(文 喜久井ヤシン 画像 Pixbay)
仕事をせずに家に居るだけだと、「何もしていない」と思われがちです。しかし、執筆者の喜久井(きくい)ヤシンさんは「人は〈居る〉だけで価値がある」と断言します。その真意とは何か。哲学的なエッセイをお届けします。
あくびがうつる
特別なことをしなくても、人と人とが同じ屋根の下にいるというだけで、どうしても影響しあうものだ。
ややのんきな例でいえば、「あくびがうつる」ことがある。
一人があくびをすると、それを見ていたわけでもないのに、まもなくもう一人にもあくびが起こる。
「あくびがうつる」ことは意外と多くの人がとりあげており、昔から学問的に研究されてきた。
もっとも古いものだと、アリストテレスの文献で「同感的作用に関する問題」という、いかめしい名前でとりあげられている。
現代では医学的に研究されており、「あくびがうつる」のはどうやら細菌レベルの「感染性」のものだという。
「人と人との関係」ではなく、「生体と細菌の関係」として、微細な視点で分析されている。
人がただ〈居る〉というだけでも、そこには膨大な「動き」の世界がある。
ウイルスや感染性の何か、香り、フェロモン、震動など、そこにはたけだけしいまでの「動き」があり、人が本当の意味で、「何もしていない」ということは不可能だ。
現代社会では、人がただ家に〈居る〉だけ、というのは、価値がないことのように思われてしまっている。
日常的に過ごした一日でも、お金になるようなことをしていなければ、意味がないものとされてしまう。
しかし別の観点で見れば、本当はそんなことはない。
絶対にそんなことはない。
重度の障碍者も、寝たきりの高齢者も、長い歳月を経る「ひきこもり」もそうだ。
人がただ〈居る〉ことの営為が、この社会では忘れられてしまっている。
古井由吉『仮往生伝試文』
今年2月に逝去した文学者、古井由吉は、自らの作品のなかで、人と人との微細な交わりについて書いている。
『仮往生伝試文(かりおうじょうでんしぶん)』という、元々物語の本筋がないといっていい小説の、さらに筋をはずれた片隅で、目に見えないものについてふれている。
『同じ屋根の下、という言葉がいまどきまったく明快かどうか知らないが、同じ屋根の下に幾年かでも続けて共棲する人間たちはひとつの安定した、微生物の系をつくりなし、ヴイルスもそこにふくまれ、その系と心身ともに折り合って暮らしている、と考えられる。〔…〕しかし誰かがあらたに入りこむとなると、猫一匹の場合でも、系は大きく動揺し、家の者たちもどことなく心身に動揺をきたし、どうかして心違い頭痛むがごとき心地になるか、あるいはむやみと心は晴れて気は振れて、それが落着くまでにけっこう月日がかかる、と考えられる。それにひきかえ、人が去るか消えるかした時には、人は居なくなってもその者に馴染んだ微生物はのこるので、しばらく系全体として大きな変化もなく、漸次新たな釣合へ移行するので、その間にさほど混乱もない、と考えられるのかどうか。』
(古井由吉『仮往生伝試文』)
人がただ〈居る〉だけでも、生物学的な「微生物の系」が複雑に作用している。
生きている人が、生きている人としてただ〈居る〉ことに、すでに底知れないいとなみがあるように思う。
「居心地が悪い」という日常的な言い回しも、もしかしたら、微細な生態系における傷のようなものであるのかもしれない。
最先端アンドロイドの世界
ただ〈居る〉ことは、何気ないようでいて、そこには途方もない複雑さがある。
本やテレビなどで、精巧なアンドロイドの研究について知ると、「何もしていない」状態にまで到達させる難しさがよくわかる。
専門家によれば、見た目を本物の人間らしく見せるだけでも、相当な労力がかかるという。
一例を挙げると、自分と同じ姿のアンドロイドを作った、石黒浩という研究者がいる。
ユーモアをこめて「イシグロイド」と名付けられているアンドロイドは、写真だけなら本人と双子のようで、どちらが研究者本人なのかわからない。
しかしそれも、映像になったとたんに、アンドロイドの不自然さがあきらかになる。
スムーズに動いているようでも、生き物にはないカクカクとした印象を受けるためだ。
石黒氏によると、アンドロイド研究でもっとも難しいのは、「何もしていないときの人間のかすかな動き」だという。
人がいくら止まっていようと思っても、心拍し、脈打ち、筋肉や神経が細かな運きをして、顔の皮膚はざわざわと動きつづけている。
わずかな動きが、延々とくり返されている状態が、人の「何もしていない」姿だ。
石黒氏はそれを「無意識的微小動作」といい、顔かたち以上に、人間の存在感を生みだすものだといっている。
今後の時代には、VR(ヴァーチャル・リアリティ)やオンライン上のアバターの世界が広がっていくだろう。
しかし先ほどの〈微生物の系〉の話を含めて、ヴァーチャルの世界では、生身の人間が〈居る〉ことの律動には到達できない。
人が生きているということには、その人以外にはありえない、存在することの深さがある。
ありえるかもしれない「遺伝」
前に、ある同性愛の人から、「遺伝」についての印象的な話を聞いた。
通常「遺伝」というと、両性によって子どもに伝えていく、生物学的な伝達のことだ。
「遺伝子」であれば、DNAによって、血のつながりのある子どもに受け継がれていく。
それだけの意味だと、直接の子どもがいない同性愛者は、後世に遺伝が残っていかないということになる。
しかし血縁の有無に関係なく、人と人とをつなぐ「遺伝」もあるのではないか、という。
「あくびがうつる」例のように、見ることのできない感染性の媒介が、DNAなどに作用するならどうだろうか。
単に思想や言動が後天的に影響するということではなく、微細な生物学的なレベルの影響が、後天的にも起こるなら。
自分の生きて〈居る〉ことが、直接の子孫というかたち以外で、死後にも残っていくと想像することも可能だ。
現代の科学では解明されていないので、この話はいかがわしい与太話として、切り捨ててしまってもかまわない。
ただ私としては、人が〈居る〉ことに、それくらいの可能性があるという空想をしてみたい。
私の半生は、とても無力で、社会的な価値の低いものだった。
小学校で通学しなくなり、大人になってからも、長いあいだ働き出すことができなかった。
労働や有能さの観点からすれば、生きていくことの「意味」がないように感じられていた。
人とふれあわず、虚しく過ぎていった十代の歳月は取り返しがつかない。
しかし、そこにも自分が〈居る〉ことはたしかにあった。
これはどのように生きている人でも、ありとあらゆる人にあてはまるはずのことだと思う。
たとえ生まれた時から寝たきりでも、意思疎通が難しくても、家にいたままで数十年の歳月が流れても。
そこにはすでに、人間の〈居る〉ことの営為が果たされている。
労働や、生産性や、社会的な有能さでは計れないとしても、人が〈居る〉ことに、「意味がない」なんてありえない。
本質的に「何もしていない」なんてことは、決してない。
人がただ〈居る〉ことの価値は確実にあり、そしてそのことは、もっと深い確信をもって、広く認められてほしいと思う。
参考 河野与一『新編学問の曲り角』岩波書店 2000年/古井由吉『仮往生伝試文』 講談社 2015年/石黒浩『ロボットとは何か』 講談社 2009年
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。8歳から学校へ行かなくなり、20代半ばまで断続的な「ひきこもり」を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター喜久井ヤシン 詩集『ぼくはまなざしで自分を研いだ』2/24発表 (@ShinyaKikui) | Twitter
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