当事者の喜久井ヤシンさんは、ひきこもりや不登校になった「原因」がはっきりせず、人にどう説明するかをずっと悩んできました。しかし最近になってようやく「原因」がわかるようになったといいます。今回は、特に親御さんと支援者に聞いてもらいたい「原因」論をお届けします。
(文・写真 喜久井ヤシン)
一滴の水で容器が溢れるときには、いつもその一滴以上のものが流れ出る
(ジンメル)
学校に行かなくなった原因や、引きこもるようになった原因として、「いじめ」とか、「就職での失敗」とか、一つの理由が大きく語られることがある。
けれど私自身が「不登校」や「ひきこもり」を経験し、考えてきたなかで、そのようなわかりやすい説明は、どうにもあてはまらないように感じる。
これを読む人は、ほんの十五秒ほどだけでもいいので考えてほしい。
「学校に行った理由」を、一つの言葉で説明できるだろうか。
そして「働いている理由」を、一つだけの言葉にまとめられるだろうか。
・・・・・・。
さまざまな要因はあるだろう。
けれどたとえば、「学校に行った理由」が「友達がいたから」だったとする。
友達によって学校に行きやすかった、ということはあるかもしれない。けれど、友達がいなければ、まったく学校に行かなかっただろうか。入学式のときは知らない人ばかりだったはずだけれど、それでも学校に行ったのはなぜだったのだろう。
また、「会社に行く理由」が「お金のため」だったとする。
それだけが理由なら、内容がきつくても賃金の良い職を選んだとか、賃上げの交渉をしているとか、お金を必死に求めている人なのだろうか。もしも大金持ちになったなら、仕事はまったくしないということになるが、お金以外に働くことの意味はないのだろうか。
おそらく、それらの理由=原因は、多くの人を深く納得させるものにはならないように思う。
人の状態は複雑で、多くの物事から成りたっている。
にもかかわらず、「ひきこもり」や「不登校」には、一言で説明できる「原因」があるように思われてしまっている。
望ましくない状態にさせる要因は、「大きな悪いことが一つあった」ことだとは限らない。
さらに言うなら、「小さな悪いことがたくさんあった」ということでもなく、「悪いこと」でさえない場合がある。
今回は、私にとっての「原因」がどのようなものであるかを説明しようと思う。
遠回りをして語る必要がある。大きな事件を引き合いに出すと、1986年、NASAのスペースシャトル「チャレンジャー号」が、宇宙への発射後に爆発、空中分解を起こすという事故があった。乗組員全員が死亡し、その後の宇宙計画に影響を与えた惨事だ。事故の調査委員会は、当初エンジニアのミスや、マネジメントの怠慢だと発表した。しかし関係者が長い時間をかけて要因を調べていくと、それだけでは説明できないことがわかった。
ある学者は、この事故において『NASAでは、批判されるような意思決定は基本的には行われなかった。むしろ、一見無害な意思決定が連続して行われ、それらが積み重なることで破滅的な結果を招いたのだ』という。
点検時のわずかな見落としや、計器のささいな誤作動、連絡時のちょっとした言い落としなど、取るに足らない小さなことがいくつもあり、それが重大な結果につながってしまったという。
誰かの判断ミスや、業務上の怠慢があったのではない。学者によるとこの事故は、『NASAの関係者が本来為すべきことを為したゆえに発生した』ものだったという。
社会学者のチャールズ・ペローは、このような例を「〈通常〉の事故(ノーマル・アクシデント)」といっている。
「〈通常〉の事故」は、『通常の稼働の範囲内で起こることが予測される事故』という意味だ。
悪い結果を生み出したとしても、特定の誰かや何かにトラブルがあったとは限らない。人やシステムの〈通常〉の動きの範囲内での、ささいな事例の重なりが、重大な結果を引き起こしてしまうことがあるという。
ペローは、『現代のシステムは数千数万もの要素によって成り立っており、そのすべてが予期しえない方法で影響しあっている』という。
NASAの場合、備品管理や点検時などにおいて、「容認しえるリスク」の項目を作成していた。しかしその分量は本6冊分にのぼるもので、すべてを完璧にこなすことは不可能だ。
大きな惨事において、特定の原因をあげられないことは多いらしい。
昨年の、インドネシアでのボーイング機の墜落事故も同様だった。同国の安全委員会の調査結果は、事故は機体システムの欠陥や整備不良など、「9つの要因」が重なって起きたと結論づけている。その内の一つでも生じていなかったなら、事件は防げたかもしれない。
事故の遺族にとっては、はっきりした原因がないというのは辛いだろう。ハリウッド映画のように、主人公がわかりやすい悪者を倒してハッピーエンド、というのであれば、まだ胸のすく思いがする。
だが、現実の事件の多くはそのように片付かない。
「ひきこもり」や「不登校」の原因でも、目に見える「犯人」がいれば、気の持ち方が変わりうる。
しかし私の実感からすると、自分の「ひきこもり」も「不登校」も、そのようなものではなかった。
私は教師によって傷つけられたことがあるが、それは「生徒に厳しく接しよう」という、教師としての〈通常〉の業務をしていたといいえる。私は親から傷つく言葉を言われたことがあるが、それは「ひきこもり」の子を持つ親として、「子どもを『ふつう』にさせよう」とする〈通常〉の親心であったといいえる。
さらにいうなら、子どもをしつけ、良い社会人にしようとする教師や親は、教育のシステムからの影響を受けている。そのようなシステムは、歴史的な教育のあり方としては、〈通常〉の範囲内だといえてしまう。
しかしそのような〈通常〉の積み重ねが、結果として私をひどくおびやかした。
私は〈通常〉の教育のあり方や、〈通常〉の接し方をした教師、〈通常〉の考え方をした親によって、ひどく苦しんできた。
そのため特定の誰かを犯人にする責め方が、私にはできない。
細かくいうなら、私が望ましくない結果になった原因は、「いくつもの悪い物事が、複雑にからみあった」せいでもなかった。
「複雑」でもなく、「からみあった」ものでもない。
「〈通常〉の出来事が、たくさん、バラバラにあった」うえで、それが連続し、苦しい状態を引き起こした。
私にとっての「原因」は、ここまできてようやく、自分にとって納得のいくものになる。
しかしこの長い説明は伝わりづらく、人を納得させるのが難しいものだ。私は今後も、人から「原因」を聞かれたときには、答えがたい苦渋な間を味わうことになるだろう。
大きな「原因」がなくとも、望ましくない現状に対する手立てがないわけではない。たくさんのバラバラにある〈通常〉の物事を、少しづつ検討して、変えていくことはできる。
〈通常〉の学校であれば、メリットの少ない校則や、圧力的な教師の言動など、子供を窮屈にさせている一つ一つのものを減らしていけばいい。
子どもを心配する親の、〈通常〉の考え方も、「不登校でも大丈夫」、「ひきこもりでも何とかなる」と、〈通常〉の幅をひろげることに効果があるだろう。考え方が「悪」だと否定するのではなく、今とは別の、もう一つの〈通常〉のあり方もありうることを広めていけたらいい。
たくさんある「生きづらさ」の要因を減らしていき、世の中と自分にとって、問題化する確率を落としていくことはできるように思う。
もしも「ひきこもり」や「不登校」に対して、何らかのサポートになることをしようという人がいるなら、大きな悪を打ち倒すようなヒーローにならなくていい。
ちょっとした物の考え方やささいなふるまいが、当事者を楽にさせるものであれば、それだけで私のようなものの「生きづらさ」を、ほんの少しずつ軽減させてくれる。
哲学者のパスカルにも、『わずかのことがわれわれを悲しませるので、わずかのことがわれわれを慰める』という言葉がある。
何かが「悪い」からと否定するのではなく、何かの〈通常〉のあり方を多様にさせてくれたなら、それはとても助かることだ。
私を生きづらくさせている原因は、〈通常〉の人たちの、〈通常〉の日々にかかっている。
参照
『マルコム・グラッドウェル THE NEW YORKER 傑作選2 失敗の技術』勝間和代訳 講談社 2010年
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。詩人・フリーライター。8歳からホームスクーラー(「不登校」)となり、ほぼ学校へ通わずに育った。約10年の「ひきこもり」を経験。20代の頃は、シューレ大学(NPO)で評論家の芹沢俊介氏に師事した。現在『不登校新聞』の「子ども若者編集部」メンバー。共著に『今こそ語ろう、それぞれのひきこもり』、著書に『詩集 ぼくはまなざしで自分を研いだ』がある。
Twitter https://twitter.com/ShinyaKikui
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