(文・湊 うさみん)
病気やケガになるとテンション上がりませんか。
別にそういう性癖ではありません。理由としては、三つ上げられます。
1.心配してもらえる
2.死に近づくことができる
3.ごろごろしてても病気だからという言い訳ができる
普段は差別されていてもこういうときだけは優しくしてもらえる
病気やケガをすれば心配してもらえるといっても、条件があります。
それは「目に見える」こと。
病気なら咳をしていれば効果的ですし、ケガならド派手に包帯を巻いておくと心配されます。
以前にベッドから落ちて皿みたいに大きな青あざを作ったときはだいぶ心配されました。まったく痛くなかったんですけどね。
そんな風に、つらそうに見えるケガや病気なほどやさしくされます。いつもは差別される立場にあるひきこもりなんですけどね。
しかし、目に見えない病気だと優しくされないどころや、ナマケ扱いされることもあります。
パニック障害で苦しんでいても、優しくされるどころか「大げさだ」「半分演技だろ」と心無い言葉をかけられます。
人間は、視覚で判断する生き物だとつくづく感じます。
希死念慮がある人にとっては嬉しいこと
私を含めて、ひきこもりたちには「死にたい」という気持ちを抱えている人が多いと思います。
なので、死が近づいてきたら、ちょっとわくわくしてしまうのです。
咳出るなあと思ったら、肺炎かもしれないし、新型のインフルエンザかもしれません。
そうなると、「もしかしてこのまま死ねて苦しみから脱出できるのでは」という期待がかかるんです。
ほとんどの場合は大したことのないケガや病気ですぐに治ってしまうんですが、ごくまれに命に重大な病気にかかることもあるでしょう。
そのごくまれを期待してしまうんです。ちょっと前に動悸がして、「これ心臓のヤバい病気だ」と思ったんですが、寝たら普通に戻りました。でも、死を期待できていい気分になりました。
こういうことを感じるのは少数派かもしれませんが、ケガや病気に期待してしまうんです。
昼間からだらだらごろごろしてても病気だから仕方ない
ちょっと前に生産性という単語が流行りました。
私たち人間は社会の役に立つために生きているわけでもないし、生産性のあるなしで人間の価値を決めていいものではありません。
しかし、その一方で、「有意義なことをしなくちゃいけない」という強迫観念じみたものがあります。
状況が許しているのであれば、ごろごろしてても何の問題もないはずなのですが、罪悪感を覚えてしまうのです。
しかし、ケガや病気をしていれば、「今日は風邪だから休むべき」といった言い訳が通用します。
誰に言い訳してるのかわかりませんが、ごろごろしてても良いという許可証を手に入れた気分になって、悠々自適にごろごろできるのです。
「喉が痛いから今日は休んでいよう」みたいな感じですね。実際は毎日休んでいるのですけど。
ケガも病気も自己責任の面がそこそこある気がしています
加齢や遺伝、もしくはうっかりや仕事などで、どうしても避けられないケガや病気はあります。
しかし、その一方で、きちんと自己管理をしていれば避けられたケガや病気もあるのではないでしょうか。
風邪をひきやすい体質なら手洗いうがいをし、危ないと思ったらマスク着用。タバコや飲酒は控えて不摂生しないなどなど。
でも、自己責任で病気になってもやさしくしてもらえるんです。
逆に、不可抗力でひきこもりになってもやさしくしてもらえません。それどころかなまけや甘えだの言われ、差別されます。
私は目に見えない病気をいくつか抱えていますので、目に見えるようになってほしいですね。それで「そんなに病気抱えているのなら働かなくていいんだよ」と言ってもらいたいです。
執筆者 湊うさみん
20代でドロップアウトして自殺未遂。ニート歴10年以上のエリートニートになっちゃいました。