ひきポス -ひきこもりとは何か。当事者達の声を発信-

『ひきポス』は、ひきこもり当事者、経験者の声を発信する情報発信メディア。ひきこもりや、生きづらさ問題を当事者目線で取り上げます。当事者、経験者、ご家族、支援者の方々へ、生きるヒントになるような記事をお届けしていきます。

「肉付きの面の呪いの解き方」その1(全2回)

f:id:hikipos:20200417174010p:plain

(文・立瀬マサキ)

私は高校ぼっちが原因の元引きこもり当事者です

 

こんにちは。立瀬マサキと申します。 

私もまた、高校卒業から数年引きこもった経験を持ち、今は介護士として勤務している元当事者です。

私が引きこもりになった原因は、高校生活において友達が一人も出来ず、毎日の昼休みや行事のたびごとに疎外感に苦しんで、卒業した時にはもはや大学進学したり、就職したりする気力が残っていなかったためでした。

一見ステレオタイプな引きこもり方をした私ですが、私はその経歴の中で、日本の引きこもり、不登校、ニート問題に一石を投じられそうなある発見をしたのです。

それがどんな発見なのかを説明するために、まずは私自身の高校生活のことについて述べさせていただきます。

私がぼっち状態に陥ったのは、高校に入学してから、わずか五日しか経っていない時でした。

私はシャイな性格なもので、新入学してから同じクラスの新入生に自分から声をかけるのを臆していたら5日目となり、そうしてその日に私は、もうすでにクラス内のグループがかなりの強度に固まってしまったことを見て取ったのです。

それはつまり、もし私が新たにどこかのグループに加入しようとするためには、巨大な関門をのり越えなければならないことを意味しました。

その関門とは視線攻撃です。私が遅ればせながら、学級内のどこかのまとまりに歩み寄ったとします。

すると、どのまとまりのメンバーも、そのことに意表を衝かれたという表情を、すなわち「いつものメンツじゃない」という表情を、つまり「俺は今現在、立瀬マサキと別に親しい仲ではない」という意味の視線を一斉に私に向けてくるでしょう。

そうした視線を向けられて、自分がクラス内のどのグループにも入れていないことを改めて意識してしまい、精神ダメージを与えられる、ということです。

なんて大げさな、と思うかもしれませんが、自分の所属するクラス内に居場所が有るか無いかは、ティーンエイジャーの自己肯定感にとって非常に重大な要素なのです。

現実に、どこのグループにも入れないかも知れなくて不安でいっぱいだったその当時の私にとっては、その視線攻撃が、莫大な精神ダメージを受ける恐怖の事態と予想されたのです。

また関門は一つだけではなく、幾重にも施されていました。もし第一の弾幕に耐えて、あるグループの外郭にしばらく踏みとどまったとしても、もし次の時間割に移動教室の授業が控えていたら、外郭のメンバーは私だけに「一緒に行こう」と声をかけてくれないかも知れないのです。

そうなれば、置き去りになった私は、再び凄惨なダメージを味わうことになるのです。

私の超えるべきハードルは、数が多すぎました。

だから高校生活五日目にして、クラス内のどこかのグループに入ることを諦めたのです。

その日以降、高校を卒業するまでほとんど丸丸三年間、私は自分のクラス内に限らず、学校内にも、もっと言うと学校外でも一人も友達を作ることが出来なかったのです。

ここで、おや?と思った方がいるかも知れません。高校一年の時にグループが固まってしまって新たに入れてもらうのを諦めたんだったとしても、新二年や三年に上がった時に友達を作るチャンスをうかがえば良かったんじゃないの?と。あるいは、高校のクラス内に限らず興味のある部活に入って友達を作れば?

学校外の、何かアマチュアの同好会に入ればいいじゃん!

しかし、そうした常識的な選択肢は「肉付きの面」に妨害されて、私にはどれも選べない道であったのです。



中高生は、自分の所属しているクラスが世界の全て

 

「肉付きの面」とはいったい何なのか?

その説明の前に確認しておきたいことがあります。

私はこの文章中にさんざん「自分は高校で誰とも親しい間柄を築けなかった」という文言を書き連ねていますが、そうした説明を自分の特徴として口に出すことは、高校在学当時には絶対無理なことでした。当時には、その悩みは学校外の他人にも、家族にも誰にも打ち明けられませんでした。

いいえ、それどころかその事実はあまりにも辛すぎて、自分一人で部屋にいる時に、心の中の声として「自分は高校で一人も友達が出来ていない」という構文を作ることすらできなかったのです。

 

「自分は高校で一人も友達が出来ていない」などという長文をつづることなんて、夢のまた夢でした。「学校」、「教室」、「グループ」といった、基本的な単語を思い浮かべようとするだけでもツラいことでした。

「学校に行く」という行動をとることと連動して悲しみの情が湧き出る法則があることを感覚としては感じながら、その理由を考えようとしても、思考は次のようになってしまうのです。

「何で自分は毎日こんなに悶々としているんだろう・・・それはもしかしたらこういう理由だからかな・・・・自分にはクラスの友d・・・・いや、何でもない!!」「なんで自分は『昼休み』とか『弁当』という単語をみると不穏になるんだろう・・・。それはもしかしてこういう理由だからかな・・・。自分には学校で友d・・・いや、何でもない!!」

問題の核心に触れる文字列を心の声で作ろうとするや否や、胃の裏をマグマで焼かれるような感覚に苦しめられ、思考を中断せざるを得なくなったのです。

これはつまり「同い年の青年とおしゃべりをして楽しい時間を過ごす」という大多数の人にとって標準である利益を、自分だけが逸していることへの焦燥感でした。

焦燥感なんていう言葉を当てることができたのも後年に至ってのことで、その感覚を感じた瞬間の私の心の声はただ「熱い!内臓が焼け焦げて死んじゃうよ!!早く考えるのをやめたい!!」という阿鼻叫喚でした。

繰り返しになりますが、ティーンエイジャーにとっては「同じクラスの同級生とパイプを作ること」が、何をおいても最優先事項であるということです。それが叶わなかった場合にはそのことを自分の心の中の声として、三文字も言語化できなくなるほどの。

 

学校生活と呪いの仮面

私の高校生活の5日目。

仲良しグループのメンバー同士によって、机が、諸島のように大小さまざまに寄せ合わされ、どの島々でも宴が催される喧騒の教室から、私が踵をかえしたその瞬間に、私の顔には「肉付きの面」が食らいついていました。つまり私は、高校の校舎内にいる間中ずっと、真顔とか、おすましとか、仏頂面とか、気難しい表情とか、とにかく人を寄せ付けない表情しか出来ないようになってしまったのです。

それはどういう心理作用で起こったのか?

自分のぼっち状態が確定したのを心の裏で悟った瞬間に、私の青年期には「『学校生活では友達を持つことが大事なことだ』という価値観をいかにしてごくわずかでも自分に触れさせないか」が重大問題として居座ることとなったのです。

それには二つの意味があり、一つは先に述べたように「自分は学校で友達が一人もできなくて悲しんでいる」という心の奥底の泣き声から、必死に耳をふさぐようになったということ、もう一つは、他人から、(言語的非言語的とを問わず)『友達がいなくて高校生活を楽しめないなんて哀れだ』という指摘を受けることを恐怖の事態としておぞけふるうようになったということです。

私は、交友関係を広げることに頓着していない人間になりすまし「『人脈がなくても気にしない』という『文明』を持つ人物なのだ」と同級生に対して見せかけようとしたのです。

そうすることによって私は、同級生から自分に、ある二種類の表情が向けられる可能性を下げようとしたのです。

それは「あざ笑った表情」と「不憫がった表情」です。

その表情はどちらも、私が陥った状態を「不幸である」とみなしている表情、すなわち私が自分でも気にしている弱点を、他者の視点から改めて認めている表情、すなわち私に対して多大な精神ダメージを与える表情だからです。

 

同級生が三々五々のまとまりに分かれて雑談をしている教室の中で、私は「一人で居たくて居る」という演出をする。

そうしておけば、私の周囲にだけ空間があるのが他人の目に留まった時に、その人の心の中で「コイツ友達もいないのか?」という疑いが起こり、勝ち誇りの情が湧き起こったところで、「でももしかしたらコイツは友達を作りたいという思考回路自体を持っていないのかも」と考え直してくれるようになり、(男性同性愛者の人に彼女自慢をしても白けるような気持で)私に対して「嘲笑」の表情を向けたり、「友達もいないのか」と発言したりするのを踏みとどまってくれるかも知れないからです。

あるいは、情け深い人の目に留まった時でも、その人は心の中で「立瀬君は別に寂しくないんだな」と考えてくれるようになり「憐憫」の顔を私に対して表出させずにいてくれるかも知れないからです。

こういう心理作用で私は、学校にいる間じゅう表情を仏頂面に固め、かつ他人と積極的に視線を合わせない習慣を保つようになってしまったのです。

ここで一応確認しておきますが、その現象に「肉付きの面」という名称をつけて、こんなにもくどくどメカニズムを説明できるようになったのも、高校生活を脱出した後のことです。私は、肉付きの面をつけたくてつけたわけではなかったのです。

肉付きの面に食いつかれた最初の感覚は、言語化されない保護本能による危険信号が脳内に働き、反射的に表情筋を動かされ、固められた、という感じでした。

肉付きの面が顔にかぶさってから月日が過ぎて、私はクラスメートを前にするたびに人当りが悪いように顔に動力が加えられる法則を、毎日他人事みたく観察していました。私は肉付きの面を、高校三年間の間ずっととり外すことができませんでした。

(続く

 

このような”友達”に関する話題を集めた 特集「ひきこもりと友達」HIKIPOS8号絶賛販売中!