なぜ小学校を5回も転校したのか〜前編〜からの続き
2年生〜「登校拒否」が始まる
(文・葉)
俺は転校する前から情緒不安定になっていた。基本的に学校に行くのが無理になっており、なんとか保健室などに登校するのを勧められていた。
それで保健室に直行直帰で行って、給食もそこで食べ、ひたすら暇な時間は絵を書いたりしていた。
まるで囲ったパチモノ臭いドラえもんをクレヨンで書いたりして養護教諭に「それはなに」と聞かれ「これはドラえもんです」と答え「まぁよくかけてるわね」「(よくかけてるとは思ってない)そうですか」などとやり取りをしながら落書きを書いたりしていたが、ほとんど家でファミコンをやっていることが多かったかと思う。
当時は不登校という言葉も概念もまだなく、登校拒否になった、とか登校拒否児と呼称されていた。
登校拒否というのは随分大人からの上から目線の言い方だと大人になった俺も思う。
事件の後はとりあえず近隣ではあるけど、別の学区の学校に転校することになった。
実はありがちだが、そちらの学校の方が学区割りの都合で前の学校だっただけで、自宅からは近かったりして、それは楽ではあった。
母が転校の手続きを取ってくれたのが秋頃だった気がする。
だが初登校こそするが、その後も学校に登校はできず、2年生になってから転校した形になった。
先の事件がショックだったのか、学校に行かない方が楽だという気持ちがあったのか、全然登校はできなかった。
そのまま学校にいかれず2年生か終わる。
本を読んでいるかゲームをしているか母に連れられてどこか遠いところに電車でいって貧乏な泊まれる場所に何泊かするとかしているか、という生活だった。
その2年生の最中、母が病気で入院するからという理由で、遠くの病院にいくから、ということで早稲田の方にあった、廃校の校舎を使った施設に2週間だけ預かられることになった。
そこは穏当な場所で、いじめみたいたこともなかったと思うが、俺は実は親に対して甘えが強く、寂しくて泣いていることが多かった。
周りの子供たちもみんな陽気にしていたので、なんとかいることができた。おもちゃで遊んだり、夜は反省会があったりしたが、短期間の期間が定められていたために、なんとか耐えられたのだと思う。
そのたかだか2週間のことを大人になってからもぼんやりとは覚えている。
3年生、健康自然学園という名の収容所
母は児童相談所に相談にいってしょっちゅう相談をしているようだった。
俺が当時居住していた東京のその区は、親元を離れて行く地方の全寮型の学校を持っていた。
虚弱児、肥満児、喘息児など健康的な生活をしなければならない子が親元を離れて行く学校で、健康自然学園などという唾棄したくなるようなネーミングセンスの学校だった気がする。
全体で85人くらいが在校している感じだったか。一学年が五人から十人くらいしかいませんでしたので、人間関係的にはやりやすかったが、なにしろ全寮制だから思うようにはならない
その学園は、小学三年生から小学六年生までが対象だったので、三年生に進級する頃からそこに行くことになる。海の近くの急な坂を登った先にひっそりとある建物がその『学園』だった。
生徒間で自分の親の話をしないこと、などの規則があった気がする。
そしてとにかく運動の時間が多かった。
朝は乾布摩擦を全員でやる。一週間の間には2kmマラソンを何度かやるとか、時には15kmの持久走をするとか。もう運動音痴の俺はそういうことが嫌で嫌で仕方なかった。
特にいじめられたりはしていなかったし、トラブル自体に巻き込まれたこともあまりない。
ただ、昭和の時代で非常に全体的で規律も厳しく、それもきつかった。
普段の生活は二階でやっていて、授業をやる時は三階に行き、それが「登校」。
たしかに自然は多かったし、裏山では水晶が取れるという噂で、校外学習のような時間に丘の土を掘り返すと小さい水晶の結晶がとれたりもした。
たまに脱走をやらかそうとするやつがいて、そうなるとみんな「脱走だ!」と気色ばんでいた。
夏の終わりは雷が海に落ちるさまがよく見えた。
この学校は10ヶ月間滞在することになった。長期休みの時は親元に戻り「帰京」と呼ばれてた。
その休みの時に親に学園から帰りたいとか話したり、俺は必死に拒絶するが「もう少し、せめて3年生のあいだは居てみては」などと懇願されるように説得され、一度は我慢した。
大人になってから思えばゆるい部類に入るが、当時の俺は親元を離れた施設生活は嫌だった。そこで11月頃に子供の親達が集合するイベントのようなものがあり、そこでどうしても帰りたいと伝えた。その時は父も来ていた。
それで校長にもせめてもうすこしで三年生が終わるからそれまでは居てはどうか、と言われたりもしたが、何故あえて嫌なものを直ぐに諦めてはいけないのか、などという観念もなく、東京へと戻った。
そしてそのまま親元の四畳半の母子家庭用のアパートで三年生は終わろうとしていた。
健康学園に嫌な思い出ばかりあるわけではない。楽しいこともあったはずだと大人になってからは思う。
寝る時は男女別の部屋に別れるのだが、ある夜にSという4年生の男子が、男性器を口に含むのをやりあおうなどといってきた。
児童養護施設などでは性的な問題が発生することはままあることと聞くが、それらがあまり公になることはない。
ただ、当時このこと自体はさほど嫌だった訳では無い。たんに子供のモノは清潔でないからしょっぱいし臭いというだけだし、オーガズムに達するまでやれというものでもなかった。
抑圧されて育っている子どもが自慰に耽けることがある、というのもよく児童心理などの本に記述されているのを見ることが出来る。
四年生になってそれまで住んでいた区から多摩地区に引越しすることになる。
都営住宅に入居できることになったためだ。
それでも地元の学校には、顔を出しては見るものの、数ヶ月しか行かれなかった。
東京の学校の雰囲気は、どうにも教師の情がたらない。また生徒もあまりおおらかでは無い者が目立つ傾向があって、自分には合っていなかった。
特殊学級に入るほど知的障害がある訳でもないが、広汎性発達障害と大人になってから診断されてわかったことで、結果論だが、コミュニケーションのやり方を自然に習得できなかった自分がいる。
里子にだされそうに〜キリスト教との出会い〜
当時親が相談していた児童相談所の担当職員の判断だったと親が言っていたが、クリスチャンのカトリックの子供が作れないご夫妻の元に里子にだされそうになったことがあった。(自分にはただなんか他人の家に一泊すると言われただけで里子に出されそうになっているとは当時は認識していなかった)
一晩そのご夫妻のところで泊まったりした。
俺は「神が天地創造したなどということを文字通りに信じることはできない」と様々な宇宙論を持ち出し、「でも学説は学説だから」といわれたりもした。(この人たちはいい人達なのにこまらせてはならないな)と思って、でも聖書は物語としては面白いよね!と同調した。
その時は聖書のビデオを見せてもらったりもした。面白くもなんともないのだが興味深いなと思って見てはいた。
その時にそのご夫妻から新改訳聖書を貰って、それは今でも俺の手元にある。
30過ぎてから自分がキリスト教を信じることになるとその時は思いもしていなかったが、それはまた別の話だし、きっとひきポスで語ることではないだろう。
後半に続く