文・ぼそっと池井多
今日5月28日は、川崎市登戸で無差別殺傷事件(*1)が起きてからちょうど一年である。
*1. 「登戸は、川崎市の中央部ではないので誤解を招く」などの理由により、(川崎市)登戸通り魔事件と呼称するのが一般的になってきているが、本誌で一年前に特集したときに使った名称と統一するため、本記事においても「川崎殺傷事件」と呼称させていただく。
被害者のご無念やご家族の方のご心痛は筆舌尽くしがたいであろうが、本稿では加害者とひきこもりの問題のみに焦点を当てさせていただく。
あのときは、事件直後に自殺し、結果的に不起訴となった加害者が「ひきこもり傾向があった」と報道されたことをきっかけに、全国のひきこもりを犯罪者予備軍や暴発予備軍と呼ぶメディアが次から次へと現われたのであった。
メディアは、読者や視聴者にわかりやすさを提供しなければならない。それが、このような展開を招いてしまった一因だったのかもしれない。
厳密には、あの事件の加害者自身が「ひきこもり」を自称したことはなく、逆に「ひきこもりとは何だ」と反駁したと伝えられている。
その事実があるために、加害者を「ひきこもり」と断定し、それを前提として議論を重ねていくことには、ほんらい根本的な問題がある。
しかし本稿では、その問題については、所在に触れるだけに留めておく。
あれから一年も経たないうちに、コロナ禍によって全国、いや、全世界の人口すべてがひきこもりであることを求められるようになった情勢を考えると、状況の変化に驚かざるを得ないが、その変化も踏まえながら、昨年の今ごろ「ひきこもりは犯罪者予備軍」というラベリングをめぐって、ひきこもりである私の周辺でどのような議論があったかをふりかえってみたい。
推移していった「犯罪者予備軍」論
議論は、今から思えば、事件から日数を経るにつれ、3層のフェーズを形成しながら進んでいったように思われる。
最初のフェーズはいうまでもなく、一部メディアによって喧伝された、これである。
フェーズ1
「ひきこもりは犯罪者予備軍である」
それに対して、ひきこもり当事者団体の代表などから、次のような反論がなされた。
フェーズ2
「ひきこもりは犯罪者予備軍ではない」
フェーズ2は、フェーズ1に対する反論であるが、それに対して、ひきこもり当事者たち内部から、フェーズ2への反・反論とも捉えられる議論がいくつか出てきたのだった。この段階をフェーズ3としたい。
フェーズ3の論説は、私から見ると、さらにAとB、二つのグループに分かれる。
そのうち、Aはひきこもり当事者たち内部から出てきた
「いや、ひきこもりである自分は犯罪者予備軍という側面がある」
という苦渋に満ちた
ともすれば
*2. 「混濁する二つの声」冊子版HIKIPOS 第7号 pp.5-6
*3. 「私は犯罪者予備軍である。あなたは?」本誌WEB版HIKIPOS
これらを「フェーズ3A」としておきたい。
フェーズ3A
「ひきこもりである私は犯罪者予備軍である」
もしフェーズ1やフェーズ2が出てきた段階で
「自分は犯罪者予備軍である」
などと名乗り出れば、世俗に浅はかな誤解をされ、無益に傷つくリスクが高かった。フェーズ2の発言者たちも、それを考慮したのだろう。
しかし、時間が経つうちに、人々の視点は深層へ降りていき、事件が持つ本質的な構造があらわになっていった。そのような情勢の変化を背景に、事件をいっそうリアルに解釈しようという希求から、ようやく言葉として出されていったのがフェーズ3であった。
けれども、先に述べた浅はかな誤解を避けるためにも、フェーズ3Aの言葉は、あくまで、
「ひきこもりである私は犯罪者予備軍である。
しかし、ひきこもりでないあなたは犯罪者予備軍ではないのか」
という問いかけを、いわゆる「ふつうの人々」に向けることとセットで発せられなければならなかった。
「犯罪者を差別するから出てくる声」という批判
いっぽう、フェーズ3Aと同じころに、同じくフェーズ2への反論とも解釈できる、このような発言があった。
フェーズ3B
「犯罪者を差別するな」
これだけを聞けば、奇異に聞こえるかもしれない。
これはすなわち、「ひきこもりは犯罪者予備軍ではない」と主張するフェーズ2の発言は、「犯罪者は、自分たちより劣位に序列される人間である」と考える人間観が前提とならなければ出てこない言葉だ、という指摘である。
つまり、犯罪者に対する差別感情があるから「ひきこもりである私たちを犯罪者予備軍と呼ぶな」などという言葉が出てくるのだ、というわけだ。
さらに注目すべきは、このフェーズ3Bの発言の基底には、フェーズ1とは異なった意味で、
「ひきこもりは犯罪者予備軍である。」
という認識が提示されたことであった。
再び「ひきこもりは犯罪者予備軍である」
そのような根拠として挙げられたのが、たとえば2013年に法務省が公表した「無差別殺傷事犯に関する研究」(*4)という報告書の第3章から抜き出した下の表である。
*4. 『無差別殺傷事犯に関する研究』法務省, 2013年
いわゆる「通り魔」などの無差別殺傷事件を起こす者は、犯行に至るまでにどのような問題行動を起こしたことがあるかを調査した数字である。
ひきこもりは自殺企図に次いで多く、23.1%の者が体験している。
「統計は、取り方によってどのような数字も出せる」
などという人もいるが、その真偽をさておいても、これを見るかぎり、
「通り魔になるのは、ひきこもりだった者が多い」
と言われても仕方のない数字である。
またこれは、川崎殺傷事件の直後に語られた、
「ひきこもりの犯罪率は低い」
という専門家からのコメントと、ある意味で真っ向から対立するエビデンスの提示であったと言わなくてはならない。
それでは、このような調査結果を提示することは、ひきこもりにとって、フェーズ1でひきこもりを悪魔扱いした浮薄なマス・メディアに賛同し、自らの首を絞めることになるのだろうか。
言い換えれば、このような調査結果は、世間のひきこもりに対する差別と偏見を助長させるだけなのだろうか。
もしそうであれば、このような現実は見なかったことにして封印し、フェーズ2のように、ひきこもりはひたすら清く正しくおとなしい善人であるように訴えて、前へ進むのがよいということになる。
しかし、私は必ずしもそうするべきではないと思った。
甘い偽りの上に構築した理論は、いずれガラガラと崩れ落ちる日がやってくる。理論を構築するなら、初めから厳しい真実の上におこなわなくてはならない。その方が、最終的にはひきこもり当事者たちにとっても良い環境が整うであろう。
考えてみれば、無差別殺傷という、卑劣で凶悪きわまりない事件を犯した者の多くがひきこもりだったという事実は、ひきこもりになる者が本性として悪であるという結論を導き出すわけでもないのである。
そこから導き出されるものは、フェーズ1でバカな芸能人が口走った「ひきこもりは悪魔の百万人」ではない。
悪魔は、生まれながらにして本性的に悪であることを措定した象徴的概念であるから、「悪魔が悪い」のは何の不思議もない。
しかし人は、生まれながらにして悪であることなどありえない。たとえ悪と呼ばれることがあっても、それが「悪である」ことを確定するわけではないのである。
人は、
それは、知識人たちが好んで議論を持っていきたがる「現代日本社会の病理」などでもない。おそらく古今東西どこの社会にも言える、人間に関する普遍の一つであろう。
周囲から是認され、満ち足りた生活をしている者は、わざわざ通り魔を起こすなどという、ハードな選択をすることはない。する必要がないのである。
逆に、周囲から是認されず、疎外され、抑圧されていけば、まずは社会を遮断し「ひきこもり」となることが考えられる。それが人間として自然な反応だからだ。
それでも状況が解決しなければ、さらに暴発して無差別殺傷事件を起こしたりもするだろう。
したがって、
「通り魔になる者はひきこもりであったことが多い」
という調査結果は、当然の人間的反応の経過を語っているのにすぎないのである。
こうして、フェーズ3では、フェーズ1と同じように、
「ひきこもりは犯罪者予備軍である」
と言われることになる。
しかし、そこから導き出されるものは、フェーズ1とは以下のように逆方向なのである。
フェーズ1では、「ひきこもりは犯罪者予備軍である」と言うことは、ひきこもりがさらに社会から排斥され、疎外されることにつながった。
しかし、フェーズ3においてそう言うことは、ひきこもりを排斥や疎外から救うことにつながるのである。また、私たちがより良い社会を営んでいくためには、そのように導かれなくてはならない。
川崎殺傷事件から一年を経て、奇しくもコロナ禍によって、いわゆる「ふつうの人々」もひきこもり生活を余儀なくされた今、ひきこもりという生活形態が、一年前に非難されていたほど気楽なものではないという事実が、おそらく身体感覚レベルで万人に理解されたことだろう。
そのような環境を得て、いま私は一人のひきこもりとして、改めてこの言葉を申し上げてみたい。
「ひきこもりは犯罪者予備軍である。」
そのうえで、ひきこもりをどう捉えるかを、「ふつうの人々」、……なかでもフェーズ1を発した人々に考えていただきたいと思う。
(了)
ぼそっと