前回のおはなし
インタビュー・構成・文 ぼそっと池井多
第 3 章
「ひきこもり」に特化した親の会を求めて
ぼそっと池井多 奥さまは、気仙地方(*1)の不登校ひきこもりの親の会を2007(平成19)年に立ち上げて、精力的にやっていらしたわけですよね。佐々木さんとしては、奥さまのご遺志を継いで、いま岩手のひきこもり親の会の会長を務めておられるということでしょうか。
*1. 気仙(けせん)地方 岩手県の陸前高田市、大船渡市、住田町、宮城県の気仙沼市の一帯をさす。平安時代より、金や塩の産出で知られ、独特の文化を形成した。この地域の方言は気仙語(けせんご)と称されることもある。
佐々木善仁 さきほど申し上げたように、気仙地方の親の会に関しては、妻が生前、私に、
「退職を迎えたら、これがあなたが本腰を入れてやることよ」
と言っていました。その後、震災があった後に、妻が立ち上げた親の会の皆さんと私が会って、これからどうするかを話し合ったのです。それで、「やっぱりこの会は続いたほうがいい」ということになりました。
「では、私もお手伝いをします」と申し上げて、スタートしました。
以前は、会の名称に「不登校ひきこもり」をつけていました。会員には「不登校」の親の方も、「ひきこもり」の親の方もいたんですが、だんだん「不登校」のほうが多くなってしまって、「ひきこもり」が少なくなってきたんです。
ぼそっと 「不登校」の親御さんが多くなってしまったわけですね。
佐々木 私自身は、「不登校」と「ひきこもり」をまったく違うものとは考えていないのですが、「ひきこもり」の親御さんの中には、話の中身が「不登校」では違ってしまうと感じる方々がいて、自分たちが話しにくいと感じていたようなのです。それで、だんだん「ひきこもり」の親御さんは来なくなってしまいました。それを見ていて私は、
「あ、ひきこもりに特化した親の会が必要だな」
と思うようになりました。
ぼそっと 現在、私たちのいう「ひきこもり親の会」もしくは「ひきこもり家族会」ですね。
佐々木 そのうち、ひきこもり問題の専門家、ジャーナリストの池上正樹さんから2015年に
「いま各地でひきこもりの家族会を立ち上げているんですけど、やりませんか」
というお声がかかりました。
私にはかねてよりそういう思いがあったので、
「陸前高田市でひきこもりの家族の会を立ち上げよう」
となったわけです。
ぼそっと なるほど。会は、どのように始まりましたか。
佐々木 まず、はじめに池上さんの講演会が行われました。30数名集まりました。しかし、ほとんどが支援者でした。宮城県多賀城市から、かつてひきこもりだった経験者の方が来てくださり、講演をしてくれましたが、客席に当事者はいませんでした。当事者の家族も、陸前高田やこの気仙地方ではなく、遠方からの参加でした。
「当事者や家族が出てこない一方では、支援者はこんなにたくさん来る」
ということがわかったわけですが、私は、
「このような状況では、気仙地方でひきこもりの家族会を立ち上げても、すぐに宙ぶらりんになってしまうだろう。少し様子を見たい」
と申しました。
そのうちに2016(平成28)年8月、盛岡で岩手県全体のひきこもり親の会を立ち上げることになったものですから、そちらへも行くようになりました。
この「岩手石わりの会」の発足の日は、ちょうど気仙地方の家族会と重なって、私は行かれなかったのですが、同年9月に行なわれた2回目から参加させていただきました。やがて、創設に関わった代表が体調を崩されたので、私が代理で代表をお引き受けしました。やがて2018年の総会で、きちんと会則なども定め、私が正式に代表になりました。
代表を引き受けるに際して悩んだこと
ぼそっと池井多 佐々木さんは岩手県の端、盛岡から車で片道2時間の陸前高田にお住まいでいらっしゃるわけですが、盛岡という、県のほぼ中央で行われる「岩手石わりの会」の代表さんになられるときに、考えたこと、悩んだことなどありましたか。
佐々木善仁 いろいろありましたね。岩手のような地方では、「車で1時間、2時間の移動」といった距離はよくあることなので、片道2時間という距離についてはそれほど迷いませんでした。しかし……
全国にあるひきこもり親の会、家族会には、それぞれにさまざまな問題がおありで、親御さんたちは悩みながら進路を模索していることでしょう。岩手もまた、例外ではありません。
ぼそっと つまり、岩手の親の会には、岩手の親の会なりに悩みがおありになったわけですね。
佐々木 私の場合、申し上げてきた経緯で代表になったものですから、今ひきこもりであるお子さんを持っていらっしゃる親御さんと、私のようにもうひきこもりの息子を亡くしてしまった親とのあいだでは、活動に対するエネルギーが違うのではないか、と考えました。
ぼそっと それは、たとえば家庭の中で子どもが荒れているような、まさに今ひきこもり問題の渦中にいる親御さんが代表をやった方が、会全体が然るべき方向へ行くんじゃないか、とお考えになったということでしょうか。
佐々木 そういうことです。
やっぱり、目の前の子どもさんを何とかしたいという親の思いは強いですから、できれば、そういう親御さんが代表さんになってほしいと願ったのです。
しかし一方では、問題の渦中であると、親もそちらの方へエネルギーを割かれるかもしれない。もしそうであれば、私のような者が代表を引き受けた方がよいのかもしれない、とも考えました。
また、子どもさんが十年も、十五年もひきこもっていて、日々の進歩が見えにくい中で消耗していて……、ましてや会員の大半がお母さん方、女の方たちなので、誰も「自分が引き受ける」と言ってくれなかった、ということもあります。
ぼそっと 他の親御さんから、代表になった佐々木さんに、
「もっと活動に積極的になり、盛岡にひきこもりの居場所を作ってください」
といった要望のようなものが出ることはありますか。
佐々木 お母さんたちからしょっちゅう出ます。しかし、私に対して「そういうものを作れ」というよりも、公的な機関が私たちの要望を聞いて、「そういう場所を作ってくれたらいいなあ」ということをおっしゃいます。
いまの会員の親御さんたちがみんなで協力し合って、盛岡で居場所を運営すれば、それは可能性としてはできると思いますが、「今の状態では無理じゃないかな」と思います。でも、ほんとうに必要になれば、自然に作られるようになるかもしれず、焦ることはない、と思っております。
ぼそっと 陸前高田ではいかがですか。
佐々木 私自身がいま(2019年3月時点)住んでいるのは、まだ仮設住宅ですが、この2月に、震災後8年経ってようやく高台に土地を確保できましたので、そこにひきこもりの居場所みたいなのを作ろうと思っています。
被災後の新宅を建てる苦労
佐々木 これについては、長男と私のあいだで意見が割れております。長男は教員として、いずれ他の自治体へ行くということを考えているため、陸前高田に持ち家ができてしまうとかえって邪魔だという考えがあるようです。一方、私は持ち家がほしい、と。
初め私は、津波に浸水した地域には家を建てたくないと思い、移転先は高台を希望しました。ところが、長男は「家は要らない」という。一方では、いま一関市に住む妹と同居している私の母が、
「孫が結婚したら家が欲しくなるから、土地と家は確保しておいたほうがいい」
という。
私は四人兄弟の長男なのですが、父親は亡くなっているので、お彼岸やお盆のときにはきょうだいがやってきます。それで泊まる家が欲しい。それで
「兄貴、早く家を建ててけろ」
ときょうだいには言われます。
そんなこんなで、皆求めているものが違う中を、私は調整して決めなくてはなりませんでした。
ぼそっと それは大変ですね。決めるのに、時間的な制約もおありだったでしょう。
佐々木 高台は、造成を完了した時点から2年以内に家を建てる契約をしなければならない、と決められています。それを破ったところで、何も罰則規定はありませんが、私の場合は公務員だったので、「退職金をたくさんもらったのに、いつまでも土地が空き地になっている」
となると、家を建てたくて必死な思いをされている方もたくさんいるのに、それでは他の市民の皆さまに申し訳ないと思いました。
だから、高台を断って、元は浸水域であった嵩上げ地に建てることにしたのです。陸前高田は、沿岸被災地に数ある自治体のなかでも、とりわけ大規模な嵩上げを選択した市です。
ぼそっと 津波が浸水したところへ新しいお家を建てるならば、「2年以内」というタイムリミットは考えなくてよいのですね。
佐々木 ええ。嵩上げ地は、そういう時間的な制限はなくて、家はいつ建ててもいいのです。だから嵩上げ地を希望しました。それで今年の2月です。私は遅い方でした。
昨日(2019年3月11日)も、妻や次男の遺体が見つかった場所に花を手向けたあとに、長男に、
「前の家があったのはこのへんだな」
という話をして、それから、
「自分たちが与えられた新しい家の土地はここなんだよ」
と、いちおう実地を見せたのです。
ぼそっと ご長男は、何とおっしゃいましたか。
佐々木 長男は何も言いませんでした。
そのとき私は、
「ついでにここに、陸前高田のひきこもりのための居場所も作りたい」
と言いました。その件についても長男はとくに何も言いませんでした。
長男は、いまは教員ではなく、社会福祉士をやっていて、介護施設で働いています。しかし将来は、そこではなくて、教員を目指しているのだと思います。いま岩手県は児童数の減少が著しいので、教員の採用はどんどん厳しくなっています。だから長男は、教員になるために首都圏に行くことを考えているのではないか、と思っております。
親が親のために生きるとは
ぼそっと 今は仕事に没頭していて、ひきこもりの子どもと向かい合うことから逃げているような、全国のお父さまたちに何か伝えたいことはありますか。
佐々木 私は、きちんと向き合ってこなかった人間なので、そういうお父さまたちに、「こうしたらいい」などと上から目線で何かを言うことなどできません。しかし、こういうことがあります。
先日、盛岡で行われたひきこもりに関する対話交流会で、
「子どもには子どもの人生があるから、あんまり親亡き後のことまで考えなくてもいいんじゃないか。ひきこもりの子どものためには、親は限られた人生を、自分のために生きるのがいいのだ」
という声が若い当事者たちから出る一方では、
「親が親のために生きてしまうのは、つらい話だ」
と思っている当事者もいるんだな、ということが分かりました。
ぼそっと そうなのですね。ひきこもりを持つ家庭の問題には、数学のように、誰にでも有効なわかりやすい公式がない、ということがあると思います。できるだけ多くの事例を聞いて、自分の頭で考えていかなくてはならないですね。
たとえば、私などは、母親がいつも自分のことしか考えない人だったので、私という当事者の口から「親は親の人生を生きればいい」とは言いたくありません。子どもの私にさんざん「人は責任を取るものだ」と言ってきた親なのだから、子である私から、
「自分のやったことの責任を取ってください。自分の好きなことだけやって、しまいには死へ逃げてしまおうなどと思わないでください」
と言いたいのです。
佐々木 一方では、親としては、
「我が子をなんとかしなくちゃならない」
という親の思いもわかるので、
「親は親の人生を歩め」
と聞いたからといって、
「はい、そうですか」
とすぐ翌日から割り切って、自分の子どものことをさっぱりと気にしなくなる、というのはやはり無理な話だと思います。そのへんのところを本音で話し合えればいいのかな、と思いました。当事者たちと本音で対峙すればいいのかな、と。
ぼそっと そうですね。
佐々木 親が親の思いを言っても、まったくかまわないけれども、当事者の気持ちもちゃんと聞く。親は親の言い分、子は子の言い分をお互いに言い合う。よくわからなくてもいいから、せめて「そう考えてんだ」というところまでお互いに知る。他のお父さまたちには、そこまでの向き合い方をしていただきたいと思います。
「いつか向き合おう」と
佐々木 「人生は長いから、いまは子どもと向き合うことがなくても、いつかは向き合うことがあるだろう」
と、たいがいの親御さんは考えて生きておられるのかもしれません。しかし、それはある程度「先」があることが前提の考え方です。実際は、地震や津波のように、とつぜん何が起こるかわからないのです。
だから、そういうことを考えると、「いつか」「あとで」というのではなくて、思い立った時にやるということが大切だと思います。それによって、その時は波風が立ったりするかもしれませんが、そう思った時にやるのがやはり一番です。
それをしなかった私などは、すごく後悔しているので。
子どもと向かい合って、きちんと話しておくということこそ、価値があるように思います。親の本音を話すことによって、子どもも、親の気持ちもわかりながら、自分の本音も話す。
「親の考え方は変だな」
と子どもが思ったとしても、親の気持ちを理解することが、お互いの気持ちが通じることにつながるので。
ぼそっと 「後悔がある」ということを、佐々木さんは盛岡でおこなわれた対話交流会でもおっしゃっていましたが、具体的に、どの時にどんなことを言っていれば、という後悔なのでしょうか。
佐々木 それはわかりません。私はほんとうに
「我が息子だから、どうにかなるだろう」
という楽天的な考え方で来たので、
「あの時にああ言えばよかった」
とはほとんど思わないのです。
私は朝早く家を出て夜遅く帰ってくるし、息子は昼頃起きて夜早く部屋に戻ってしまうし。一年に2回ぐらいしか会わない年もありました。
たまたま日曜日に学校行事があって、月曜日が休みで、私が家にいる時に、昼ごろ部屋から出てきた息子と会うというのが、せいぜい一年に1回か2回でした。
息子に「おはよう」が言えない
ぼそっと いつも同じ家の中で暮らしている息子さんと、久しぶりに顔を合わせるのは、どんな感じでしたか。
佐々木 仁也は、プライドがあるのか、いつもと違って家のなかに父親がいるとわかっても、行動パターンを変えようとしないのです。
いつもと同じ時間に起きてきて、いつもと同じように飯を喰う。そうすると、私は息子に「おはよう」とか「こんにちは」とか声もかけられなかったのです。もうドギマギして、何を言っていいかわからなかったので。
具体的に何が後悔かというと、そんなところですね。せめてふつうに「おはよう」とか「やあ、こんにちは」とか言えばよかった、と。しいて言えば、そういうふうに普通にしゃべれなかったのが後悔です。
今は長男と二人で住んでいますが、朝に顔を合わせても、自分の息子に「おはよう」なんて言わないですよ。何なんでしょうかね、これは。自分が小さいころは「おはようございます」とか家族に言っていたんだけども。
私から長男へは「おはよう」も言わないし、ましてや深い話はしない。震災の時の話も、長男が取材を受けているところを横で聞いて、初めていろいろな事実を知ったくらいですから、ましてやその他の深い話はしないのです。政治の話とかはするんですけどね。そういう性格なのかもしれません。もしかしたら私が自分に自信がないのかもしれませんね。
いま、語りかけること
ぼそっと 昨日は8年目の3.11で、奥さまと仁也さんが亡くなられた場所に花を手向けられたということですが、どのようなことを心の中で奥さまや仁也さんと会話されていましたか。
佐々木 「また来たよ」ということですかね。
「われわれは元気でいるからね」って。
東日本大震災が近づくと、メディアがしきりとそのことを書くので、つい気持ちがザワザワとして、ふだん考えないことも考えるのです。時間が経つにしたがって考えなくなってきたようなことも。
最初のころは、もう無我夢中でした。今後のことも考える余裕もなく、ただ生きることに無我夢中で、あのときの仁也や女房の様子とか、私の場合はあんまり考えなかったのです。
ところが、たとえば今年の3.11には、
「津波が来た時に、仁也はどんなこと考えたんだべか。逃げなかったことを後悔したんだべか」
などと考えました。
すると、考えはだんだん遡って、
「ああ、仁也が中学校のとき、そのまま仁也を陸前高田に置いてもらうように、おれが親父を説得していれば、仁也は不登校にもならず、ひいてはあの齢でひきこもりでいることもなく、津波に呑まれることにもならなかったんじゃなかろうか」
などと後悔が沸き起こってきたのです。
いつだったか、恐山のイタコに会いに行って、仁也を呼び出してもらったことがあるんですよ。「津波に呑まれて、耳や鼻から砂が入ってきて、つらかった」と言っていました。「そうか。つらかったか」と…。
あるいはまた、女房については、私はほんとに亭主関白で、女房が風邪をひいても、私は朝ご飯も喰わないで、ただこうやって待っているんですよ。すると女房はもう仕方なく、咳をしながら起きてきて、私のご飯を作ってました。それくらい、ほんとにひどい亭主だったんです。
そして、女房が「おいしいか」と訊いても、私は「こう、全部平らげたのはおいしい証拠だ。そんなことわざわざ言わなくちゃいけないのか」と言わんばかりの態度で座っているだけでした。「おいしい」って素直に言ってやらなかったんですよ。
もっと女房にはやさしく声をかけてやればよかったのにな、とすごく後悔しています。今は、私が長男に朝晩作っています。
ふだんはあんまり考えませんが、3.11が近づいてくると、そのようなことをたくさん想い出します。
月命日である毎月11日は、何かの仕事が入ってこないかぎり、私は必ず小友町にある、東日本大震災で亡くなった人たちを慰霊するお地蔵さんへ行って、お参りしてくるんです。そこから帰ってくる道々、いつも
「ああ、もっと女房を大事にすればよかったな」
などと考えます。
女房が、私との、このような夫婦生活に嫌気をさして
「熟年離婚だよ」
と言ったことがありました。だから、今のこの生活は、一種の熟年離婚なんだろうな、と考えることもあります。
ぼそっと ことさらご自分に厳しい考え方をされているようにも思いますが……。
よく記憶の風化などということが言われますけども、こうして佐々木さんのお話をうかがっていますと、記憶のよけいな部分が、歳月が経つにつれ濾過(ろか)され、削ぎ落されて、ほんとうに大事な記憶だけが精錬され残っていくのではないか、という印象をいだきますが、いかがでしょうか。
佐々木 そうですね。そうおっしゃっていただくと、私も「そうなんだな」と思えます。
(完)
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