今回は、詩人の最果タヒさんを特集。難しいと思われがちな〈現代詩〉の中で、最果タヒさんは多くの読者を得ている。その秘密はどこにあるのか、また現代詩の「わからなさ」はどこからくるのか。愛読者からの「読むヒント」をお届けする。
(文 喜久井ヤシン 画像 Pixabay)
最果タヒさんは、2007年に『グッドモーニング』でデビューして以来、快進撃を続けている詩人です。
“詩の芥川賞”と言われる中原中也賞を、当時最年少の21歳で受賞。
美術館での「詩」の展示や、言葉によるメディアアートも好評を博しています。
ネット上ではツイッターやインスタグラムでも発信しており、多方面で活躍。
これだけ存在感のある若手詩人は他にいません。
硬いイメージのある現代詩ですが、最果さんの言葉遣いはとてもカジュアルです。
「好き」や「カワイイ」という言葉を使う大胆さがあり、長めの散文が多いので、限られた言葉でできた「現代詩詩を読む」ことの緊張感が少ないように思います。
評論家でも「ピンとこない」作品?
しかしラフな言葉で書かれている分、文学としては高く評価できないという人もいます。
日常的に詩を読む(という珍しい)人でも、最果さんの作品はピンとこないという声がありました。
最果作品の「わからなさ」は、現代詩特有の「わからなさ」とは別のものかもしれません。
その要因の一つは、作品がネット世代の言葉のセンスで書かれているためではないでしょうか。
最果さんはインタビューで、「インターネットがなければ詩を書いていなかった」と断言しています。
十代前半からネットにふれ、ネット上で後に「詩」となる言葉の断片を書き綴っていたことから、詩人になった方です。
評論家の荒川洋治さんは、『霧中の読書』の中で、昭和と平成の文学の違いについて語っています。
かつての文学作品は、活版印刷によって出版されていました。職人が一つ一つ拾い上げ、丁寧に作る必要があるため、作家の側も間違いのないよう、正確に書く努力が必要でした。
それに対して、平成の文学はオフセット印刷です。
「書くことの」緊張感が薄まり、自由な書きぶりが生じたのではないか、と言います。
非ネット世代には「わからない」感性かも
この荒川さんの指摘を進めるなら、現代はオフセット印刷どころかPCの時代です。
パソコンやスマホで読むことが当たり前になり、電子書籍であれば、文字の大きさも自在に変えられます。
明確にわかるものではないですが、PCの存在が作家の文章に影響しているのは間違いないでしょう。
特に最果さんの作品は、ネット時代の詩風が色濃く表れているのではないかと思います。
若い読者から多くの支持があるのは、最果さん自身がネットで生み出してきた作品に、ネットで育ってきた読者が呼応しているためではないでしょうか。
また反対に、「最果タヒにピンとこない」という中高年の評論家は、ネットにふれてこなかったところに要因があるのかもしれません。
自由すぎる口語自由詩
「なぜ最果タヒが読まれるのか」ではなく、「なぜ古典的な詩が読まれないのか」を考えてみたいと思います。
現代詩の特徴は、歴史的な詩に比べ、詩語(詩特有の言葉遣い)がないことだと言われています。
日常的な言葉を使い、見た目が「詩」とは思われないものも珍しくありません。
過去の高名な作家たちは、現代からすると物々しい表現を書き連ねてきました。
古典文学には、愛情を薔薇の花束にたとえたり、苦悩を断崖や山脈にたとえるような比喩があります。
それらは美しい表現ですが、現代の人が現代の言葉として読むのは、実際のところ重すぎるかもしれません。
テレビや漫画などの娯楽にあふれ、スマホを片手にSNSで大量の言葉をスクロールする生活にあって、古風な詩の言葉は異質なものです。
それらの言葉は古びており、ある意味では、表現として使い物にならない。
フラットな言葉の流れが当たり前になった時代においては、生きづらさや苦しさを含めて表現する言葉も、それに見合ったものがふさわしいように思います。
作家の高橋源一郎さんは、「文学史上の変化は、その時代の口語的表現から来る」と言いいます。
「〇〇である」、「〇〇なのだ」という書き言葉に対して、実際に会話で使われているものが口語表現です。
高橋さんによれば、書き言葉が表現の限界にたどりついたあとに、それを突破するように口語的表現の文学が現われる。そのくり返しが文学史だ、といいます。
吉本ばななさんの小説や、俵万智さんの歌集がベストセラーになったことがありますが、両者とも口語的な表現をまじえたものでした。
それまでの重苦しい文学とは違う軽さを持っていたために、多くの人からの注目を集めたのではないかと思います。
最果さんの作品も、現代の若者が使う口語を交えています。
話し言葉の聞きやすさ・読みやすさがあるからこそ到達できる境地を切り開いているのではないでしょうか。
『死んでしまう系のぼくらに』から
最果さんの作品の中で、印象的だった箇所を紹介したいと思います。
『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア 2014年)収録の、「LOVE and PEACE」という詩の一節です。
生命は尊いというひとたち。愛情は尊いというひとたち。そのひとたちにとって、生きていないひとは尊くなくて、すきじゃないひとは尊くないのかな。きのうはバスにのっていて、いろんなひとが席を取り合っていた。あしたからはもうバスにのりたくない。いろんなひとの悪口の、思い合いが窓をにごらす。
ひらがなが多い詩で、言葉に対して神経質な作家なら避けるであろう「すき」というシンプルな表現が使われています。
さらっと読むこともできる一文ですが、それだけでは終わらないこわさも含んでいます。
ある人が何かを「尊い」とか「すき」とかと言って肯定するとき、それは一見とても良いことのように感じられます。
しかしここで言及されてしまったように、別のものはそうではないのか、と指摘されたときに、もろく崩れていってしまうものがある。
誰かが「あなたが一番だ」と言ったとき、それを言われていない人への「あなたはどうでもいい」というメッセージになっているかもしれないのです。
光が強いほどに、影は濃くなってしまうものです。
最果さんの作品には、「すき」「かわいい」「きれい」という、一見とても良い、素敵な言葉が多く出てきます。
しかしそれらによって目立ってくるのは、むしろ「すき」でない、「かわいく」「きれい」でないものたちです。
文学作品は、歴史的に「忘れ去られた人々」や「語られてこなかったもの」への哀惜のまなざしがありました。
最果さんの詩にも、きらびやかな言葉の裏にある、語り逃された者の悲しみをすくうところがあるように思います。
そのあたりに、カジュアルなだけではない、読み流せない文学の強度が含まれているのではないでしょうか。
最果作品は一見ポップに見えます。
しかしそこには、毒キノコのようなこわさが秘められているように思います。
もっとも、詩の読みとり方は人それぞれであり、自由なものです。
そもそも、あれこれ想像しながら読まなくとも、感じながら読み流しても楽しめるのではないでしょうか。
音楽やダンスのように、詩も、アタマより感覚で楽しんでいけるものだと思います。
しかも、詩はパソコンのクリックや、紙のページをめくるだけで味わえます。
この時代に、これだけシンプルに味わえる愉しさはなかなかないでしょう。
最果作品を読むことはやめられません。
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年東京生まれ。8歳頃から学校へ行かなくなり、中学の3年間は同世代との交流なく過ごした。20代半ばまで、断続的な「ひきこもり」状態を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター 喜久井ヤシン (@ShinyaKikui) | Twitter
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