ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

【書評】ひきこもりの歴史になるべきだった本 芹沢俊介著『「存在論的ひきこもり」論』を記憶する

 

雲母書房が潰れた。

 

雲母(きらら)書房という珍しい名前の出版社が、しばらく前になくなってしまった。

今どき出版社が潰れるなんて珍しくもないが、ここがなくなるのはいけない。

評論家の芹沢俊介さんという方の本を多数出していたところなのだ。

 

『引きこもるという情熱』、『引きこもり狩り』などの本を出していた。

これらは、私が自分自身の「ひきこもり」を考えるうえで、かけがえのない本だった。

 

中でも、『「存在論的ひきこもり」論』(2010年)が特別だ。

私の「ひきこもり」のイメージを一新した本で、人生の深くに影響している。

 

版元が潰れたということは、もうこの本が書店で手に入らなくなるということだ。

しかも今『「存在論的ひきこもり」論』を買おうとすると、古本で6000円もしている。

電子版も出ていない。これでは忘れられてしまう。

これはいけない。

 

今回は、失われつつある一冊『「存在論的ひきこもり」論』を紹介したい。

話題作やベストセラーと違い、ほとんどの人は手に取ることもないだろう。

それでも、忘れられてはならない本を、忘れないでいるために書き残したい。

 

 

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる 

「存在論的ひきこもり」論 わたしは「私」のために引きこもる

 芹沢俊介著 雲母書房 2010年

 

「ある自己」と「する自己」

本書の出発点は、斎藤環氏のベストセラー『社会的ひきこもり』への反論にある。

斎藤氏は、「ひきこもり」への基本的な解説や対応策をつづっている。

しかし同時に、「ひきこもり」の定義化をはじめとして、「ひきこもり」の問題化・病理化を起こしてしまった。

引きこもる当人にとって問題が深くなるのは、「ひきこもり」への「否定的なまなざし」があるためた。

その「否定的なまなざし」を強めるような影響を生み出してしまった点で、斎藤氏の著書には根本的な問題があった。

 

芹沢氏は本書の中で、認識するべきは「社会的ひきこもり」ではなく、「存在論的ひきこもり」だと言う。

 

では、「存在論的ひきこもり」とは何か。

重要なポイントは、個人を「する自己」と「ある自己」という、二つのあり方に分ける見方だ。

 

人は毎日を生きていくなかで、さまざまなことをおこなっている。

働いたり、人と話したり、あれこれと動き回るところに「する自己」がある。

 

しかし、「する自己」はいつでもあたり前にあるわけではない。

ケガや病気で体が動かせなくなれば、働くことや日常生活を送ることも大変になる。

高齢で体が不自由になれば、「する自己」はどうしようもなく減っていく。

「する自己」がどんどんなくなっていくと、個人はどうなるか。

なくなってしまうわけではなく、そこには生身の存在としての「ある自己」がある。

寝たきりの生活になっても、その人の価値がなくなるのではない。

f:id:kikui_y:20200308152015j:plain

そもそも、赤ん坊のころは誰も「する自己」がなく、「ある自己」だけの存在だった。

さまざまなことを覚え、できるようになっていくことで、「する自己」が増えていく。

学校に行ったり会社に行ったりし、やがては結婚して家庭を築くかもしれない。

そこに拡大していく「する自己」がある。

 

しかし、学校や会社の人間関係などによって、ひどく傷ついてしまったらどうなるか。

多少のダメージなら、「する自己」をしばらく休ませるだけでいいかもしれない。

しかしただ「居る」ことや、生きていく力も削られてしまったなら、「ある自己」まで傷ついている。

f:id:kikui_y:20200308152112j:plain

そんなときには、「する自己」を撤退させ、「ある自己」を治癒する時間が必要になる。

その表れの一つが、引きこもるという行為にあたる。

 

「ひきこもり」は、他者から見て社会的な行動ができなくなること(「する自己」の欠損した状態)ではない。

本人にとって、人生と向き合う必然的な期間(「ある自己」の治癒をめぐるプロセス)だ。 

本人の「ある自己」のための経験であって、周囲が「する自己」の欠如を理由に否定してはならない。

 

(この『「存在論的ひきこもり」論』が、徹底して引きこもる本人の側に立って書かれていることに注目してほしい。これほど当事者に寄り添った論考は、精神科医や社会学者などに見られないもので、芹沢氏の他には誰も到達していないように思われる。)

 

「ひきこもり」は状態でなくプロセス

 「社会的ひきこもり」の定義には、「二十代後半から問題化」・「六か月以上」といった区切りがあった。

この発想の仕方には「する自己」(社会的にできること・有能さ)の観点があり、助力の方法も、就労支援などの「する自己」にかたよってしまう。

 

また、厚生労働省の定義では、「ひきこもり」が特定の「状態像」としてとらえられている。

「ひきこもり」は「状態」でなく、「変化のある動的なプロセス」としてとらえるべきだ。

 

「存在論的ひきこもり」では、往路、滞在期、帰路に分けて考えることができる。

① A→B 引きこもることの往路

② B 引きこもることの滞在期

③ B→C 引きこもることの帰路

 

ここでは一例として、①のプロセスのみを紹介する。

 

仮に、会社の人間関係で傷つき、引きこもるようになった人がいたとする。

一般的には、「しばらく休めばまた働ける」と考えられてしまうだろう。

そのため就労支援のように、すぐに「する自己」が求められる。

 

だが引きこもるときは、「する自己」だけでなく「ある自己」が傷ついている。

今以上に「ある自己」が損傷することを避けるために、引きこもるようになっている。

そんなときに、無理やり「する自己」だけをしても、余計に「ある自己」が傷つきかねない。

本人も「動きださないといけない」と考え、「する自己」の減った自分を否定するかもしれない。

だが、これは「逃げる」ということではなく、安心できる居場所を探すための、必然的な行動だ。

ここに、引きこもることの往路(①)がある。

 

引きこもる本人や親は、この往路を否定して、こじらせるべきではない。

むしろ、安心して引きこもれる滞在期(②)まで、すみやかに移行させるべきだ。

引きこもる本人にとって、安心できる居場所と受け止め手がいるということは、滞在期を過ごしやすくさせる。

それは「ある自己」の治癒・修復が、はるかにおこないやすくなるということだ。

 

この例のように、「ひきこもり」はプロセスであり、往路・滞在期・帰路それぞれのあり方と向き合い方がある。

 

(芹沢氏は精神科医のウィニコットを参照し、「自己間関係」や「環境と他者」など、哲学的な用語を出して論考を進める。上記の説明はきわめてざっくりとまとめたものにすぎない。だが少なくとも、「する自己」と「ある自己」の見分けが、「社会的ひきこもり」とはまったく別の「ひきこもり」の地平をもたらすことを知ってほしい。これは、私自身がとても救われた思想だった。)

 

歴史になるべきだった本

 昨年の練馬・川崎事件の報道を引くまでもなく、「ひきこもり」への否定的なまなざしがつづいている。

2020年にいたって『改訂版 社会的ひきこもり』が出たのも、「ひきこもりとは何か」があらためて注目されたためかもしれない。

だが斎藤氏の本の再版に対して、芹沢氏の本は出版社閉社という対照的な展開だ。

私は、日本に「ひきこもり」論の歴史があるとしたら、「社会的ひきこもり」の次に、本書が広まるべきだったと思う。

過剰な就労支援や「引き出し屋」がのさばる社会は、引きこもるプロセスをこじれさせる。

 「ひきこもり」へのまなざしは、本書のようなあり方に変わるべきだった。

 

芹沢氏の射程は、「ひきこもり」に留まるものではない。

「する自己」を過剰に求めることは、過労死の問題や優生思想的な価値観ともつながっている。

日本社会が高齢化していくなかで、「ある自己」へのまなざしはさらに必要になってくるはずだ。

 再読されるべき思想として、私はせめて本書を記録し、記憶しておきたい。

 

そして、雲母書房という出版社があったことも。

 

 

 書籍情報

「存在論的ひきこもり」論 わたしは「私」のために引きこもる

芹沢俊介著 雲母書房 2010年9月5日初版発行 267ページ

「存在論的ひきこもり」論―わたしは「私」のために引きこもる

 目次

はじめに―肯定性へ向けての新しい道筋 

Ⅰ 「ひきこもり」がなくなるとき

否定の視線について
幸福の条件をめぐって
「存在論的ひきこもり」論
長期に引きこもっている人が家庭内殺傷事件を起こしやすいのか 

Ⅱ 二〇〇〇年代とひきこもり

引きこもる若者たちをとりまく今
本や映画から「ひきこもり」を読みとく
『IRIS』編集局インタビュー・しんどいけれど踏みとどまって考える

Ⅲ 否定的「支援」の身勝手さ

「支援」についてのノート
「善意の道は地獄へ通ずる」ということ
長田塾事件裁判への意見書 

Ⅳ 「ひとり」の深さについて

ニートの社会学;「ひきこもり」と「アノミー」
人はひとりで生きていかれるのか
文学のなかのモラトリアム青年

あとがき
初出一覧

 

 著者 
芹沢俊介 (せりざわ・しゅんすけ)
評論家。1942年東京生まれ。上智大学経済学部卒
 著書
『引きこもるという情熱』
『経験としての死』
『〈宮崎勤〉を探して』(以上、雲母書房)
『もういちど親子になりたい』(主婦の友社)
『親殺し』(NTT出版)
『若者はなぜ殺すのか』(小学館101新書)
『家族という絆が絶たれるとき』(批評社)
『阿闍世はなぜ父を殺したのか』(ボーダーインク)
ほか多数。

 共著
『引きこもり狩り』
『殺し殺されることの彼方』
『還りのことば』
『老人介護とエロス』(以上、雲母書房)
『幼年論』(彩流社)
ほか多数。

 

(※プロフィールは『「存在論的ひきこもり」論』から抜粋。著書は他に家族論・文学論から吉本隆明との共著など百冊近くに及ぶ。このうち雲母書房の本は7冊あったが、手に入らなくなってしまった。)

 

※※※※※※※※※※※※※※※ 

 執筆者 喜久井ヤシンきくい やしん)

1987年生まれ。8歳から学校へ行かなくなり、20代半ばまで断続的な「ひきこもり」を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター喜久井ヤシン 詩集『ぼくはまなざしで自分を研いだ』2/24発表 (@ShinyaKikui) | Twitter

個人ブログで詳細版の書評を掲載している。 http://kikui-y.hatenablog.com/

 

 オススメ記事

www.hikipos.infowww.hikipos.info