1.
中学3年生のときに、数学の授業でこんな式を知った。
から始めて、、、、、...、と、半分にしながら延々足し続けていくと、になる。
図のように、長さ1mの棒を半分ずつ塗っていく、と考えれば分かりやすい…?
(絵心なくてすいません!)
※厳密さは超無視してます。
2.
4年後、浪人生のときに、こんな式を知った。
とはみなさんご存じの(?)円周率。
直径1cmの円の、1周分の長さ。
小学校でと習った人も多いだろう。
ところで、この式はちょっと異様だ。
ただの分数を順番に足していくと、円の長さが出てくる?
難しさとしては、よく勉強している理系の高校3年生なら、この式の成り立ちを理解できるといった程度だと思う。難しいが、大学入試問題として難しいといった程度。
※興味のある人は「バーゼル問題」で検索してみてください。
3.
さらに翌年、大学入りたての頃、こんなことを知った。
「え?」と思った。
だって、高校3年生程度で理解できる式のたった1か所を、からに変えただけだから。
なのに、現代最高の数学者を全員集めても、この謎にほとんど迫れていないらしい。
と、違いはとてもシンプルなのに、その深淵さは次元が違うようだ。
「の深さ」が日本海溝なら、「の深さ」はマリアナ海溝...どころかブラックホールの世界だと思う。
※ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、このの方の式はリーマン予想と深い関係があります。
この大学1年の頃に、私の、ものの見方が少しだけ変わった。
自然科学の世界では、たった1か所が違うだけで、人間にはまるで分からない世界が登場することがある。
ということは、もっと複雑な自然や社会の現象なんて、基本的には読み解けない。おおざっぱに読み解くことはできても、厳密な真実に到達することは困難。
人間の能力は、自然や社会といった「世界」の深淵さと広さに比べて、何と浅く狭いものか。だから、僕のような個人が生きて死んだところで、「世界」には1mmも影響を与えない。個人がどう生きようと大した問題じゃない。
当時、そんな感覚を持ったことを覚えている。
4.
…なんて話をすると、「ああ、こいつは大学1年で何か悟ったんだな」、と思うかもしれない。
しかし全然何も悟らなかったし、いわゆる普通の大学生のように(?)、欲望に走った。
確かに、生き死になんてどうでもいいという思考を体験した。
世界はいくら偉大でも「他人」に過ぎなくて、ちっぽけな私に興味を持ってなくて、私に人生の意味など与えない。
だから自分で、生きることを頑張ろう、なんて思ったりもした。
ところが大学時代の私は、きっとその「頑張って生きること」を「欲望を満たすこと」だと解釈した。
例えばお金、家庭。将来それを得られるように、頑張ろう。
それに全く疑問を持つことなく、いわゆる「いい会社」に入ることで、それを得ようとしていた。
※今でもこれを求めていますし、それを求めること自体が悪いなどとは思いません。あくまで私が、人生の意味と欲望とを混同してしまっていたということです。
5.
しかしその5年後、私はひきこもることになった。
それはそれは絶望した。
「それ」を手に入れるまで本当にあと一歩のところまで来ていたのに、頑張って生きていたいのに、ある理由でそれがまったくできなくなった。
「それ」を手に入れるのは、いわゆる新卒を逃すと、極めて難しくなる。
ひきこもって抜け出せずに、新卒の期間は過ぎた。あっという間だった。
気づけば6年が経ち、いつの間にか、
「頑張る」は人生を彩るための言葉ではなく、
惨めな自分を「世間並み」に引き上げるための言葉
…になっていた。
きっとこのことに、私は気づけていなかった。
私はひきこもりの長期化で物の見方がとても狭くなっていた。それで、「惨め」を「普通」にすることにこだわり続けたのかもしれない。
6.
それから半年後、つまり私がひきこもって6年半経ったとき、ようやく引きこもり状態から脱した。
きっかけは、ネットでたまたま「ひきこもりの集まるイベントがある」という記事を見つけ、衝動的に自分の悲惨な現状を変えたいと思い、意を決して行ったこと。
そのイベントで「私が」会った人のほとんどは、ひきこもりかその経験者。
その意味では世間から見れば「並み以下」の人たち(失礼な言い方ですいません)。
でもとても素敵。例えば、優しさとか、専門家顔負けの知識や技能とか、言葉の重みとか、そういうところがすごい人もいる。
けれど、素敵さというのはそれとは違う。
たとえばA君という同い年の男性。彼とはイベント後にサイゼリヤで、
「俺たち普段ひきこもっていて、お金もないよね。どうやって働こうね(略)ところで、俺たち同じゲーム好きなんだ、あれの大会今度あるじゃん、ライブ配信観る予定?え、A君の家で一緒に観る!?じゃあ◯曜日に(以下略)」
みたいな、ひきこもりだか何だか分からない会話が出来てしまう素敵さ。
なぜかその勢いで外出することにもなったし。
A君以外にも、彼らとなら、そんな話ができた。
A君とはその後もつながりが続いているが、今も昔も会う機会はせいぜい月に1度くらい。密な人間関係にこそ人を変える力がある、そう思っていたけれど、これはまったく不思議な体験だった。
7.
そんな彼らが普通に生きている姿を目の当たりにしたからか、この頃、以前ほどには「頑張って」生きなくなっていたと思う。
自分は相変わらずひきこもりがちだけど、当然に生きる権利があるんだと。
頑張らなくなってきたので、以前ほど自分を「世間並み」に引き上げようとは思わなくなっていた。
それと同時に、自分が苦しんだ経験を形にしたい、意味を見出したいと思う気持ちが強まった。
働こうという意欲も出てきた。
昔から勉強を教えるのは得意だったので、塾の面接にも行った。
ある塾でのバイトの面接で、こんな言葉を言ったことを覚えている。
「自分みたいな人間を再生産したくはない。
教育とは本来人を幸せにすることで、進路の達成だけが教育じゃない。
雇われるのだから進路という結果は出すけれど、
学びの過程で多くの気づきが生まれるように、生徒さんに向き合いたい」
少し夢見がちな感じはする。
それでも、自分の中から「こういうことをやりたい」「経験を力に変えたい」という強い思いが出るようになっていた。
8.
時は過ぎて、2019年の5月。
こんな記事タイトルが目に入ってきた。
いくら頑張っても幸福になれない理由は、幸福の本質が「なる」ではなく「見つける」だから。 | Books&Apps
「私の体験はまさにこれ!この言葉!」
すぐ、そう感じた。
この言葉に刺激され、私の幸せは何だろうかを考えようと、脳がフル稼働した。
※中身も私にとっては考えさせられるもので、この記事のここから先は、その影響を受けていると思う。
引きこもっていた頃の私は、こんなことばかり考えていた。
とにかく頑張って、外に出て働いて金を稼がなきゃ。
とにかく頑張って、惨めな人間から脱して世間並みにならなきゃ。
幸せなんて言う前に、まずは世間並みにならなきゃ。
「頑張る(頑張って)」と「なる(なら)」のオンパレードで、どこにも自分はいない。
ところで。
それは、A君たちに出会ったことで結果的に「自分の経験を形にしたい」に変わっていった、先ほどそう書いた。
でもそんなふうに変わったきっかけは、A君たちとの出会いそのものじゃ、ない。
きっかけは、「ひきこもっている、なんか苦しい、この生き方は違う」とひきこもり中に悩み抜いたこと。間違いない。
そこにA君たちとの出会いが合わさって、その出会いと悩み抜いた経験が化学反応を起こして、単なる出会いが「素敵」へと一気に昇華した。
今になってみれば、そんなことが起こっていたんだろうなと思う。
9.
幸せを見つけるって聞くと、なんだか、小さな頃に秘密基地で遊んだことを思い出す。
僕たちだけが秘密を知っているという謎のワクワク感。
他人から見れば何の価値もないけれど。
そんなふうに遊んでいるときは、頑張ってる感覚なんてなかった。
ただ夢中だった。
そういえば、A君との会話もそんな感じだった。
それは、世間や他人の借り物ではない、自分の幸せを見つけた確かな一瞬だったと、今になって思う。
思いを持てる、やりたいことを見つける、それも夢中の一種だと思う。
「見つけられる」とは、一瞬でも夢中になれること、なのかもしれない。
そう考えると、幸せの形は色々あっても、それぞれの形の間に大した差はなく、似たようなもの。
むしろ本当に色々なのは幸せそのものではなく、幸せまでの過程。
その過程に「ひきこもり」があっても全然不思議ではない。
私はあんなものを二度と経験したくはないが、今にして思うと、どうやらそれも必要な過程だったらしいと、今になってじわじわ分かってきた。
ただ、私は苦しめとか悩み抜けとか言いたいわけでは全くないし、ましてや「ひきこもりでいいよ」と言うつもりは全くない。何も考えずに「慎ましい幸せでいいじゃない」とか言ってくる人には「テメーコノヤロー」とでも返したくなる。
私が言いたいのは、ただ自由だということ、それに尽きる。
幸せを得るというゲームにセオリーはない。
何をやってもいい、とても自由度の高い世界。
たまに「サッカーが上手い選手」という言葉を聞く。彼は、シュートが下手でも、ドリブルが下手でも、それだけがサッカーじゃないと知っているのだろう。
きっと上手い選手ほど、サッカーの自由さを知っている。
「人生は自由で、自由だからこそダメ人間でも幸せは普通に得られる」、そう思い続けられる人は、ひきこもりだろうが何だろうが、幸せになっていくんだろうなと思う。
【謝辞】
この記事は、Books&Apps の安達裕哉氏による下記記事、特にそのタイトルに大きな影響を受けて書いたものです。
「いくら頑張っても幸福になれない理由は、幸福の本質が「なる」ではなく「見つける」だから。」
この言葉に惹かれ、自分のひきこもり体験が何だったのか、私は幸せをつかめるのか、考えたくなりました。
きっとこの言葉の捉え方は、私と安達氏とでは違うことでしょう。
ですが、私に気づきを与え、この記事を書こうと思わせた、そんな私にとっての重要な言葉であることに変わりありません。
記事をお書きになった安達裕哉氏と、Books&Appsさまに感謝いたします。
著者:Longrow(ロングロウ)
名前が示す通りウイスキー好き。twitterの「@redredbarolo」は、学生の頃飲んで忘れられないウイスキー「ロングロウ ガイアバローロカスク 7年」から。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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