ひきこもり支援においては、資格獲得などの役に立つプログラムが評価されがちです。しかし執筆者の喜久井(きくい)ヤシンさんは、「何もしなくていい居場所」こそ価値があると言います。オンラインでは果たせない〈居る〉ことの意味とは何か。哲学的なエッセイをお届けします。
(文 喜久井ヤシン 画像 Pixbay)
人が〈居る〉ことの威力
人と人とが何気ない会話を交わすとき、そこには「無意味なダンス」があふれているという。
イギリスの高名な学者、アダム・ケンドンの、動作に関する研究がある。
9人の男女に、快適な空間で思い思いに過ごしてもらう実験をした。
被験者は語り合ったり飲食をしたりと、自然な時間を過ごす。
その様子を、スポーツの映像解析と同じカメラ(48フレーム/秒で撮影)で撮影し、徹底的に調べ上げる。
体の動きを詳細に分析するもので、それは眉毛、下唇、小指の反応など、あらゆる細部に及ぶ。
すると、肉眼ではとらえられない微細さで、人と人とが反応しあっていることが確認できたという。
すべてのデータの相関関係を調べた結果、人々が交流する際の身体の動きは驚くほど正確に一致していることが判明した。彼らの動きは、練習を重ねて技巧を尽くしたバレエと同じ程度に巧みな振り付けがなされていたのだ。〔…〕すべては何分の一秒というレベルで起き、しかもほとんどが無意識下で起きている。
(ジェレミー・ベイレンソン『VRは脳をどう変えるか?』)
人が誰かと同じ空間に〈居る〉とき、無意識に動きが一致する「無意味なダンス」が起きているという。
「一人がわずかに姿勢を変えると、それに合わせて、別の誰かがわずかに頭部を動かす」、「肘を曲げる動作が、話し手の変わるタイミングを示す」など、人が〈居る〉だけで影響しあっていた。
このような研究は人間同士の「相互同期性」といわれ、言葉以外のコミュニケーションを分析するためにおこなわれている。
また、詳しく解明されていないが、脳医学的にはミラーニューロンの働きに同期性があるという。
ミラーニューロンは、他人の身体を見ているだけで、別の人の脳の中でも、同じ動きをするときに発火する神経線維が活性化する。
ある思想家は、武道や伝統芸能でおこなわれる「見取り稽古」に、ミラーニューロンの効果があるのではないかと指摘している。
手とり足とり習わなくとも、人の動きを熟視するだけで、動作をまねること=学ぶことにつながるのではないかという指摘だ。
意識できなくとも、人がそばに〈居る〉だけで伝達されるものが、多大にあるのだと思われる。
演劇などが「生で鑑賞してこそ面白い」と感じるのは、空気感や緊張感とともに、未解明の科学的反応が起きているためかもしれない。
世の中ではオンラインでのコミュニケーションが増加している。
「ひきこもり」など社会的に孤立しやすい人向けの、「オンライン当事者会」も活性化した。
オンライン通話は、人とのつながりを結ぶための良質なツールだ。
しかしVR (ヴァーチャル・リアリティ)の研究でわかったことだが、オンラインのやりとりで「無意味なダンス」は生じない。
人と〈居る〉ことによる同期や、皮膚感覚で伝わりあう相互作用は、生身の人間同士が居なければ起こらないという。
〈居る〉という学び
生身の体が〈居る〉ことについて考えると、私は「ひきこもり」向けの居場所での経験を思い出す。
私は十年ほど、人と交流のない暮らしをしていた。
社会的に孤立した歳月は決して楽ではない。
やむをえずある時期から、いくつかの「ひきこもり」向けの支援と接点をもった。
そのうちの一つは、「ひきこもり」の当事者たちが集まって、おしゃべりをしたり、ゲームをしたりして過ごせる居場所だ。
それは基本的に私の助けになったが、行きはじめた当初は悩みがあった。
出かけた先でも家と同じように、社会的な面で「何もしていない」と感じるためだ。
かといって、直接的な就労支援を受けられるような、心身の状態ではなかった。
「友達を作る」ことや「盛り上がる話をする」といった「目的」を持とうとしたが、私はほとんど人と話せなかったため、どれもうまくいかなった。
気力をふりしぼって出かけていっても、まともに発言できない。
場合によっては一人の知り合いもなく、居心地の悪さをひしひしと感じながら、時間だけが過ぎていく。
人の中に〈居る〉だけで、そこにはいたたまれない気まずさがあふれてくる。
居場所の時間が終わり、「何もできなかった」と思いながら、仕方なく、落ち込んで帰宅する。――そんなことが何回もあった。
しかしそれは、本当に「何もできなかった」のではないと思う。
現在の私は、人とそれなりの交流があり、社会的にも心理的にも、以前より自由な毎日を送れるようになっている。
それは就労支援的な援助があったためではなく、居心地の悪い、「何もしていない」居場所をくり返し経験できたためだ。
人との「無意味なダンス」に加わり、人への信頼感のようなものを蓄積することができた。
おそらく「ただ〈居る〉こと」ができていたという点で、居場所にいた時間は有意義だった。
あまり自然に受け入れられる提言ではないかもしれないが、私は〈居る〉ということがすでに大変な行為であり、人の重要な営みだと言いたい。
先ほどの「無意味なダンス」やミラーニューロンの話のように、人の間に〈居る〉だけでも、無意識に多大な体験をしている。
強いて支援的な価値を言うと、「〈居る〉ことを学習していた」といえないだろうか。
「学ぶこと」の語源に「まねぶ(真似る)こと」があるように、人の輪の中にいることで、会話に参加せずとも、人を体感することは起きている。
「居心地が悪かった」としても、「居心地が悪かった」と感じるだけの自分がいて、何人もの人がいる空間で「無意味なダンス」にたどたどしく加わっていたと思われる。
空気感や皮膚感覚という点では、多くの人が日常的に体感していることでもあるだろう。
職場などで直接的なやりとりがなくとも、何となく良好な関係の人もいれば、何となく険悪な関係の人もいる。
その体感の良し悪しによって、居心地の良さ、端的には〈居る〉ことの豊かさはまるで違う。
私は今後、人の間で「何もしていない」と感じるようなことがあっても、落ち込まないようにしたいと思う。
それは〈居る〉ことにまつわる大事な経験になっている可能性がある。
また、人と〈居る〉だけで満足のできる居場所があったなら、その出会いを幸運に思う。
「何もしていない」ことで居心地の良さが感じられるほどの、豊かな関係がそこにあるためだ。
参考 ジェレミー・ベイレンソン 『VRは脳をどう変えるか?』文藝春秋 2018年 / 内田樹・安田登 『変調「日本の古典」講義』 祥伝社 2017年
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執筆者 喜久井ヤシン(きくい やしん)
1987年生まれ。8歳から学校へ行かなくなり、20代半ばまで断続的な「ひきこもり」を経験している。2015年シューレ大学修了。『ひきポス』では当事者手記の他に、カルチャー関連の記事も執筆している。ツイッター喜久井ヤシン 詩集『ぼくはまなざしで自分を研いだ』2/24発表 (@ShinyaKikui) | Twitter