インタビュー・文・写真 ぼそっと池井多
・・・「第1回」からのつづき
前回はこちら:
「少年院」時代
ぼそっと池井多 そのまま中学校時代を迎えるのですか。
マリコ いいえ。中学校へいくと、
「日本人になろうとなんて、しなくていいんだな。
むしろみんなとちがっていいんだな」
と少しずつ思うようになりました。
良いか悪いかは別として、同じハーフでも、ヨーロッパ系とのミックスだと、日本人社会ではチヤホヤされがちです。
そのため、中学校になってからは、母親が外国人だからといじめられることは、もうなくなりました。
でも、別の問題が起こってきました。
まず中学生になると、身長がぐっと伸びるでしょう。日本の学校は、すぐ生徒を身長順にならばせたがるじゃないですか。
私は身長が高かったので、いつも一番後ろに並ばされました。当時は、何となく嫌だなと感じていましたが、このように並ぶのが当然だと思っていました。
今振り返ると背の順で並ばせるのも身体的な差別だと思いますし、そもそも子供たちを軍隊のように整列させることも私には意味が不明です。
私が行った中学校はとくに厳しい所でした。だから私は、中学校時代のことを「少年院時代」って呼んでます。
身体的にも、私には日本が合わなくなってきました。まず大きさの合う服がない。それから靴のサイズがない。25.5の女の子の靴なんてどこにも売っていないのです。
そして、何よりもマインドが日本に合わなくなっていきました。オランダに里帰りするたびに、オランダではのびのび生きられて、楽しくて仕方がありませんでした。
日本の内に生きながら外から眺める
ぼそっと池井多 中学生時代が「少年院時代」だとすると、高校時代は「刑務所時代」ですか。
マリコ 自由を売りにしていた私立の高校へ進んだのですが、そのころにはすでに、日本でリアルに見ている毎日の情景が、まるでテレビで遠い国についての報道を観ているような感じに見ていました。
「へえ、日本ってこんな国なんだ」
「いまだにこんな国があるんだ」
とテレビを通して、自分が住んでいる国が見えていたのです。
中学生のときは、まだ日本という巨大な組織の内側にいて抑圧されていたわけですけど、高校になると、もう「外の人」でしたね。
ところが、それを学校の先生は「反抗してる」というふうに解釈したのでした。
ぼそっと池井多 そこをもっと詳しくいうと、どういうことでしょう。
マリコ 日本の学校では、
「先生は神聖にして侵すべからず」
「先生のいうことはすべて正しい」
という雰囲気があるじゃないですか。
私はいつも、
「なんで、そんなことしなくちゃいけなんですか。
そんなことやる意味が分からないです」
と言っていました。
すると、不良という烙印が学校から捺され、「日本社会でやっていけない者」という、まるでこちらが劣っているかのような評価を下されるのです。
社会という集団は個から成り立っているのに、集団のために個を犠牲にする日本の社会はナンセンスだし、人間的にも愛がない。そんな国は生き苦しい、と感じ始めていました。
私の両親は旅行が好きだったので、私も高校に入るころまでには、すでにいろいろな国を見てきて知っていました。だから、日本の学校の先生が「外国では」「欧米では」というとき、
「外国、外国っていうけれど、
いったいどこの国のことを先生は言っているのかしら。
しかも情報がまちがっているし」
と思っていました。
高校の社会科の先生が
「日本人が茶髪にするのは変だ。だって欧米の人は髪を染めないのだから」
と平然とクラスの前で話していたのを今でも鮮明に覚えています。
日本社会でやっていけない者
ぼそっと池井多 そのころまでには、マリコさんはオランダがもうすっかり一つの故郷として心に根ついていたのですね。
マリコ オランダは、母の里帰りにくっついて、幼い時から何度も訪れていましたし、それに加えて、日本が異国のように見えている自分の感覚を確かめるために、16歳のときに1年間オランダに留学したのです。
それで、「ああ、やっぱり」と確認して日本に戻ってきて、高校を3年間やりましたが、卒業したらオランダに移住することにしました。
留学の1年があったので、高校を卒業するのは19歳でした。
進路相談のときに、担任の先生が言うのです。
「私はあなたを心配している。あなたは日本の社会ではやっていけないと思う」
と。
私は鼻白んで、
「はあ、大丈夫です。私は日本の社会などでやっていくつもりはないので。大学からオランダに移住します」
といったら、先生はたちまちカチンと来ていました。
いま考えると、
「あの先生の言葉はひどいな」
と思います。
教育者が、自分の教えている子どもに対して、
「あなたはこの社会に合わない」
という。逆に「その社会がおかしいのではないか」というのが
本来の考え方だと思うんですが。
もし今、あのときの学校の先生に会ったら、そう言ってやりたいです。
二人の教師にトイレへ連れこまれ…
マリコ 今でもときどき高校の教室の悪夢が出てきます。高校はつまらなかったです。担任の先生とのバトルもありました。
ぼそっと池井多 たとえば、どんなバトルですか。思い出すのも、いやかもしれませんけど…
マリコ たとえば、髪の毛の色をめぐるバトルですね。推定30代後半の女性だった担任の先生が、かねがね私に「髪の毛を黒くしなさい」と言っていました。私はその必要はないと思ったので従いませんでした。
やがて卒業という時に、その先生から、
「卒業式の日、あなたが自分で髪の毛を黒くしないんだったら、私がスプレーであなたの髪を黒く染めてやる」
という宣戦布告を受けました。
卒業式の日には、保護者がたくさん来校するから、「生徒の髪の毛は黒」と決めたルールを守らせている、というポーズを取らないと、学校が困るからでしょう。
私立の学校はビジネスでやっているから、評判が落ちると儲からないので、困るのだと思います。
それで、犯罪予告のとおり、卒業式の日に、私は彼女に髪の毛を黒く染められました。それまで私が彼女のいうことを聞いてこなかったから、卒業前に私という生徒へのせめてもの復讐を図ったのでしょう。
まず私は彼女よりも圧倒的に背が高かったので、彼女はもう一人同僚の先生を連れてきました。私があばれたら、体格的にかなわないと恐れたのでしょうね。
そして、二人にトイレへ連れ込まれました。
そこであばれても恥ずかしいと思ったので、私はあばれませんでした。私は何も間違ったことをしていないという信念があったし、卒業証書はもうすぐもらえるので、もうその教師たちの好きなようにさせておこうと思いました。
ただ、いちおうその二人には、
「あなたたち二人がやろうとしていることは人権侵害ですよ」
と告知をしました。
でも、彼女らはそれに対して「フッ」と笑うんですよね。
この人間以下の者たちには、もう二度と会うことはないだろう、と思いながら、スプレーさせておきました。
オランダではありえないことです。虐待です。
日本のいけない所は、教育者や親が
「あなたのためを思ってやっているのよ」
といって、悪を行なう点です。
人権や人格をまったく無視してやっている。でなければ、私の髪の毛を黒くするということはありえない。なのに、そういうことが日本では通らない。
「校則は校則だから」と言って。
「この学校は自由だけど、自由のなかにも規律はある」
などと言って。
何のためにルールがあるのでしょう。ルールというのは、人間が人間らしくみんな共存していけるようにあるものではないのでしょうか。
人権を侵害して押しつけているルールだったら、それはルールの方を変えるべきなのです。
どうしても日本人になれない
ぼそっと池井多 マリコさんのそういうマインドは、どこから来たのでしょう。
マリコ それは私がマイノリティだからじゃないですか。小学生の時にがんばって完璧な日本人になろうとしたけど、なれないんだもん。いくらがんばっても。
だから、これは「完璧な日本人になろう」というマインドがまちがっていたんだ、と考えるようになったのです。
日本にいるとどうしても日本のしきたりに従わなくてはならない。でも、この世界には別の価値体系があるということを知っていたから、
「この国の価値体系に従わなくてもいい。べつにここで生きていかなくてもいい」
と考えることができたのです。
私は、まったく日本での将来像が築けませんでした。就職のときに、
ダっサいスーツを着て集団面接するなんて、自分にはとうていできないと思ったのです。
私にはオランダという逃げ道があった
ぼそっと池井多 オランダでも、不登校は多いですか。
マリコ オランダでは、基本教育の学校へ行くことが憲法で義務として定められていて、その代わり、行く学校は各人が自由に選べる権利が保障されています。
学校へ行きたくなくなったら、行く学校を自分で変えればよいので、日本でいう不登校のようなことは起こりません。
ぼそっと池井多 へえ、そうなんですか。それでは、マリコさんにとって日本の学校はどんなところですか。
マリコ 私は日本の学校へ行けてよかったと思っています。
友達もいたし、給食もおいしかった。そして、何よりもああいうひどい貴重な体験ができたので、人生の勉強になりました。
ぼそっと池井多 じっさいオランダへ移住して、どうでしたか。
マリコ 日本では、自分を抑圧する体制に抵抗することにエネルギーを費やしてきました。そういう抵抗が、私のアイデンティティにもなっていました。
ところが、オランダに移住したとたん、抵抗する対象がなくなったのです。
「これをやりなさい」
とは、誰も何もいわない。
自分の人生の責任を、すべて自分で持たなくてはならない。
そこで私の自由が完全に発揮できるようになったのですが、そこで、
「じゃあ、あなたは何をしたいの?」
と問いかけられる感じがしてきました。
そして、「わかんない」と。
そこから自分探しがはじまり、現在に到っています。
「自分らしく生きるとはどういうことか」
ということを現在進行形で探っています。
でも、それはそうあるべきだとも思います。人は、課題を一つ克服したら、また新しい課題にぶつかるものではないでしょうか。
ぼそっと池井多 ご一家の中で、オランダに移住したのはマリコさんだけですか。
マリコ いいえ。今では両親、妹を含め、一家全員がオランダです。
両親は、もう定年退職しているのですが、福島の原発事故があってから、母親が、
「もう日本には住みたくない」
といって、オランダに帰りました。
でも、うちの父は年に3回ぐらい日本に帰ってきます。ごはんがおいしいとか、サービスがいいとかという理由で。でも、もともとそこまで日本に執着のない人ですから。日本の社会は好きじゃないみたいです。
ひきこもりはどう見える
ぼそっと池井多 今回、ウイ監督が日本のひきこもりを取材するのに同行して、日本に帰ってきたわけですが、通訳という立場から、私たち日本のひきこもりはどう見えましたか。
マリコ 取材の手伝いをして、すごくひきこもりの気持ちがわかると思いました。私には「どうせオランダへ行けばいい」という逃げ道があったし、両親の理解もあったから、日本での生活に耐えられましたが、いま日本でひきこもっている人たちは、そういうものがない。
日本での生活が人生のすべてになってしまうから、ひきこもることになるのでしょう。
この取材を通して、ひきこもりの当事者である彼らのことを同士のように感じるようになりました。
ぼそっと池井多 どうもありがとうございました。(了)
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