文・ ぼそっと池井多
コロナウィルスが蔓延し、「ふつうの人」たちがひきこもりとなった今、「ひきこもり」であるとはどういうことか。
そのことを考えると、ここでも「ひきこもりは多様である」という原点が、まずは炙りだされてくる。
つまり、コロナ自粛下の過ごし方や気持ちは、個々のひきこもりによってじつに多様であって、
「ひきこもりは今の時期みんなこう思ってる」
「ひきこもりは今、みんなこうだ」
ということはまったく語れないのである。
しかし、次のような二つのベクトルに分けて考えることは可能だろう。
(1)コロナで「ふつうの人」がひきこもっているから、引け目を感じずホッとしてひきこもり続ける「ひきこもり」
(2)コロナで「ふつうの人」が外出しなくなったから、反対に外へ出てくる、出たくなる「ひきこもり」
私自身の中にも、(1)(2)二つのベクトルが共存している。
喜んでひきこもる
まず(1)。
今までも私は、
「ひきこもりであることは恥ではない」
といろいろな場所で発言してきたが、そこへ加えてこのような世の中となり、何もしないで家にひきこもっていることが、奨励どころか、社会から要請されるようになった。
こうなると、いつもにも増して、もうすっかり安心してひきこもっていられる。これがうれしい。
どうやら日本の緊急事態宣言は延長の方向で調整されているようだが、私の場合、外出自粛はあと4か月ぐらい延長されても、生活はあまり変わらない気がする。
というのは、その4ヵ月の間には、まずは低気圧で鬱になり、梅雨で外へ出られなくなる時期があり、さらに殺人的な陽光が刺してくる酷暑の夏が来て、やはり外へ出たくないだろうからである。
外へ出ていくのが嫌で嫌で仕方がないそのような時期に、
「家にいてください」
と要請されるとは、なんと嬉しいことか。
幸いなことに、私の場合、ひきこもっていても、「ヒマを持て余す」ということがない。ボケーっと自分に向かい合っていると、何時間でも、何日でも過ぎていく。
これを「うらやましい」と思う人がいるかもしれないが、裏を返せば、これはたとえ仕事をしていなくても、つねに内的に忙しい人生を送っている、ということであって、けっして気楽なものではない。
外へ出たくなるひきこもり
それでは、(2)の部分である私は、コロナ自粛の時期に、なぜ外へ出たくなるのだろうか。
それは、ひきこもりである自分を見る他者が街にいないからだと思う。
「外」はこわい。
部屋から一歩外に出れば、交通事故に遭うかもしれないし、通り魔に刺されるかもしれない。
しかし、「外へ出るのがこわい」というとき、このような空間的な意味における「外」はあまり問題にしていない。というか、そういう恐怖が占める割合は、ゼロではないが、とてもとても小さい。
ひきこもりが「こわい」と思うのは、「外」そのものではなく、「外」を歩いていると出くわす他者ではないだろうか。
したがって、もし
「他者のいない国」
というものがあったなら、たとえその国に何も観光地がなくても、ひきこもりたちはこぞって出かけていくと思うのである。
他者によって他者化される自分
なぜ他者がこわいかというと、その他者たちはひきこもりである自分を見ている存在だからである。
(2)のひきこもりにとって、他者の代表は、いわゆる「ふつうの人」である。
「ふつうの人」からは、よくこんな疑問が向けられる。
「ひきこもりは人がこわいんでしょ。
ひきこもりの居場所やひきこもり界隈にも、同じく人がいるでしょうに、なぜそこはこわくないの」
ところが、じつはそういうことがわからないから、その人は「ふつうの人」として、私たちひきこもりから他者化されるのである。
居場所や界隈にいる人は、ひきこもりをひきこもりとして見る対象にしない(ことになっている)。いわば、ひきこもりを客体化しないのである。
だから、ひきこもりにとっては「仲間」「同志」「当事者」と感じられ、今ここで語られている、こわい対象としての「他者」とは感じられない。
もちろん、これも感覚が生み出す結果だから、個々のひきこもりでとらえ方がちがう。そのために、すべてのひきこもりが快適になれる居場所や界隈というものは作れない。
コロナ自粛で、多くの人々が仕事へ行かず、街からは「ふつうの人」たちが消えた。それはとりもなおさず、私たちひきこもりをひきこもりとして他者化する他者が消えた、ということなのだろう。
「他者がいない国」へ行きたいと願っていたひきこもりは、ここぞとばかり外の新鮮な空気を吸いに、開放空間である「外」へ出ていきたくなる。
しかし、Covid-19は「ふつうの人」と同じようにひきこもりの身体にも入っていく。公共的な意味では、ここでひきこもりだからといっても、何ら外出が特権的に許されるものではない。
(了)
ぼそっと
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