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引きこもる自分のアタマとカラダ

 

ひきこもりを非難する人と議論をしても、なかなか話が噛み合いません。当事者の喜久井ヤシンさんは、「何が正しいか」の前に、アタマとカラダの違いに目を向けるべきではないかと提案します。「対話」に至るための、素朴で根本的なアイデアをお届けします。

 

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(文 喜久井ヤシン 画像 Pixabay)

 


「こうやって話していると何となく分かってくるんだけど、しゃべってる言葉が違うのよね」
 國分功一郎『中動態の世界』

 


ガッコウに行っていなかったり、働いていなかったりすると、何らかの批判を受けることがあります。
「世間」においては、ガッコウに行き、就職をして、お金を稼いでいくことが正しいとされていて、私みたいに一人でいるあり方は、間違った生き方だと言われてしまう。

 

批判する人の「正しさ」が相手に気づきを与えて、新たな方向に導いていくのなら有意義でしょう。
ですがその「正しさ」」が、人を批判するための武器のようになってしまっているなら問題です。
「お前はダメだ」と叱り飛ばすための「正しさ」だと、お互いにとって得るものがないと思います。

 

私は親や教師に対して、ガッコウに行かないことや、働いていない状態を受け入れてほしいと主張してきました。
それは自分にとって良いかどうかではなく、カラダの状態としてやむをえないことであったためです。
親や一部の教師はイラだちを隠さず、「将来どうするのか」と叱ったものですが。

相手からすると、たしかに私のしてきたことというのは、私自身の主義や選択に見えるでしょう。
もし引きこもっていたことが、私の考えとして選んだ結果だったなら、私自身にとっても良かったです。
しかし自分のあり方のすべてが、自分の意志だったとは言えません。
自分のアタマで考えておこなってきたことではないのです。

 

ガッコウに行けないことも引きこもることも、私にはアタマではなくカラダによることでした。
私のアタマでは、動こうとしても動けない、自分のカラダが嫌でした。

私のアタマは、「働くべきだ」という主張を、「そのとおりだ」と考えていました。
しかし、人から見ると自分のカラダのあるところが「私」の選択のように思われてしまいます。
働いていないことを批判されたときには、自分のカラダの状態を弁護しないといけません。
自分のアタマでは同意していないことでも、自分のカラダのためにそれを言わないといけないのです。
有罪だとわかっている被告でも、「無罪」を主張せねばならない弁護士の立場に似ているかもしれません。

 

そもそも、あるあり方が正しくて、あるあり方が間違っている、ということがはっきりとわかっても、それによって生き方を変えられるわけではないと思います。
「正しさ」によって何かを決めているわけではありません。

うつ病などの状態が特にそうですが、アタマでどんなに自分の現状が嫌だと思っていても、カラダが動かない以上は、それが「自分」になってしまいます。
自分のことであっても、意志とか、主義とか、選択とか、それらのものとは関係がありません。
人に訴える必要があるなら、「(自分は)うつ病になりたくない」アタマのままで、「(自分を)休ませてほしい」カラダのことを主張することになります。
こういった矛盾にも生きづらさがあります。

 

もっとも、世の中はこういった二律背反が珍しくありません。
正しいと思うので主張をして、間違っていると思えば主張しない、とは限らない。
「長い物には巻かれろ」とばかりに、自分の主張とは異なることを言うことはありえますし、間違っていたとしても、保身のために自分が「正しい」と主張しうる。
正しいときには行動して、間違っているときには行動しない、とも限りません。

 

ガッコウに行かないこととか、引きこもっているとか、うつ病とかにおいて、それらを「受け入れてほしい」という主張は、少なくともはじめの段階では、私自身のアタマが求めていたことではありませんでした。

そのようなときに、正しさの尺度や、アタマで考えた事柄を重視する人と話すと、ダメージを受けてしまいます。
その人や世間にとっての正しさを、どれだけアタマで理解して、共感ができたところで、それは自分のカラダの救いにはなりません。

弱っているときには、私の意見や主張よりも、カラダの状態を見つめられる人がいたら、助けになっただろうと思います。
もし私がアタマで主張していたことがあったとしても、本題はそこではなく、私のカラダの状態です。
自然なかたちでカラダの観点を忘れずに語れる人がいたなら、そのときにようやく対話ができます。
叱責や主張の応酬ではなく、ただの対話です。
そこから「この人となら対話をしても大丈夫かもしれない」という信頼の土台が、ようやく一部だけ作られるのだと思います。

実際の関係ではどうというほどでもないのですが、それだけのことが、私の十年には得難いものでした。

 

 

 

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 執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の3年間は同世代との交流なく過ごした。20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter