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【ひきこもりと地方】「あの時は、もう大泣きしました」 悲嘆と再生の物語 ― 岩手県陸前高田市 ひきこもりの父親、佐々木善仁さんインタビュー第1回

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岩手・陸前高田の旧市街地はまだ嵩上げ工事の最中であった。
2019年3月11日 写真:ぼそっと池井多

インタビュー・構成・文 ぼそっと池井多

 

序文、または2019年11月16日

日本列島各地に大きな被害をもたらした台風19号によって、岩手県宮古市にある木造2階建てのひきこもり・不登校のための居場所、NPO法人「みやこ自立サポートセンター」は壊滅的な打撃を受けた、という新聞記事(*1)を、私はなにげなく眺めていた。

大量に押し寄せた土砂に壁は突き破られ、玄関は崩壊し、相談室の床は抜けてしまったという。この施設を利用していた10代から40代までのひきこもり・不登校の当事者たちは行き所をなくした。

そんな中、職員や利用者たちとスコップをふるい、埋め尽くした土砂の除去作業に汗を流している佐々木善仁さん(69)の姿が写真にあった。

「一日も早く、ひきこもりなどで悩む子供たちが安心できる場所を戻したい。それが自分の義務」

と記者に語っている。

「この人らしい」

私は内心うなった。

なぜ、そのことを「自分の義務」などと考えるのか、それは彼の苦渋に満ちた人生という文脈から眺めてみないとわからないのではないか。

*1. "引きこもりの息子、妻の説得応じず津波が ざんげの思い"
朝日新聞デジタル 2019年11月16日
https://digital.asahi.com/articles/ASMC63S6BMC6UJUB005.html

digital.asahi.com

佐々木さんは、東日本大震災で次男と妻を亡くしている。次男の仁也さん(当時28)はひきこもりで、津波が来ても避難しなかったのだ。

じつは私は、この佐々木善仁さんに、今年3月、長時間にわたってインタビューをさせていただき、そのうち一部は、8月に発売した冊子版HIKIPOS 第6号「ひきこもりと父」に掲載した。

しかし、ほんらい佐々木さんから訥々(とつとつ)と語られる言葉は、「一部」に縮約できる性格の内容ではなかった。そこには、一人のひきこもり青年がどのように生き、亡くなったのか、そして、周囲の大人たちは何を願い、どう動いたのか、それらのことがまるで大河のように連綿と語られていたからである。

すべてを聴くことによって、ようやく浮かび上がる像がある。果ては、住んでいる陸前高田市から120キロも離れた宮古市で、けっして若いとはいえない彼が、ひきこもりの居場所のためにスコップをふるっている理由も、そこに浮かび上がってくるのであった。

朝日新聞の記事を読んで、私は思いを新たにした。

「やはり、あのインタビューは全文を発表させていただこう。長いし、重く苦しい内容だから、ごく一握りの読者にしか届かないかもしれないが、それでいい」

と。

今回より、そのシリーズを始めさせていただく次第である。

 

 


 

第 1 章

 

「転校したら、学校へ行かないよ」

佐々木善仁 仁也が遺体で見つかったときには、すぐにわかりました。

震災が来るまで、もう3年ぐらい、まったく外に出ない、ひきこもった生活をしていたものですから、肌も真っ白でしたし、髪も伸び放題だったので。 その時は、もう大泣きしました。


ぼそっと池井多 仁也さんのひきこもりは、お父さまからご覧になって、そもそもどのように始まったのでしょうか。


佐々木 私は小学校の教員でしたから、岩手県内のあちこちへ転勤がありました。私はもともと、ここ陸前高田の出身なのですが、長男が中学校3年、次男の仁也が中学校1年のときに、山田町の学校に転勤になりました。最初の一年は、私が単身赴任して、山田町に下宿していました。

 

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関係地図

ぼそっと 佐々木さんが家の中にいないという、ご家族の状態になったわけですね。


佐々木 ええ。しかし、そのうちに、そんな家の中でおふくろと妻の間の…、いわゆる嫁姑問題が起きてきてうまく行かなくなり、妻が「家を出たい」と言ったものですから、長男が高校へ進学するのを機に、私たち四人で釜石に引っ越すことを考えました。長男も、陸前高田ではなく、釜石の高校を受験させたのです。


ところがその時、次男の仁也が、
「転校するのはいやだ。おれは陸前高田に残りたい」
と言ったのですね。


すでに一年間、中学校ですごして、すっかり馴染んでいたのでしょう。そこで私は、仁也だけ陸前高田に置いていくことを考えました。いっしょに住んでいた私の父母に、
「仁也だけここに置かせてくれ」
と頼んだのですが、両親は、
「中学校の多感な時期だから、年寄りの手には余る。連れていってくれ」
と言われました。

 

私は父親を説得するには至らず、仁也も釜石のマンションへ連れていくことにしました。

そのとき仁也は、
「転校したら、おれはもう学校に行かないよ」
と宣言しました。
そして、釜石へ引っ越すと、仁也は宣言どおり学校に行かなくなったのです。


久慈に住んでいた妻の母がやってきて、妻と仁也と三人で、釜石の中学校へ転校手続きには行ったようなのですが、仁也が学校へ行ったのはその時だけで、それから二年間、通常授業も、入学式も卒業式も、いっさい行かなくなりました。

 

学校へ行かなくても学生服は着た

ぼそっと池井多 釜石市では、どんな学校生活が仁也君を待っているはずでしたか。

佐々木善仁 釜石第二中学校で、仁也の担任は女の先生でした。四月、五月はうちに来て、
「本人に会わせてほしい」
ということをおっしゃったのですが、仁也が「会わない」と言うので、そのままお帰りいただきました。

かわりに私が、妻から聞いた仁也の生活を、話題的にかいつまんで、毎月一回、釜石二中の校長先生にお話しするようになりました。


ぼそっと池井多 学校へ行かなくなった仁也君は、お父さまからご覧になって、どんな生活を送っていましたか。

佐々木善仁 そのころの仁也は、家にひきこもってゲームばかりやっていたのですが、ゲームを買いに行く時だけは自分で出かけていきました。

そのときは、釜石二中のボタンをつけた学生服で出かけていったのです。日中に子どもが町中をブラブラしていると、怪しまれて声をかけられる、といった心配をしたからかもしれませんが、学校へは行かなくても学生服は着た、ということが、何かを語っているように思います。


ぼそっと なるほど、仁也君は学生服を見るのも嫌なほど、学校が嫌いだったわけではないのかもしれませんね。

私が23歳でひきこもりになった時、会社に行けなくなったのですが、そのときは会社に来ていくスーツに袖を通すのも嫌で嫌でたまりませんでしたから。

 

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列車の窓から見る雨の釜石市 2019年3月11日撮影 
写真・ぼそっと池井多

校舎の脇にあったテニスコート

佐々木 仁也はテニスが好きで得意でした。陸前高田の中学校では、一年生ですでに準レギュラーになっていました。

「転校したくない」

といった裏には、釜石ではテニス部にも二年生から入るわけですから、そのあたりがどうなるかわからない、という心配もあったのかもしれません。


釜石へ引っ越してから、仁也は学校へは行かないのですが、

「テニスだけはしたい」

と言いました。

「中学校のテニスコートが空いた時に使わせてほしい」

と言うので、そのように学校に頼んで使わせてもらいました。


うちまで訪ねてきてくれた女性の担任の先生は、一回も仁也と会っていないわけですが、テニスコートは仁也が通うはずだった校舎のすぐ脇にあったので、
「もしよかったら、カーテン越しに息子のことを見てやってほしい」
とお願いしました。
このようにして、担任の先生はときどき仁也のことは見ていたようです。


その年、2005(平成17)年の6月ごろ、釜石で市民テニス大会というのがあり、仁也も出場しました。初戦の対戦相手は、釜石の女子高生でした。仁也は、
「なんだ。これなら勝てる」
と思って試合に臨んだようでしたが、試合が進むにつれてだんだん負けそうになってきました。

そうしたら、仁也はとちゅうで自分から試合放棄してしまったのです。
それをきっかけに、仁也はもういっさいテニスもやらなくなりました。

そして、家からも出なくなったのです。

 

家の中で荒れる


ぼそっと池井多 ひきこもって、仁也君はお父さまからごらんになって、どうなりましたか。

佐々木善仁 思春期で、いちばん動きたくてさまざまな思いが起こる年代に、ずっと家にいるものだから、仁也は家の中の物や家具や襖などに当たって、ボコボコにするようになりました。母親にも、怪我にならない程度の家庭内暴力をふるっていたようです。

私は朝早くから夜遅くまで学校に勤めておりましたし、長男は高校へ通っているので、仁也といっしょに家の中にいるのは妻だけだった、ということもあります。


当時、私が勤めていた山田町の小学校へは、釜石のマンションから車で1時間ぐらいかかりました。

私は朝6時ごろには朝食を済ませて家を出てしまいます。教頭という、教員の中の管理職になったばかりでしたので、帰るのは毎日、すべてを見届けてから、校長よりも後、学校で最後でした。

自宅マンションに帰ってくるのは毎晩、早くても8時すぎ、遅ければ10時すぎでした。私は酒も煙草もやりません。


そのような時間なので、帰ってくれば、もう息子と顔を合わせることはありません。息子のひきこもっている状況を妻から聞くのですが、私の方から無理やり息子が閉じていた襖を開けて、息子に話しにいくことはありませんでした。


妻を通して、いちおう息子の話は聞いているのですが、あまり子どもの気持ちとか、妻の気持ちも、考えている余裕はありませんでした。学校先では毎日、じつにたくさんのことが起こっていて、それらで私の頭の中はつねに一杯だったからです。


すると妻は、私が頼りにならないと思ったのか、釜石にあった不登校児の親の会に毎月一回、通うようになりました。

息子が学校に行かなくなってから、半年ぐらい経ったころのことです。そして、私にも

「いっしょに行こう」

と誘うものですから、私も何回か行ってみたのですが、すぐに私はそこが居づらくなってしまいました。

 

教育関係者ゆえの苦しみ

ぼそっと池井多 親の会で、親御さんである佐々木さんが居づらくなってしまわれた、ということですね。それはまた、なぜなのでしょう。


佐々木善仁 なぜかというと、不登校児をかかえている親御さんたちは、ほとんどが学校の対応のまずさに不満を持っていて、その会に出てくる私が教員だということで、私に不満の矛先を向けてくる気配があったからです。それは、私が勝手にそう感じてしまったのかもしれませんけれど。


私は「学校には学校の事情がある」ということをよく知っていますので、思わず親御さんたちのご意見に反論したくなってしまうこともあり、私のそんな様子を親御さんたちが逆に察知して、お互いにそういう関係になってしまったのかもしれません。


ともかく、これではその会は、私にとっては救いになるどころか、針の筵(むしろ)のようになりました。
「これじゃあ、ダメだな」
と思い、私はその会にはもう通わないことにしました。


妻は相変わらず毎月通っていたので、私はもっぱら運転手として、妻の送り迎えだけしていました。その習慣が、のちに私が教頭から校長になってからも続いていました。


妻は、その会へ行くようになってから、少し落ち着いたように思います。息子に向かう合うときも、以前ほどカッカとしないで、余裕をもって対応できるようになっていきました。

 

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佐々木善仁さん 津波に流された自宅のあった場所で
写真・ぼそっと池井多


ぼそっと池井多 なるほど、一般家庭の子どもが不登校やひきこもりになった時と比べて、学校の先生の子どもがそうなった時には、親御さんの側にそういう独特なご苦労があるのですね。親御さんとしてその会に参加しているのに、他の親御さんからは学校の代表のように勝手に見られてしまうようなご苦労が。


いっぽうでは、学校の先生は、学校の事情をいろいろご存じであるために、一般家庭の親御さんよりも、自分の子どもが通う学校の先生方と、より良いコミュニケーションが図れる場合があるのではないか、などと想像しますが、いかがでしょうか。

佐々木善仁 それは一概には言えません。不登校に関する先生方の見解というものは、じつに千差万別で、教員同士だから価値観が同じというわけではないのです。


いまは「不登校は誰にでも起こる」という認識が一般的になってきましたけれども、当時は「不登校は家庭のしつけが悪いために起こる」と考える先生方が多く居ました。原因を、環境ではなく個人に帰する考え方が主流だったためです。
もっとも、仁也が通っていた釜石二中の校長先生は、そのようには考えなかったようですけれども。


ぼそっと池井多 なるほど。学校の先生方のあいだにも、いろいろあるわけですね。
佐々木さんご自身は、山田町の小学校で教頭先生をお務めになり、そのまま山田町で校長になられたのですか。


佐々木 いいえ。基本的には、教頭は三年で異動するのですが、私は息子のこともあったので、もう一年延ばしてもらったのです。一年が単身赴任、家族といっしょに暮らしてから三年。それから大船渡の学校へ移って、そこでまた三年間、教頭を務めました。


そのころは、すでに長男は大学へ行っていたので、家ではひきこもっている次男と、妻の三人で暮らしていたのですが、仁也はもういっさい勉強道具に手を触れることもない生活になっていたので、
「もう仁也は、受験をして進学することはできないだろう。これは何か手に職をつけさせておいた方がよい」
と考えて、釜石の高等職業訓練学校というところのチラシを取り寄せてみました。


ところが仁也、は中学校3年生の12月から
「おれは高校へ行きたい」
と言い始めたのです。
そこで、そのことを釜石二中の校長先生にお話ししたところ、校長先生は、
「一回も学校に来ていないので、普通高校は無理だよ。実業高校、…商業とか農業とかそういう学校か、あるいは私立の学校しかないよ」
とおっしゃいました。


それでも仁也は「普通高校へ行きたい」というので、
「入試に臨むのであれば、せめて学校へ来てほしい」
と言われました。
それを伝えたところ、息子は
「教室は入りたくない。校長室ならばいい」
というものですから、けっきょく冬休み、他の子どもたちが登校してこない間、一週間ほど午前中だけ校長室に通っていました。
といっても、私はそれほど関与しておらず、これらのことはすべて妻が進めてくれたのですが。

 

・・・悲嘆と再生の物語 第2回へつづく

 

インタビュワー >
ぼそっと池井多 :中高年のひきこもり当事者。まだ「ひきこもり」という語が社会に存在しなかった1980年代からひきこもり始め、以後ひきこもりの形態を変えながら断続的に30余年ひきこもっている。当事者の生の声を当事者たちの手で社会へ発信する「VOSOT(ぼそっとプロジェクト)主宰。「ひ老会」「ひきこもり親子 公開対論」などを主催。
facebookvosot.ikeida
twitter:  @vosot_just

 

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