文・土橋詩歩 & ぼそっと池井多
・・・「第1回」からのつづき
町と自分の復興
ぼそっと池井多 土橋さんというと、私にとっては「天才写真家」なんですが(笑)、写真はいつ始められたのですか。
土橋詩歩 いえいえ、原来私は写真がすごく下手だったのです。2012年の秋、写真にのめりこみ始めました。
まちづくりに関わるようになって、そのメンバーたちと一緒に活動することが増えて、そこで写真もやってみようと私が提案しました。2012年夏くらいから、まだ震災の爪痕が強く残る釜石の町の魅力をファインダー越しに見つけようということで、釜石の若い人たちに呼びかけて写真サークルを立ち上げました。
私があのメンバーの中でいちばん写真が下手だったからこそ、のめりこんだのかなとも思います。下手だったから、あちこちの方にコーチとかお願いして。お願いするのにも、私はあまりマナーとか知らなかったものだから、コーチを頼めなかったこともありました。
それで「写真を本格的に勉強したいな」と思い立って、2013年春から東京に出ていくことにしました。それが東京に住んだ初めての経験ですが、ずっと前から東京に出ていきたかったので、一大決心ということのほどもなく、「やっと実現した」という感じでした。
東京へ出ていく
土橋詩歩 東京で2年間、働きながら夜間部の写真学校に通いました。そこを卒業して、念願の新聞社に就職して、1年もしないうちに辞めて、失業保険で暮らしていたんですが、それが切れて、お金がなくなって生活保護寸前まで困窮しました。そして2015年、私はまた東京でひきこもりになったのです。
私は、新聞社は辞めても、ずっと書く仕事は続けていきたいと考えていました。でも、周りからは「あんたにできるはずがない」「もっとこういう仕事したら」「仕事を選ばないで、とにかく働け」と否定されるばっかりで、苦しくて、私はまたひきこもってしまったのです。
そんなある日、発達障害の記事を読みました。発達障害はこういう生きづらさを感じていて、向いている仕事はこういう職種だ、というようなことが書いてありました。その記事に勇気をもらったので、それを書いたジャーナリストの池上さんに連絡しました。そうしたら2016年の夏、池上さんから「ひきこもりの当事者メディアが立ち上がるから、そこへつながってみたら。編集記者やカメラマンの経験がいかせるかもしれませんよ」と案内をもらいました。
ぼそっと池井多 なるほど。それで私が土橋さんにお会いした、ある当事者メディアにつながったのですね。私は自分で情報を見つけて2016年12月にそこへつながったのですが、それで土橋さんとお会いすることになりました。そして、いまも私が愛用しているプロフィール写真を、2017年2月に撮っていただいたのでした。
撮影の帰り、下北沢だったか、一緒に歩きながらお話をうかがったときに、「この女性は、一種の天才だな」という印象を持ったことを憶えています。
でも、それ以後、あまり詳しくお話をする機会もないままに、私からすると、いつのまにか私たち東京のひきこもり界隈から土橋さんが消えていました。
あのころ、あなたはどこへ行っていたのですか。(笑)
土橋詩歩 ぼそっとさんに連絡できなくて申し訳なかったです。じつは、私はまた就職していたのです。
その当事者メディアに頻繁に関わっていた当時、私は夜バイトしながら当事者活動をしていたんですけど、昼間の仕事をしたくなって、あるウェブメディアに就職しました。もっと当事者発信を効果的におこなうために、プロのメディアで修行したい、というのがその就職の動機だったんだけど、そちらの仕事が忙しくなって、だんだん当事者発信に関われなくなっていってしまいました。そうこうするうちに、また体調を崩しちゃったのですね。また実質ひきこもり状態に戻って、部屋から出られなくなりました。
ぼそっと池井多 職場で人間関係に悩んだのですか。
土橋詩歩 いいえ、ぜんぜん。すごく良い職場で、やりがいのある仕事で、人間関係にも恵まれていたんですけど、ついついがんばってしまったものだから、また持病の摂食障害が出てきて、腹痛がひどくなって、精神的にもすさんできて、部屋から出られなくなったのです。
ふりかえると、季節的な原因もあったのかもしれない。真冬とか、年度の変わり目の春は、私はもともと体調を崩しやすいんです。
ぼそっと池井多 おやおや。それでどうしたんですか。
土橋詩歩 釜石にいる家族に「体調を整えるために、いったん実家で休ませてもらえないかな」と相談しました。ほんとうは私が実家に帰ると、今度は年子の兄が心のバランスを崩す傾向があるので、「あまり帰ってこないでほしい」というようなことを言われるんだけど、「私が立ち行かないから帰らせてほしい」と言って、家族には受け容れてもらいました。
ぼそっと池井多 会社の方には何と言いましたか。
土橋詩歩 会社の上司は、「大きな決断をしたんだね。体調が戻ったら連絡をくれ。そのとき振れる仕事があったら振ってあげるから」と私を気づかいながら、私が辞めることを受け容れてくれました。
そうやって釜石に帰ってきて、2017年夏から、前の職場から業務委託として書く仕事をいただき、フリーランスのライターとして実家で仕事を始めたのです。それで一年ほど、ひきこもりフリーランスとして仕事することになります。
地元に念願のシェア・オフィスが
土橋詩歩 2018年5月にここ、釜石にもシェア・オフィスができることを知って、私はすごく感動しました。
それまで釜石では、周りにフリーランスのライターみたいな人がまったくいなかったので、ある意味すごく孤独だったんです。「シェアオフィスみたいなのがあれば、同じことやっている仲間と地元で知り合える」と思って、感動したのですね。
土橋詩歩 2018年8月、ここのオーナーが「忙しすぎる。猫の手も借りたい」みたいなツイートをして、「私でよければ手伝います」とリプしたところが、「シェアオフィスがうまく回っていないから、その管理をやってくれないか」と頼まれました。
それでその8月から今日まで、一年半以上これをやっています。仕事の内容は、シェアオフィスのコミュニティーマネージャーといって、施設の管理や会員さんとの交流などです。
ゼロ店舗商店街からの出発
土橋詩歩 ここは、釜石大観音の仲見世商店街を復活させるための拠点でもあります。
あそこに見えるのが、釜石市を象徴するスポットのひとつであり、「恋人たちの聖地」なんて呼ばれて、ランドマークとしても広く知られている釜石大観音です。鉄筋コンクリートでつくられた高さ48.5mの魚藍観音像で、明峰山石応禅寺の発願により、1970(昭和45)年に建立されました。
その門前町として、石応禅寺が山林だった土地を買い取って分譲したのがこの釜石仲見世商店街です。京都の清水寺門前町を参考に、赤い瓦の屋根、土色の外壁、2階の格子窓のデザインが統一されていました。1977(昭和52)年ごろまでには最盛期を迎えて、二十数店のお店がならび、人にぶつからないでは歩くことができず、観光バスが何台もならんでいたこともあったと言います。
でも、地方に活力がなくなってきた2007(平成18)年に、中心的な店舗であった大食堂が閉店して、ツアー客が減少し始めました。しだいに閉店するお店が増えて、やがてゼロ店舗の商店街となりました。
この仲見世通りにもう一度かつての活気を取り戻したい、ということで2015年に仲見世リノベーションプロジェクトというのが立ち上がり、このシェアオフィスがその拠点となっているのです。
ぼそっと池井多 このインタビューのシリーズは「ひきこもりと地方」というんですが、東京周辺とは異なる、地方ならではのひきこもりの諸事情をお伝えしていきたいと思っています。
この地方のひきこもりの当事者会などはありますか。
土橋詩歩 私が知る限りはありません。なので、この地域でいろいろな生きづらさを感じている人が気軽に交流できる場をつくれればいいな、と思っています。
今はまだ、非営利的な空間を開催する余裕がないんですけど、「生きづらさの軽減」という問題を、私はとても重要視しているので、そのためには「生きづらい人のための居場所を作る」ということがミッションとしてあるな、と感じています。そこまでの道のりはまだまだ遠いですが少しずつ実現していきたいです。そういう場所を求めている人たちは、この地方にも確実にいると数字でも出ているので。
東京のようなわけに行かない、地方の当事者会
ぼそっと池井多 もうすでに、釜石とその周辺で、土橋さん以外のひきこもり当事者や、生きづらさを訴えている人は、誰かご存じですか。
土橋詩歩 それが、なかなか情報が入ってこなくて。そういう人たちがいることは、人づてに、支援者の人などから聞くんですけどね。社会参加の一端として、とある組織のところで、薪割りとか簡単なことから社会参画を始めているひきこもり当事者のお話なども、聞くことは聞くんです。
でも、「守秘義務があるから」ということで、具体的な情報は教えてもらえません。当たり前なんですけどね。そのため、私自身は見たことも会ったこともないのです。東京であればもっと気軽に当事者会で知り合うことができていたので、まったく違う状況だなと痛感しています。
ぼそっと池井多 どの地域に行っても、よくある話なのですが、ひきこもりは透明人間のように見えない人口として存在する、と。間接的に存在が伝わってくるんだけど、実際に会うことのない人々として。
土橋詩歩 私自身は、ちょうど東京で知り合ったみたいな、ちょっと活動的なひきこもりの人たちと、この釜石周辺で出会いたいな、と思っているんです。そういう人たちと対話して「いま、この地方のひきこもりはどうなっているのか」って対話する場があるといいと思うんですよね。
私がひきこもり経験を語る理由
ぼそっと池井多 そのために、土橋さんは 何をやろうとしていらっしゃるのですか。
土橋詩歩 私はまず、「ひきこもりが問題とならないために、ひきこもりという話題をとりあげていく」ようにしています。ひきこもりへの偏見を無くしたくて「自分がひきこもっていました」ということを率先して皆に言うようにしています。私は自分がひきこもっていた経験を全然否定していなくて、あのころは自分にとって必要な選択肢だったのだと考えていますから。
釜石に限らず、地方の町というのは東京に比べると小さいので、何事もすぐに知れ渡ってしまうんです。みなさんひきこもりに関して口を閉ざしてしまうんですね。でもそれは、ひきこもりへの背徳感があるからなのではないでしょうか。それを変えていけば、何事もすぐに知れ渡ったところで怖くはないでしょう。
このように考えられるようになったのは、都内で当事者活動をしていたころに、ひきこもりは悪ではない、負の経験でもない、という認識で活動していた仲間たちといっぱい出会うことができたからです。微力ながらも、そういう考えを、釜石周辺および、地域に住んでいる ひきこもりの皆さんやひきこもり当事者のご家族にも伝えられる方法はないかと模索中です。
本日は本当にありがとうございました。体調第一に、これからも粛々と活動していきます。
(了)
< プロフィールリンク >
土橋詩歩 :Instagram: https://instagram.com/dobashiho?igshid=rmfkmkzfhvxw
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