住居小学校の児童たちが続いた。第一避難先の介護施設に到着して、いったんは全員の無事を確認したものの、中学生は小学生の手を引いてさらに高台へ走り、それを見た地域住民も後に続いた。結果的に、学校は10mを超える高さの津波に襲われ、第一避難先の介護施設も1階が水没したが、当日登校した生徒児童約600人は体調不良で欠席していた子1名、途中帰宅した1名と校内に残っていた事務員1名以外、全員が無事であった。
土橋詩歩さんは、この地域で生まれ、20年間暮らした。
そんな土橋さんに、ひきこもり生活を経た近況を尋ねた。
ひきこもりの始まり
ぼそっと池井多 土橋さんは、どのようにひきこもりが始まったのですか。
土橋詩歩 高校を出て、釜石市内で経理だとか車を洗ったりとか、そういう仕事をしていたんですけど、2010年の夏にうつになってしまいました。
積み重なっていったものが、身体に出たのでした。心も体も一切が動かなくなってしまったことで、初めて心身が悲鳴を上げていたのだということに気づきました。
それで3、4か月の間、ひきこもり状態になりました。
うつが良くなってきて、次の仕事を探し始め、新しい就職先であるNPO法人のために履歴書を書きました。もう、あとは投函するばかりにして、家に置いたままコンビニへ買い物に出てきました。ところが、その履歴書はもう二度と見ることはありませんでした。
ぼそっと池井多 というと?
土橋詩歩 自宅近くのコンビニの駐車場で車を停めていたら、あの地震が発生しました。
津波襲来
土橋詩歩 私は、揺れを感じ、ふだん逃げないと言っていた父や母や祖母を迎えにいき、飼っていた犬をつれて、鵜住居地域の内陸部へ逃げました。間一髪のところでした。
翌々日、3月13日までその周辺で暮らしていました。
やがて、山間部にある旧道が通れるようになったので、釜石市の西部の内陸にある母の実家へ行くことになりました。
ニュースを含め、停電状態が続いていたため、情報が何も入ってこない状況でした。そのため、地震が再来した場合、実家が倒壊するんじゃないか、という心配があったので、母の実家へ向かうことにしたのです。
避難所で長期間暮らすこともなく、母の実家に身を寄せて、祖父母や叔母や叔父やいとこたちと一軒家の下で大人数で暮らしました。
震災とうつの不思議な関係
ぼそっと池井多 土橋さんは、震災がきっかけでうつがぶり返したとか、そういう体験はありますか。
土橋詩歩 ないです。私はむしろ、震災があったことによってうつ特有の「いなくなりたい」という気持ちがおさまり、「生きなくてはならない」という気持ちが強くなりました。これは本能なんですかね...
ぼそっと池井多 「むしろ元気になった」というと語弊があるけれども、震災があって元気になった?
土橋詩歩 そうなんです。「語弊があるけれども元気になった」という言い方が的を射ているかな、と。
自分で火を起こさなないと煮炊きができず生き延びられないとか、「今のことを何か書き残しておかなくてはいけない」と絶えず思うとか、とにかく「懸命に生きないといけない」という状況になったことで、私は元気にならざるをえませんでした。
これは不思議なことです。震災前に新しい職場へ履歴書を書いていたころ、私の生きる気力はものすごく低かったんですよ。危機的な状況に陥り、生命のエネルギーみたいなものが上がったように思います。
ぼそっと池井多 それで活力が出て、地域の復興のために活動し始めたりしたのですか。
土橋詩歩 それは、発災後から数か月後の話ですね。
震災の2か月後、2011年5月に、私は職業訓練校でワードやエクセルの勉強をしていました。その後はカナダ大使館からの支援があり、短期留学の機会が与えられたので、2か月カナダで語学を学んできました。少しだけ(笑い)。帰国したのが2011年12月です。もともと好奇心旺盛だった私は、その2か月で新たに見聞きしたものは数知れず、あまりに楽しい未知の世界を体験することができました。
土橋詩歩 新しい世界との出会いというのは、すごく衝撃的で、震災以前やその直後 よりもすごく前向きな気持ちになれました。一方では、震災後の釜石のために、自分が何かできることはないか、ということを常に頭のどこかで考えている時期でもありました。釜石を出るか出ないか、しきりに悩んでいたのです。
釜石を出てしまったら、地域のために活動できなくなる。釜石で自分のような者が活動できるのは、震災直後の2011年とか、こういう今しかないんじゃないか。……そういう葛藤でした。
そのとき「いっしょに働いてみない?」と声をかけてくれた先輩がいたんです。震災によって、人々の暮らしや居場所は激変し、それまでの地域コミュニティがばらばらになってしまっていました 。そのため、人々が気軽に行き来できるコミュニティ・スペースを作ろう、という案が地域であったようで、それに基づいて開設されたコミュニティ創出スペースの管理人をいっしょにやらないか、というお話でした。
奇しくも、震災直前に私が履歴書を書いていた先が、その勤務先であるNPO法人だったのです。そこで2012年春から働くことになりました。紆余曲折があって数か月で辞めたものの、そのコミュニティ・スペースにいたことは、のちの私のために良い勉強になりました。あの体験があったから、現在担わせてもらっているシェア・オフィスのコミュニティマネージャーにつながっているのかな、とも考えています。
< プロフィールリンク >
土橋詩歩 :Instagram: https://instagram.com/dobashiho?igshid=rmfkmkzfhvxw
こちら「第2回」へつづく