(文・葉)
前回の記事を書いた後、小学校転校しまくってることについて書いてみたら、と言われたので書いてみようかと思います。
この記事では、記事を読みやすくするために一人称は「私」を使いませんがご了承ください。
2019年、夏…不登校YouTuberは是か非かというニュースを見て、俺は29年前の事を思い出そうとしていた。
それは自分が小学校に入学したあたりの事を思い出そうという努力だ。
俺は小学校の時に5回、中学校は1回転校しているはずだ。
しかし、思い出そうとすればするほどそれが事実だったのかということが怪しい。極印象的なシーンと事実の概念としての記憶だけが、おっさんになっても一人の足で経つことの出来ない俺という男の頭の中にあり、その感じはまるで俺は実は人生の途中で宇宙人に記憶だけを差し替えられて生きているので思い出せないのだ……と言った風情に近いように思われた。
それでも「不登校という生き方が《選べる》」などという言説が俺の胸をチクチクとナイロンの棘で刺すかのような不快感が、俺自身に記憶を掘り起こすことをやめさせなかった…
空想の中でしか生きる方法がなかった就学以前
俺の両親は俺が物心ついたときには既に不仲だった。内縁関係の夫婦で、戸籍上の結婚はしていなかった。俺はその頃、母親に養育されていた。しかし時々は父親の住む県営団地に滞在することもあった。経済的にずっと困窮していた。
部屋の片隅で絵を書いたり、一人で団地の中にある大きな公園にいったりしていたが、集団で遊ぶことはなかった。声をかけてくれたC君だけが友達だった。
幼稚園も、親は行かせるための努力はしてくれてたが、経済的につづけられなかったようにも聞いたし、俺自身とうとう通うことはできなかった。
3歳か4歳位の時に両親の関係はいよいよ決定的に悪くなり、父は酒を飲んで母の言動に耐えかねず激高し手を上げることもあった。
その後東京都内の母子アパートに引越しをするが、そこは四畳半二部屋の広さしかない薄暗い場所であった。母は昔から片付けができず、生野菜を田舎くらしの感覚で買ってきては度々腐り、ゴキブリもしょっちゅうでた。暑い日など毎日のように。俺はゴキブリが大嫌いだった。子供の頃はそれも恐ろしくて仕方がなかった。
引越し後は保育園に行くこともあったが、集団の中では溶け込むことが出来なかった。からかわれても何が原因でからかわれているのかも分からなかった。世界は恐怖だった。それで度々休み、一人で部屋でファミコンをやってばかりいた。好きなソフトはロックマンだった。ボスキャラクターの公募をやっていたため、「僕の考えた最強の敵」みたいなボスをノートや何かの裏紙に鉛筆で書き綴っていた。それは小学3年生頃まで続き、そのノートは保管されていないがA4で20冊にはなっただろうか。
古本屋で買ってきた漫画を読み、時には金がないから長く読める活字の本を読んでいた。6歳の時には小学校高学年くらいの読解力があった。分からない漢字は文脈から当てずっぽうで読んでいたがテレビ等の言い回しでだいたいはあたっていた。
ただ、どういう作品を読んでいたかはよく思い出せない。
手塚治虫の漫画やドラえもんの原作、忍たま乱太郎、あさりちゃん、三毛猫ホームズだのなんかは読んでいたのを思い出せる。
時間軸が前後するがズッコケ三人組というシリーズも好きだった。
テレビはアニメが好きだった。また物心着いた時から科学の本も好きだった。
学校に行ってない間というか就学前もずっとNHK教育テレビの9時から昼までの枠は見ていた。
ただ数字に関してはかなり苦手だった。算数は未だに苦労する。
辛い生活の中では、俺は空想の中に逃げ込むしか生きる方法はなかった。幼少の頃から自慰を覚えてそれもストレスのはけ口だった。小学館の小学〇年生という雑誌は買って貰っていたが、内容は自分にとって等身大のものとは思えなかった。
父と母が別居状態にあってからも時には父のところに行くことがあった。父の部屋はそれなりに片付いていて過ごしやすかったが、母が自分が片付けができない事でどれほど苦しい気持ちを持っていたのかを理解できるようになるのはずっと大人になってからだったし、理解出来ても生ゴミやゴキブリの発生を受け入れるのは難しい。
父の部屋では感電したり分解したり教育テレビをみたりしていた。
35歳の俺はもう、棒キレを振り回して外を駆けたりしないが、その頃の俺は外に行って一人だけでごっこ遊びをしていた。小さな頃はおとなしいながらもそれなりに活発さがあった。
子供が嫌いな子供だった。
仲良くなれる人となれない人がはっきり別れていた。大概の子供とは仲良くやっていけなかった。
1987年-1992年頃の思い出だ。
小渕官房長官が古ぼけた中古のブラウン管テレビの中で「平成」と書かれた額を掲げていた。
その頃、俺は孤独であっても孤独とは感じていなかった。
人とは何か違うのだと思っていたが、その事で苦しんではいなかった。
親が起こす暴力事件〜最初の転校
俺は小学校の入学式前日、38.6度の熱を出した。
小さい頃は度々高熱を出したりするのは、皆あることだというが、俺はたいがいタイミングが悪い。
都内のある区の小学校。その入学式には出るには出たが、その日病院に行くと肺炎が発覚、即座に緊急入院となり、約一ヶ月の入院となった。
小学校のクラスに初登校した時には、すでにクラスには派閥ができている状態だった。しかもコミュニケーション能力はなくとも語彙は大人並みにあったので、恐らくその時点での言語的知能指数は高かったのかもしれない。
「お宅のお子さんは口が達者だが、周りは言い返せないから手が出るのだろう」と教頭に言われたと、そう後に母は語っていた。
俺は言葉は達者でも人の心の機微には疎かったし、当時はどういう状況に自分が置かれていたのか全くわかっていなかった。
自分自身の苗字も母の前夫の苗字のままで、父の名前とも違っていたし、小学二年までには現在の母方の姓になり、自分自身が外界から見られることについても、自分自身のことを自分の上から見ることも曖昧なままずっと育ってきていた。
こまごまとした衝突はあっても、Tくんという唯一の友達もでき、なんとか学校には行っていた。
ある時転機が来くる。夏の終わりに。
自分の家はかなり貧乏で、当時は生活保護を受けてもいなかったので、ものは大切に使う子供だった。
ある日、1センチくらいまで減った鉛筆を使っていたら、『そんな鉛筆は使うことない、みっともない』といってクラスメートの男子に捨てられてしまった。
それはちょうど自分の手から無理やりそれを奪われ、ゴミ箱に捨てられた。
その男子には正解の算数の回答を不正解だと言いがかりをつけられて赤えんぴつでグチャグチャにされる、などということもたったが、嫌な気分ではあるが、当時は、まだいじめとは思えなかった。
T君とだけ仲が良かった。
しかしある日、クラスの中心的な存在のRさんという女子にたまたま遊びに誘われた。
滅多にT君以外と遊ぶことはなかったが、友達は欲しかったためにOKをした。
しかし遊ぶ日程のをバッティング(被らせて)しまい、どうしよう、と俺は焦った。
それをT君にもRさんにも話すが、互いにこっちと遊べ、と譲らなかった。ムキになって。
それで板挟みになって困り、苦し紛れで、最初に約束したのはT君なので、T君との約束を守ります、と俺は答えた。
とりあえず難を逃れたか。そう思った。
だが、その次の日から、Rさんの取り巻きというか、周囲の子からかなり嫌がらせを受けるようになりだした。
担任の女教師は新任で、事態をどうにかできる力量は持っていなかった。
学校に行くのはつらくなっていった。
なんとか行かないようにしたかったが当然母は許さない。
周囲の子がなぜ『社会的な』行動をとるのかということがまったく理解できない俺にとり、その状況は不安と恐怖しかなかった。
嫌がらせを受け出す前も後もそこは変わらないが、いよいよ具体的にちょっかいを出されることになり、さすがに悪意の感覚を感じだしていた。
ある日の夜俺は悪夢を見て、布団からガバっと起き、直立不動になったそうだ。
そうして、登校前に泣いてしまった。泣くことを我慢しながら涙が出、声を押し殺して泣くという、そういう子供らしくない涙だったそうだ。
その状況を見た母は、さすがに異常なことが起きていると悟った。そうなると黙ってはおらず、学校に再三かけあい、校長、教頭にも談判しに行くが、なんら状況はよくならない。
母は、俺を高齢で産んだためなのか、性格なのか、周りの父兄とは上手くコミュニケーションできていなかった。
母は学校側とのやりとりしかできなかった。それで、教頭の許可を得て、母がクラスの後ろで、座って状況を見ている、ということになった。
当時は母子家庭ではあるが、母は仕事を始めようとして給食センターで働き出していたのに、仕事も母は休み、私がなんとか学校に行けるなるよう、ずっと奔走し続けてくれてたのだが、そんな事情は高校生を過ぎてから知ることになる。
そうした状況が続いてしばらくの後、母が私にちょっないをかけてきていた子の背後には、Rさんという女子が(例の遊ぶのを断った子だ)いる、そういう状態を見てとる。そのことでなんとRさん本人に軽くビンタをかましてしまう事件が発生する。
Rさんは唇がすこし切れ、なんであれ少しだけだが「出血」することになった。
俺はオロオロすることしか出来ない、いや、何が起こったか把握することも出来ないが、クラスはひっくり返ったような騒ぎになっていった。
そしてそれはPTAでも「流血事件」と大問題になる。
当然だろう。むしろマスコミに報道されても現代ならおかしくないようなことだろう。
具体的にどういう問題になったか細かいことまでは覚えていない。ただ母は危険人物とされ張り紙などが出されることになった。
結局結末としては、私もRさんも転校しなければならなくなった。
自分のせいで大変なことになってしまった、という気持ちはあった。
しかしやり返す力がない俺は、複数の大人に、自分のせいではない、と言われたりしていて、自分の中では処理しきれなかった。
その事件のしばらく前か後か、Tくんが、俺が校庭でなにかをされた時、激怒して、その相手をボコボコに殴ったこともあった。そのことは忘れられない。でも、俺はなぜTくんが怒ったのかもイマイチ理解していなかったが、俺のために怒ってくれたというのとはわかった。それが嬉しかった。
結局のところ、俺はRさんともTくんとも、みんなとも、ただ仲良くしたかっただけだった。だがどうすればそうなるのか、どう振る舞えばいいのか、わからず、間違え続けた。
母親に頼るしか、俺にはできなかったし、それを責められることもなかったが、俺は俺で学校に行きたくない打算があった。
そんな打算を六歳児ができるはずない、母は大人になった今でもそう言うが、自覚的に行った逃避で、それはれっきとした打算でもあった。
俺はなにに起因しているか釈然としない、と、当時処理しきれなかったが、罪悪感をずっと忘れなかった。
母には学校に行きたくないために、必要以上の嘘もついたが、真実本当に辛かったのも事実であるため、母は俺の嘘も信じてしまった。
俺の嘘とは、教頭に砂をかけられたとか、実際は一度しかなかった下駄箱の靴がなくなるとかを、行きたくないがために過剰に言ったり創作したり、苦しさを過剰に(というか過剰ともえないのだが、伝わりやすいように)主張するといった行いのことだ。
しかし、当時ついた嘘について大人になってから釈明をしたこともあったが「子供にそんな嘘がつけるもんか」とか「6歳児が大人のように声を殺して泣くんだよ、ただ事じゃないと思った」と信じては貰えていない。
Tくんは転校後もしばらく友達でいた。だが平成2年の台風18号、その時のがけ崩れにTくんのお父さんが巻き込まれ、亡くなる。
その事が原因なのか、成長に伴ってのことか、今もわからないが、転校後も友人でいれた時期は少なかった。
あの時、私がRさんの誘いを優先していたら、どうなっていたのか。
そんな風に今でも考える。
Rさんは、もしかすると俺のことが好きだったか、なにか気になっていたのかもしれない。
当事の俺にはわからかった。
人間関係についてよくわかっていない俺には、仮にその時中学や高校生であっても、そんな可能性は考えつきもしなかったろう。
大人になってから児童心理について書かれたものによれば、幼少期の女子はしばしば好意を持つ相手をからかったりすることがあると書いてあった。
Rさんはきっと私のことが嫌いだったわけではないのだ。何かが気になる男子にちょっかいをだしてしまっただけなのだろう。
それを母が知っていたら?
もし母が教養をもっともっていたら?
俺の人生はきっと違うものになっていたのだろう。
並行宇宙の俺は、違う人生を歩めているのか?
わからない。
だが、今の人生が俺にとって唯一絶対の人生であり、それは、どんなに酷いものあれ、俺の人生なのだ。
大人たちが俺のことを登校拒否児と表現していたのを聞いていた。俺は、登校拒否というのか、そう思った。
だから「ぼくは登校拒否です」とよく意味もわからないままに、しょっちゅう母が連れだした旅先で、出会う大人の人々にはそう自分で言っていた。
(中編に続く)