前回のおはなし
インタビュー・構成・文 ぼそっと池井多
第 2 章
ぼそっと池井多 陸前高田市の中でも、南南東に突き出している広田半島にあるこのお宅は、もともとお住まいになっていた家ではないのですね。
佐々木善仁 そうです。この広田地区の中で広田小学校付近は、いちおう文教地区で、保育園から中学校、高校まで全部そろっていました。いっぽう私たちが震災前に住んでいた家は、陸前高田市街の高田町というところにありました。津波で流されてしまったので、ここをお借りすることになったのです。
このあたりの数軒の家々は、もともとどこかの会社の保養所で、海の家のように使われていたそうですが、震災の時は空き家になっていました。
ぼそっと なぜ、ここを借りることになったのですか。
佐々木 発災当時、私が校長として勤めていた広田小学校が、この800メートル先にあります。そこで同僚だった先生方も家を津波で流されてしまって、住む所に困っておられました。
震災直後も、私たちは教員としての仕事があり、そうした仕事は学校ではできないものですから、帰る場所がないと仕事も片づきません。そこで、職場の近くにある、この空き家を仮の住宅として使ったら、ということで斡旋してくれる人がいました。しかし、実際に見たらとても住める状況ではないと、先生方は断ってしまいました。そこで私が、発災から20日ほど経った3月31日からここに住み始めたというわけです。
地震が来たとき
ぼそっと 広田小学校へは、当時のご自宅からはどのくらい離れていたのですか。
佐々木 約8キロですね。
ぼそっと 津波が来る前、まず地震があったとき、学校はどうでしたか。
佐々木 はじめ14時46分に地震が来たとき、揺れがものすごく大きかったために、すぐに心配して子どもを迎えに来たご家族がおられました。さらに、余震がずっと続きました。それで
「このまま余震が続いたら校舎が崩れるんじゃないか」
と心配して、迎えに来た保護者の方々もいました。
じつは、私もあとから知ったのですが、その前年の夏に、広田小は校舎の耐震を確認していたらしいのです。したがって、校舎が崩れるなどという心配は無用だったのですが、私も耐震検査の結果を詳しく把握していなかったので、保護者に尋ねられたときには
「この学校にいれば、お子さんは大丈夫です」
とは言い切れませんでした。それで連れて帰っていただいたというわけです。
ぼそっと 当時、小学校にはどのくらいの児童がいたのですか。
佐々木 138人です。そのうち迎えに来たのが約30名、ちゃんと家族かどうかを確認して子どもを引き渡しました。
さらに津波が来るということで、このあたりのいちばん高い高台に、担任の先生方に子どもたちを連れていってもらい、避難していただきました。とくに3年生以下の担任の先生方には、
「子どもたちがショックを受け、のちのち傷が残るだろうから、子どもたちに海の状況を見せないように」
とお伝えしました。
ぼそっと 津波がやってきたのは、それから約30分後ぐらいでしょうか。
佐々木 陸前高田に津波がやってきたのは、15時19分ごろです。このあたりは、他の被災地に比べて震源に近いので、津波の到達も早かったのです。
広田小学校は、この広田半島のくびれに当たるところ、標高12メートルから20メートルの場所にあります。三陸地方では、標高30メートル近いところにあっても被災した学校があったようですが、リアス式海岸の湾の形によって津波の高さも異なったため、広田小学校には波が来ないで済みました。
でも、広田半島の根元にあたる、本土とつなぐ部分はすっかり浸水し道路が寸断されて、このへんは孤島になってしまいました。かすかに遠くを見てみると、道路はすでに海の中にあり、車があちこちに浮かんでいて、切れた電線があちこちでパチパチと火花を散らしていました。
やがて、ラジオから「陸前高田市は壊滅状態」という情報が入ってきました。市街が実際どうなっているかは、ここからでは見ることも聞くこともできませんでした。いえ、それどころか、すぐ近くの広田中学校が津波に呑まれたことも知らなかったのです。もちろん、電話や携帯電話などもつながりませんでした。
家族のことを考える余裕はなかった
佐々木善仁 この地区の第1避難所は広田中学校で、ふだんから避難訓練をおこなっていましたが、ここが津波に呑まれてしまったので、第2避難所であった広田小学校に「広田地区災害対策本部」が当日のうちに設置されました。
やがて4月から広田中学校も、広田小学校の校舎の一部を間借りし、さらに5月にはグラウンドに仮設住宅が建つことになります。広田中学校は、そのときの1年生が卒業した2013年3月に閉校となりました。
ぼそっと池井多 津波が襲ってきた直後、具体的には佐々木さんはどのようなお仕事に追われていたのですか。
佐々木 広田小学校をこの地区の避難所として使うとなると、校庭にテントを張ったり、いろいろしなければなりません。それらの用具がしまってある場所を知っているのは、用務員さんか副校長先生か私だけでした。
ところが、用務員さんは、たまたまその日は外勤といって、午後から学校にはいませんでしたし、また副校長先生も、お父さまの7回忌とかで、その日は一日休みだったのです。となると、事務的なことがわかるのは私だけであり、どうしても私は学校を離れるわけにいかなくなりました。
ぼそっと 校長先生という重責がおありになったわけですね。
佐々木 発災の翌日、3月12日になって、先生方が、
「一度、家に帰って様子が見たい。自宅へ帰らせてください」
と言うので、私は、
「それもそうだな」
と思い、先生方にはいったん自宅へ帰ってもらうことにしました。
しかし、波が引いてひと段落したあとに、児童を引き取りにくるご家族などもいるので、私は学校を離れるわけにはいかず、一人で学校に残ることにしました。
今から考えれば、ほんとうに申し訳ないけれども、私の頭の中は学校の子どもたちのことで精いっぱいで、自分の家のこと、家族のことなど考える余裕がなかったのです。
ぼそっと なんともつらいお立場でしたね。
そこで家に帰られた先生方はどうなりましたか。
佐々木 そのうち、何人かの先生方が、家を流されてしまったとか、ご親類が亡くなったとか、甚大な被害に遭われた情報が次々と入ってきました。一方では、まだ連絡が取れていない児童の安否を確かめなくてはならない、という仕事がありました。
そこで翌日、水が引いたときに、男性の先生を中心に、それぞれの地区へ安否確認に出かけていただきました。
学校を出ても、はたしてどこまで行けるか、定かではありませんでしたが、足の踏み場もないほどガレキが積もっている道を、そのガレキをかきわけ、乗り越えて、それぞれおにぎり一個だけ持って、探索に出かけていただいたのです。
本土から広田半島へ来る、西側の道路はもう完全に通れなくなっていました。東側の道路は、道路に家がかぶさっている箇所はありましたが、「小さいクルマであれば何とか通れる」という状況だとわかってきました。それで、先生たちも行くことに決めました。
結果的には、この安否確認に一週間かかりましたが、児童全員の無事が確かめられました。
TBSの取材クルーが本インタビュー収録についてきて
一部をこの日に放送した。
ぼそっと 佐々木さんご自身のご家族の情報は、いつ、どのように得られたのでしょうか。
佐々木 それは本当に申し訳ないんだけども、私の生き方が学校中心だということは、妻もよくわかっていると思っていたので、とくにこのような状況になれば、私が学校のことにかかりきりになるのは、妻もたぶん「しょうがない」と思っているだろう、と頭のどこか隅で考えていたので、先ほども申し上げたように、私はあんまり自分の家族のことは考えませんでした。
だから、自宅がどうなったとか、ひきこもっている我が子は津波でどうなったといったことは、そのとき頭の中になかったのです。
しかし、他の先生方が交代で自分の家の様子を見に行って、また学校に戻ってくるということが行われて、それが一巡した一週間後あたり、つまり3月19日の土曜日の午後、先生方に行くよう促されて
「それでは、次は私がこれから自宅の様子を見にいってくるから」
ということで、学校を離れることにしました。
まず、広田町から高田町へ行く途中の米崎町に私の友達がいたので、そこに立ち寄って、そこから先の地域の様子をちらっと聞きました。バスも何も、公共交通がなにもないので、
「高田町の方へは、皆、どうやって行っている」
と訊いたら、
「通りがかりの車を停めて乗せていってもらっている」
と。
そこで、私もそのようにして自分の町へたどりつこうとしました。
ところが、近づいていくにつれ、自宅のあったあたりは壊滅的で、もう家も何もない悲惨な状況であるということがわかってきました。ガレキが重なり合っているだけで、近づくことすらできないようだ、と。
そこで、遠くから眺めて、
「ああ、これはもうダメだな。家族はもう、たぶんみんな亡くなったんだろうな」
と考え、米崎の友達のところに一晩泊まって、広田小学校に翌日帰ってきました。
津波が来た時、自宅では…
ぼそっと池井多 それでは、津波が押し寄せてきたとき、ご自宅で何が起こっていたかということは、後日になって、生き残ったご長男からお聞きになったのですね。
佐々木善仁 そうです。そのころ長男は、お隣の大船渡市の末崎小学校で、非常勤で一年生の担任補助をしておりました。その日は離任式といって、午前中は先生と児童のお別れ会のようなことがあって、午後はもう家に帰ってきていたらしいのです。
「津波が来た!」
ということで、お母さんと弟を乗せて避難させるために、すぐ自分の車のエンジンをかけて家の外で待機していたらしいんですが、なかなかお母さんと弟が家から出てこないということで、……
私たちの家は、市民体育館のすぐ北側の裏にあって、そのあたりは一面田んぼだったので、家から体育館の様子がよく見えたのです。だから、家から見ていれば、
「波がもう市民体育館まで来た」
ということは見えただろうと思うのです。
体育館までは100メートル以上あるのですが、このまま波が押し寄せてきたら、すぐに家までやってくるだろう、ということはわかったでしょう。
おそらく妻は、
「このまま私も家から出ていかなければ、みな死んでしまう」
と思い、断腸の思いで仁也の説得をあきらめ、一人で出てきて長男と二人で車で逃げようとしたのでしょう。
しかし、すでに道路にも水がヒタヒタと押し寄せていたので、車では逃げられないとあきらめて、自分たちの向かいの家に入ることにしたらしいのです。
そこは、よその家ですが、その家の方が高さがあるものですから。その家の2階に上がった、と。それでもどんどん潮位が高まってくるので、天井を突き破って、まず長男がその家の屋根に登った。そのあとについて妻もいっしょに屋根にあがった、とのことでした。
そのとき、屋根の上から私たちの家が流されるのが見えたそうです。
「これで、仁也は津波に呑まれてしまったね」
と屋根の上で長男と妻は話したそうです。
長男は、次男が家ごと流されるところを見ているらしい。
それはのちに長男が他のメディアにそう語っていました。
「とにかく生きよう」と声をかけた母
佐々木善仁 妻と長男は、家ごと流されながら、屋根の上から陸前高田の様子を見ることになりました。
陸前高田には、キャピタルホテルという高い建物があったのですが、それとマイヤというショッピングセンターの広告塔しか見えない状態で、あとはあたりいちめん海だったそうです。それを見て長男は
「ああ、陸前高田は全滅だ」
と思ったようです。
屋根の上で、妻は
「とにかく生きよう」
と長男に声をかけたといいます。
そういう話をしているうちに、二人を乗せた屋根は、もともと海岸の近くにあった市営球場へ流されていきました。
そのころまでには水位が下がってきました。たぶん、屋根に乗っていても、このままではやがて家ごと沈んでいくと思ったのでしょう、女房は屋根から降りて、球場のスタンドに移って、そこのベンチに座ったそうです。
長男は、第2波だか第3波だかわからないけども、すぐまた次の津波がやってくるから、
「そこに居てはダメだ」
と考えて、8畳ぐらいのトタン屋根を見つけたので、そこへ移るとともに、母親もそこへ呼び寄せようとしたら、もうその時には長男の乗っているトタン屋根と、妻が座っていたスタンドのあいだに大きなガレキが流れてきて、二人のあいだを隔ててしまいました。
そのガレキに遮られたのが、長男が母親を見た最後だったらしいです。
ぼそっと池井多 ご長男が呼び寄せたトタン屋根に、奥さまもいちおう乗ろうとはされたのでしょうか。
佐々木善仁 わからないです。
のちに他のメディアの取材に応じていた長男の話では、ガレキに隔てられて、トタン屋根に乗った自分が流されていくときに、
「助けて」
といった声を聞いた、と言っていました。
それが母親の声だったかどうかは、わかりません。
妻が亡くなった様子を訊く勇気がない
ぼそっと 他のメディアにご長男が語っておられた、とおっしゃると、それはご長男がお父さまである佐々木さんに直接語ったことではないわけですね。
佐々木 ええ。これらのことは、私が長男本人から聞いたことではありません。震災から少し経って、長男が他のメディアの取材を受けた時に、たまたま私が隣にいて、
「そういうことだったのか」
と横から聞いて知っただけで、長男が私に直接語ったことではないのです。
また妻が亡くなった様子を、私から長男に訊く勇気がない、ということもあります。
ぼそっと …………。
佐々木 弟や母が亡くなるところを、その目で見た長男が抱えている心の傷は、おそらく私が抱えている悲嘆より深いものがあると思うので、なかなか安易にそういったことは訊けません。
もちろん、長男の方から話し始めたら、私はいくらでも聴きたいけれども、私の方からはちょっといまだに訊く気になれないのです。
ぼそっと わかります。... お察し申し上げます。
佐々木 しかし長男は、一方では、
「いっしょに屋根の上で流されているときに、『生きよう』といったお母さんの言葉を守って、ぼくは生きなきゃならないと思った」
とも、そのメディアに語っていました。
さらに、
「母の言葉もあったけれども、一年生の補助教員もやっていたので、自分が死んだら受け持っていた子どもたちに深い心の傷を負わせるから、自分は生きなくちゃならない、とも考えた」
とも語っていましたね。
生きるためには、まず頭部を守らなければならないと長男は考えて、流れてきた発泡スチロールで頭をかばいながら波に流されていったそうです。
「お父さんは自分の仕事をしてくれっ!」
ぼそっと なんとも生々しいお話です。その後、ご長男はどうなりましたか。
佐々木 そのまま一晩、トタン板に乗ったまま流されて、翌朝、小友町のあたりで見つかりました。
偶然、私の小学校の学童保育の指導員さんのおうちに助けられて、話を聴いているうちに、
「どうやら校長先生の息子さんらしい」
ということになって、
「いっしょに広田小へ行こう」
と持ちかけたらしいのですが、長男は
「けっこうです」
と固辞したようです。
ところが、流されているうちに、足をあちこちにぶつけていたようで、二日経つ間に足がパンパンに腫れてきたらしい。
「これは、ほうっておいてはダメだ」
ということで、やはり広田小学校に連れてこられました。そこでは、近くにあった広田診療所の先生方や看護師さんたちが臨時の救急診療所を開いていたからです。
そうしたら、看護師さんの中に、さっき私が一晩泊めてもらったとお話しした米崎町の友人の妹さんがいて、その妹さんが長男を私のところへ連れてきました。
ぼそっと それはいつのことでしたか。
佐々木 震災から3日経っていました。だから3月14日ですか。
長男はとても興奮していて、
「自分は大丈夫だから、お父さんは自分の仕事をしてくれっ!」
ということを、さかんに大声で私に言うわけですよ。
「何かおかしいな。なんで、こいつは私にそんなことを言うんだろう。息子になんぞ言われなくても、自分の仕事ぐらい、私はちゃんとやるわい」
といぶかしげに思って、そのとき「変だな」とは思ったのです。
後から知ったことには、さきほどお話ししたような次第でした。
長男は、私に言わず、自分が見聞きしたことを一人で抱え込もうとしていたのでしょう。
それが私と長男との再会でした。
ペットボトルと米を階段の下に置いて
ぼそっと おそらく奥さまはギリギリまで次男の仁也さんに
「いっしょに逃げよう」
と説得されていたのでしょうね。
それでも仁也さんが逃げないから、奥さまはあきらめてご長男と逃げることにした、と。
お父さまである佐々木さんは、奥さまは仁也さんにどのような言葉で説得を試みていたとご想像されますか。
佐々木 はあー、そうですね…… あのう、それは、あのう、……
妻はとにかく
「大きな波が来て、呑まれてしまうから逃げよう」
というようなことを繰り返し言ったのだと思いますが、次男坊は震災が来るまでの三年間、2008年からまったく家から出なくなっていたのですよ。それで、妻もそうとう説得したのでしょうけど、やはりダメだったのでしょうね。
長男の話だと、妻はけっきょく次男と一緒に避難するのをあきらめた時に、水のペットボトルが入ったケースと米を階段の下に置いて、それから家から出て長男と逃げた、と聞いています。
次男坊は2階の部屋にひきこもっていましたから、水や食糧に困って階段から下りてきたら、すぐに見つけられるように、と妻は考えて、せめてそれらをそこに置いて逃げたのでしょう。
2階の部屋の窓からは、すぐそこに市民体育館が見えました。体育館を呑みこむほどの大きな波が迫っていることは、次男にも見えただろうと思うんですが、本人には訊けませんから、何ともわかりません。
窓を開けたとき、次男坊はどんな気持ちになっただろうな、ということを考えると、もう胸が苦しくなってたまりません。
ぼそっと ペットボトルの水とお米を置いたということは、奥さまはなんとか仁也君が生き延びる可能性に、最後の最後まで望みを託したのでしょうね。
佐々木 ええ。そんな話を聞いたものですから、私は、もし妻が生き延びられたとしたら、あまりにも大きな悲しみに押しつぶされて、尋常な心理状態ではなくなっているだろうと考えました。そこで、私自身があちこちの避難所へ妻を探しに行ったときには、
「50代で、ちょっと頭がおかしくなっている女の人はいませんか」
と尋ねながら、探し回ったものです。
すぐにわかりました。「ああ、息子だ」
佐々木善仁 結果的には、次男坊のほうはすぐに見つかりました。
3月19日に探し始めたときに、私は米崎中学校にも行ったんですよ。そうしたら、ブルーシートの中にご遺体がずらーっと並べてあって、私もいちおう全部見たのですが、息子らしき姿はその中になかったので、帰ってしまったのです。
後からわかったことには、息子の遺体はけっこう早い時期に米崎中学校に運ばれて、時間が経ったので、すでに他の場所へ搬送された、ということでした。
息子の遺体には「米中3」という札がつけられていました。
「米崎中学校へ3番目に運ばれてきた」
という意味です。
これで、早い時期に見つかったことがわかりました。発災の翌日、3月12日には見つかっていたのでしょう。ショッピングセンターのマイヤの所で見つかったと書かれていました。
ぼそっと すると、おそらく逃げないまま亡くなられた可能性が強いですね。
佐々木 たぶんそうだと思いますね。
仁也の遺体は、もう、すぐにわかりました。
「ああ、息子だ」
って。
仁也はずっと家から出ていなかったから、肌が真っ白だし、髪も伸び放題だったので。その時はもう大泣きしました。
・・・「第4回」へつづく
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